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フッサール《生活世界》とはお化けの支配する場ですか
《生活世界》というのなら 誰もが日から日へおのが人生をおくるその現実の場ではないのですか? そうではなく すでにその現実の生活に先行して(時間的にではなく考え方として先行して)存在しハタラキを持つ何かなのですか? ・ 前・述語的判断 ・ 能作 ・ 現象学的還元 ・ 純粋意識 ・ 本質直観 などについておしえてください。
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「生活世界」については「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の第3部、aで論じられているから参照のこと。 前述語的判断は「経験と判断」の第1篇「前述語的(受容的)経験」と第2編「述語的思考と悟性対象」を参照のこと。 「能作」の概念は「受動的総合の分析」の第3部、第3章「触発的覚起の能作と再生産的連合」を参照のこと。 「現象学的還元」はすでに言っているように.「現象学の理念」と、「イデーン」第1巻、第2編、第4章「現象学的還元」を参照のこと。 「純粋意識」については同じ「イデーン」第3章、「純粋意識の領域」を参照のこと。 また、意識の本質としての「志向性」については「論理学研究」の第2巻の5「志向的体験とその内容」を参照のこと。 「本質直観」については同じ「イデーン」第1編「本質と本質認識」の第1章、「事実と本質」を参照のこと。 フッサールを読まずして勝手な憶測はしないこと。 私から説明するよりも、直接フッサールの著作を読んで確かめるのが先決。 私はヤフーの哲学カテで回答するのが忙しいから、いちいち説明していられません。
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- urigadai2013
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フッサールの「経験と判断」でいう、前・述語的判断について、ちょっと説明しておきます。 判断というのは基本的に主語と述語からなっています。 例えば「ソクラテスは人間である」という命題があるとして、ソクラテスが主語、人間が述語です。 そして、そのような命題、あるいは判断には、その主語が存在している、という信念が伴っています。 もし、ソクラテスが存在しないとしたら、そもそもそのような命題とか判断もあり得ないでしょう。 あなたが「そこに富士山があり、富士山は日本一の山である」といったとします。 その場合、あなたは富士山が存在しているという信念があって、その上でそういうことを言っているわけです。 すべての判断には、その主題が存在しているという信念が伴っている、それをフッサールは前・述語的判断といったのです。 私たちは世界が存在している、そして私が存在している、という信念、これをフッサールは「存在信憑・世界信憑」といっていますが、私たちが判断したり、行動する場合には、その物が存在しているという信念、「存在信憑」が先行しており、その上で判断がなされたり、行動がなされたりしているわけです。 なーんだ、そんなことかと思うかもしれませんが、その当たり前のことをフッサールはちょっと難しい言葉で、前・述語判断といったわけです。 だけど、哲学は無前提から出発しなければならないのですから、その場合、世界が存在している、私が存在している、という信念、「存在信憑」があるとしたら、それは哲学を考えるうえで障害になります。 だからフッサールはそれを否定するわけではないとしても、その信念を「中和する」必要があると考えました。 それが「現象学的還元」です。 私たちは世界が存在している、私が存在しているという強い信念を持っているのですから、それを中和するためには世界は存在しない、私は存在しない、という反対の強い信念を対抗させなければなりません。 実際に、世界が存在しない、私が存在しない、と思ってはいないとしても。 この判断にはその主題が存在しているという信念を伴っていることをデレク・パーフィトとクワインは「チャリティーの原則」といいました。 人が何か発言するときはその主題が存在している、あるいはその言明が正しいという信念があるのでなければならない、ということです。 自分がそれを間違っていると思っていて、発言してはいけない、ウソをついてはいけない、それが原則だということです。 あなたが「富士山は日本一の山である」といったら、それはウソでなく正しいという信念を持っていなければならない。 もちろん、ウソをついて、自分はそれを正しいと思っていなくても、そういう発言ができるけど、基本的には、原則としては、ウソをついてはいけない。 同じようなことを言ったのに、英国の哲学者・フランク・ラムジーの「真理の余剰説」があります。 前の例でいえば「富士山は日本一の山である、は正しい、真理である」というもの。 だけどそんなことをわざわざ言う必要はない、すでに「富士山は日本一の山である」といった時に、それが正しい、真理であることが含まれている。 すでに含まれているのだから、わざわざそれを「・・・・・正しい、真理である」なんて言う必要はない、そんなことは余計なことだ、それをラムジーは「真理の余剰説」といったのです。 まあ、当たり前の話です。 それと同じ、フッサールの言っている、私たちが何かの言明をなすときに、その主題が存在するという信念を伴っているというのも、当たり前の話です。 そもそもそのものが存在しないと思っていたら、そういう言明をするはずがありません。 そしてフッサールはすべての言明にはそのものが存在するという信念が伴っているという「存在信憑」を「世界」といったのです。 「世界」というのは「存在信憑・世界信憑」の体系のことです。 それは私たちの知覚にも言えます。 私たちがあるものを知覚する、あるものを「見る」ということには「存在信憑」が、そして「世界信憑」が伴っています。 だから、あるものが見えているときに、見えているから存在する、なんていう必要はないのです。 知覚する、見ている、その時はすでに、その物が存在するという信念を伴っているのですから。
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うりがだいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ すべての判断には、その主題が存在しているという信念が伴っている、それをフッサールは前・述語的判断といったのです。 ☆ なあんだ。そんなことだったんですか。 だって それだったら 文表現というもの(こと)に関しての前もっての取り決めとして(あるいは 命題を語る話し手の前もってのひとつの想定として)そういう前提があると見なすことにすれば 何でもないことではないのですか? 話し手(主体) : 主体の自己表現としての文(命題) 文(命題・判断): 主題(問い)+論述(答え) _________________________ 文例 : 富士‐ハ 日本一の山である。 __________________________ 話者格〔我言う〕: 主題格 + 論述格(答えとしての主題格) 〔話者として主題を主格に立てますよ〕: 主格(富士‐ガ)‐述格(~~~である。) 文表現には 文外にと言いますか 文を統括する主体がいて 言わば機械仕掛けででもどんなモノゴトをも主題に取り上げ主格(主語)に立てることができます。 このような表現の仕組みのことを《前・述語的判断》と言うのでしょうか。だとしたら なあんだです。 フッサールは その《話者格》のからくりのことを 《信念がある とか 存在信憑・世界信憑》というふうに説明しているのですか? なんと大げさなる男よ。 ★ なーんだ、そんなことかと思うかもしれませんが、その当たり前のことをフッサールはちょっと難しい言葉で、前・述語判断といったわけです。 ☆ 《なーんだ》と確かに言いました。 そのあとの次の問題は いただけません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ だけど、哲学は無前提から出発しなければならないのですから、その場合、世界が存在している、私が存在している、という信念、「存在信憑」があるとしたら、それは哲学を考えるうえで障害になります。 だからフッサールはそれを否定するわけではないとしても、その信念を「中和する」必要があると考えました。 それが「現象学的還元」です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 文としての表現をめぐる人びとに共通の約束事としておけば いちいち《中和する》必要はないと思いますよ。そうではないでしょうか。 ふつうの自然本性として――という意味は わたしのようにいつも能天気でいると―― いちいち中和する必要などはさらさらありません。初めっから 中和されています。中立自然の境地でいます。 《話者格》の想定があっても――それがあたかもデウス・エクス・マキナのごとくハタラキを起こすとしても―― 何ら《障害》にあるようなことはない。と言っていいはずですよ。フッサールくん おくれてるウ。 ★ デレク・パーフィトとクワイン ☆ も フッサールに変わらず 大げさな男たちですね。 ★ 「チャリティーの原則」:人が何か発言するときはその主題が存在している、あるいはその言明が正しいという信念があるのでなければならない、ということです。 ☆ 前項つまり《話し手が 表現および判断の主体として 文において主題を提示する》という仕組み これは そのとおりです。 後半の事項は どうですかね。その言明は 自分の主観にあってはただしいと だいたい思っているでしょうね。ただし 間違っているかも知れないという思いがある場合もあります。さらには けっきょくウソを ウソだと知っている場合にも つくときがあります。 このようにただしいという信念がうすい場合にも そのような信念の欠けが 文による自己表現を妨げるものではありません。それは 相手との対話における言わば弁証法過程を想定し前提していると考えられます。 そこにさらに色をつければ 人間関係における信頼という要素があります。(あるいは むろんインチキやペテンをはたらくという場合も あります)。 判断についての確信があやふやであっても 相手との縁起共生の場であり道であるとして 《信念をもって》表現におよぶ場合はじゅうぶんあります。《自分ひとりによる信念のただしさ・確かさ》に閉じ籠って コミュニケーションを論じることはないはずですよ。《自由》を信頼してもよいでしょう。 パーフィトもクワインも知りませんが 何だかしゃちほこばった中学生たちの学問を聞いているみたいですよ。 ★ 自分がそれを間違っていると思っていて、発言してはいけない、ウソをついてはいけない、それが原則だということです。 ☆ これは 完全にマチガイです。表現の自由を知らな過ぎます。哲学は 不法行為の起こり得ることを前提にして 理論をかたちづくります。 かくなる上は フッサール批判にうりがだいさんも まわってください。
サッカーみたいなやつですか? 本質直感 運動神経 でしょうね。
お礼
【Q:現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7034634.html これについては 問い求めたことがあるのです。 でも必ずしも さだまった答えが得られたわけではない。 そして 今度は うりがだい氏から もっと《神秘的な》内容の《生活世界》の議論が出たので いろんな概念をひっくるめて尋ねるかたちとしています。 本質直観。――ううーん。つまりは まづエポケーという判断中断をおこなって みづからの意識のみの世界に入る。これが 純粋意識です。そこで得られる直観のことを言うのでしょうね。 生活世界も 生活と言いながら どうもそのような《純粋世界》のことを言うらしい。 と言っても これらは 推測ですので 割り引いて捉えてください。 ご回答をありがとうございます。
気になる・・・ 何故に 質問なのか・・!?ってのが・・・ だって 理解出来て無いって事でしょ・・・ 俺 パソコン始めて3年目・・ 此処のサイト 見つけたのが2年前・・ その頃くらいから あなたや他の人( z等)見てるが ちーっとも進歩しない・・
お礼
ぢゃあ その後のやり取りの展開を見て 解説でも結論でも書いてくださいな。ご回答をありがとうございます。 ☆☆(【Q:フッサール現象学とヘーゲル現象学の違いについて】回答No.2)~~~~ ◆ (No.1お礼欄の要約としてこちらが編集したもの) じつはこれは 神秘思想なのだ 体験した者でなければ分からないところがある。 ☆ という説明を聞いた――つまり フッサールの《生活世界》について――としか思えないのですが どうですか? 神秘主義の思想家は 幾人か出たようですが その神秘哲学の問題点については もともと神秘的なナゾを容れた信仰を論じたパウロから明らかにされています。それは 《異言(シャリバリ≒アブラカダブラ)》のことです。 ▲ (パウロ:コリント前書 12章 10節) ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。 ▲ (同 14章 02節) 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。 ◆ メルロー・ポンティは「知覚の現象学」の中で、フッサールの「生活世界」を「現象野」と言い換えていますが ☆ メルロポンティを知らないので分からないのかも知れませんが――そして メルロポンティについては 心のウワベにおける現象としての心理学に片向いているという印象をしか残念ながら持っていません―― なおまだ《預言 すなわち 解釈》が必要であると考えますが 横着でしょうか。 ◆ 私たちは世界の中の対象を関心とか知覚によって捉えていますが、それはほんの一部で、知覚的世界はそれを意識していないけれども、もっと広大なもので、その広大なものの中から、関心を持つものだけをピック・アップして、それを構成して世界と称していますが、それは世界のほんの一部です。 ☆ これだと やっぱし《神秘》の領域はそのままにして かろうじて全体の見取り図を作成したといったところです。 この概念図から《ナゾナゾ》をカッコに入れて ほかのところで説明のあった《見えるものと見えないもの》についてはそれを解釈しようとすれば――いやしくも《生活》と言うからには―― ふつうに人間の生きて見て知っているその社会生活のことだと捉えることに マチガイはないでしょう。たとえば パスカルです。 ▼ (パスカル:幾何学の精神と繊細の精神) ~~~~~~~ 幾何学の精神( l'esprit de géométrie )と繊細の精神( l'esprit de finesse )との違い。 前者においては 原理は手でさわれるように明らかであるが しかし通常の使用からは離れている。したがって そのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへあたまを向ければ 原理はくまなく見える。それで 歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり 見のがすことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて 推理を誤ることはない。 ところが繊細の精神においては 原理は通常使用されており 皆の目の前にある。あたまを向けるまでもないし 無理をする必要もない。ただ問題は よい目を持つことであり そのかわり これこそはよくなければならない。というのは このほうの原理はきわめて微妙( déliés )であり 多数なので 何も見のがさないということがほとんど不可能なくらいだからである。 (『パンセ』 前田陽一・由木康訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この世界認識も 《見えるものと見えないもの》を説明しています。納得が行きます。 つまりは 《繊細の精神》のはたらく領域というのは よくもわるくも言わゆる《空気》のことです。ふるくは《以心伝心》とも言ったような。 ◆ そして私たちは生きる上で、そうした目に見えない「生活世界」を受動的に、非・志向的に、これをフッサールは「志向性」に代えて、日本語訳では「能作」といっていますが、「能作」によって受け入れて、その中で生きているのです。 ☆ という説明を聞くと あれっ 《繊細の精神 または 情感の共同性ともよぶべき情況域》のことかと一瞬思いますが その次の説明を聞くとやはり違っていると思われます。: ◆ フッサールはそれを「経験と判断」といいう本で、前・述語的判断と言っています。 / 前・述語的とは、私たちが判断する前に既に判断してしまっているということです。 ☆ そんなわけはない。よく知らないで言いますが あたかもM.フーコの《エピステーメーに則ってどこにでも噴出して来る言ってみればなじみ深いような身の周りの権力・支配欲》のことかと錯覚しましたが そんなわけはない。 まづ 《情感の共同性》ともよぶべき所謂るクウキ これによって人びとはたいていは支配されます。その・えも言わずに醸し出されたクウキの動向にわれわれは 従わざるを得なくなるのが つねです。しかもそのことは《前・述語的判断》をしていることを意味しません。 クウキなるものは 一般に横暴であるとわたしたちは知っているからです。きちんと判断をしています。その判断をそのまま実行し得ないからと言って そのクウキにわれわれは奴隷となっているわけではない。 (奴隷は自由を奪われていると言うとすれば それと同じように主人も奴隷の存在に嫌が応でも依存しておりそのぶん自由を奪われています)。 といった話をしたとしても 《生活世界》は もっともっと《深ーぁいナゾに満ちた領域》なのでしょうか? ◆ あなたはヘーゲルも「生活世界」を視野に入れていました、といいますが、私はヘーゲルが自然的な意識、自然的世界から、「現象学的還元」を経た、現象学的意識、現象学的世界に転換しているとは思いません。 ☆ というように現象学的還元が 欠かすべからざる哲学のコツだとしますと なおしっかりと説明していただかなければならない。こう考えます。 (そのむかし おれはこの上なくとうとい知恵のさとりを得たと宣言して ついにその内容を明らかにせずただただ大化城なるまぼろしを見せ続けて人びとを引っ張った――そしていまでもそれに溺れる人間がいます――そのペテン師のマジック仕掛けと変わりないということになるでしょう)。 (カントだって 物自体を言うだけで 神秘はそこまでにとどめました。良心的です)。 ◆ あなたは世界が存在していると思いますか? そして私というものが存在すると思いますか? ☆ 《世界》と言って指し示すものは何か? これについてわたしたちは みなが一応共通の了解を得ている内容があります。けっきょく意識された・また意識されうるものごとのすべてのことです。 わたしは 実存思想に立ちますから この共通の理解があればあとは その言葉その概念を用いて互いに意志疎通する。これで じゅうぶんだという見解に立ちます。 そのようにしてすでに実存していれば 一生を終えるようになったとしても悔いは残らないと思っているわけです。むしろ そのようにして――現実の背後の《神秘に満ちた生活世界》なる《本質》(?)には目もくれずして―― 現実を生きることが 人としてのわたしという存在であると思っているわけです。 けれども この実存思想は ◆ 私はもしかしたら存在しないのではないか、と思っているんです。 ☆ という自由度をふくんでいますよ。なぜなら・そしてまたはその内実は それが《有限なる経験世界 プラスα》としてのナゾ(非知)のことだと知ったからです。わたしの用語で 《非思考の庭〔なるあたかも心としての動態〕》のことです。 (ヘーゲルは この非思考の庭のことに触れているはずです。〔狭義の〕自然的なるものは この無限と有限とのあたかも一体を持っていないか または持っていてもそれに我慢ができないと)。 (ブディズムの名誉のために言えばブディストらは この《プラスαとして自然を超えたところのふつうにおだやかな自然本性》のことを ブッダター(仏性・如来蔵)として打ち出しています。ただしこれは ブラフマ二ズムにおける《アートマン(霊我)》と同じものです。プシュケー・トゥー・コスムー / アニマ・ムンディ イデア 物自体 世界精神・・・)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり 表題に【Q:フッサール《生活世界》とはお化けの支配する場ですか】と書いたのは そんな《お化けの支配する世界》を理論としたのですか? と問うています。皮肉っています。そういう意味に採ってね。
お好きに・・ 質問や お礼等 こっちは見て無い・・・ あなただから 毎回質問ばかりだなぁーって 思っただけ・・ 普通 学問は それなりの本を買えば 答えが書いてるよ・・・
お礼
そんなに気に成りますか? 鼻につきますか? がんばって 哲学としてまた度量として追い抜いて行ってください。 ご回答をありがとうございます。 (つまり むろん わざと余計に鼻につくように表現したのですよ)。
哲学って 自分では調べたり勉強したりしないで 他人にばかり 聞く学問なのか!? 他の学問は 自力で一定までは 到達する場所までは行かないと 駄目なものなのに・・・
お礼
【Q:フッサール現象学とヘーゲル現象学の違いについて】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8999672.html ☆☆ (その回答No.1)~~~~~~~~~~~~~~ ヘーゲルは とにもかくにも 《無限なる場ないしチカラ》と《有限世界》とを区別していると考えます。 この区別に立てば 世界精神と〔ふつうの精神の持ち主である〕人間とを地続きだとは見ない。とすることが出来るなら 《有限なる経験世界》とそのプラスαとしての《無限・世界精神》とを合わせた現実としての・ふつうに一般的な《社会生活》をも見つめているでしょう。 つまり 無理なく――上の意味での――《生活世界》をも視野に入れています。 つまり この意味での生活世界は いちいち ◆ 最終的に私たちの目から見えなくなってしまった「生活世界」を現象学によって再発見し ☆ たというその対象とするのは 何とも現実から離れているように見えて仕方がありません。何を言っているのか? と。 ついでに触れておくなら 《純粋意識・本質直観》というのも けっきょくあたかも《負のイデア》?)のごとくであり・あるいはイデアのネガ(陰画)のようであり そうは言いつつも けっきょく何のことかよく分からない。と考えます。 ◆ 世界の存在、「生活世界」が私たちの人生の根底にあって、私たちがそれに生かされていることを発見した ☆ この命題もあいまいです。 一方で 生活世界を現実として捉えるのなら それは初めから私たちと共にあった。わたしたちが社会にあって生活するのであり その生活した結果がまた歴史が わたしたちに影響をおよぼす。ごくふつうの世界であるはずです。 もう一方で 生活世界は《私たちの人生の根底にあって 私たちがそれに生かされている》という見方を採るなら どうなるか? いったい何のことか? あたかも大地に潜む守護霊といったイメージなのですが いったいどういうものなのでしょう? イデアの世俗版? ◆ (そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ それとフッサールの「生活世界」がちょっと説明が曖昧だという点は、私の説明が下手なせいで、フッサールの責任ではありません。 メルロー・ポンティは「知覚の現象学」の中で、フッサールの「生活世界」を「現象野」と言い換えていますが、私たちは世界の中の対象を関心とか知覚によって捉えていますが、それはほんの一部で、知覚的世界はそれを意識していないけれども、もっと広大なもので、その広大なものの中から、関心を持つものだけをピック・アップして、それを構成して世界と称していますが、それは世界のほんの一部です。 そして私たちは生きる上で、そうした目に見えない「生活世界」を受動的に、非・志向的に、これをフッサールは「志向性」に代えて、日本語訳では「能作」といっていますが、「能作」によって受け入れて、その中で生きているのです。 フッサールはそれを「経験と判断」といいう本で、前・述語的判断と言っています。 前・述語的とは、私たちが判断する前に既に判断してしまっているということです。 後期フッサールは純粋意識による構成的現象学から、発生的現象学に転換しました。 晩年にフッサールは膨大な遺稿を残して死にましたが、メルロー・ポンティはそのフッサールの遺稿を研究して、のちに「知覚の現象学」とか「見えるものと見えないもの」という本を書きましたが、フッサールによれば「生活世界」は17世紀のガリレオの数学的自然科学によって世界は数学の「理念の衣」で覆われてしまい、私たちには見えなくなってしまったのです。 それを見えるようにするには「現象学的還元」という方法を必要としました。 メルロー・ポンティが「見えるものと見えないもの」という場合の「見えないもの」とはそのフッサールのいう「生活世界」のこと、メルローでいえば「現象野」のことでした。 あなたはヘーゲルも「生活世界」を視野に入れていました、といいますが、私はヘーゲルが自然的な意識、自然的世界から、「現象学的還元」を経た、現象学的意識、現象学的世界に転換しているとは思いません。 ヘーゲルは、この世界の存在と私の存在をデカルトと同じように懐疑的に見ていたとは思いません。 ヘーゲル哲学は世界の存在と私の存在を自明なものとして、それを基礎に世界を概念的に構成しただけです。 「生活世界」というのは確かに曖昧ですが、でもそれを見出すのは至難の業なのです。 なんと言っても、「現象学的還元」の方法を理解する人が少ないというのでは、なおさらです。 フッサールは大学で1学期を費やして学生に「現象学的還元」がどういうものか説明しましたが、誰ひとりそれを理解する人がいなくて、1学期が終わる頃には学生がほとんどいなくなったと言われます。 フッサールはそれを「現象学の理念」という小冊子で、説明していますが、それを私は昔読んで、初めて「現象学的還元」というものが何であるかを教わり、目が覚める思いを味わいました。 メルローは、現象学的還元という反・自然的な考えに思考を集中するのは、そんなに長続きしないと言いましたが、確かに数分しか続けられませんでした。 それほど難しいんです。 ただ、それによって開かれてくる世界は驚くべきものです。 私はそこから、世界はなぜ存在しているのか? とか、世界は存在しないのではないか? とか、私って存在するのか、もしかしたら存在しないのではないか? 私って誰? という疑問に襲われました。 私にとってフッサールの「現象学的還元」を知ったこと、それが哲学の出発点でした。 あなたは世界が存在していると思いますか? そして私というものが存在すると思いますか? 私はもしかしたら存在しないのではないか、と思っているんです。 フッサールの「現象学的還元」によって、考えるようになって。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というやり取りを継いでの質問です。 ご回答をありがとうございます。 でも この辺までは調べて考えましたというとき あとは丸投げでも質問してよいでしょうよ。
お礼
これは ご回答をありがとうございます。 ★ 私はヤフーの哲学カテで回答するのが忙しいから、いちいち説明していられません。 ☆ こちらは 余力とか余滴といったところでしょうか。 まぁ 仕方がないとあきらめましょう。 『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を途中で放り投げた口です。 だって いつまで経っても 玉ねぎの芯には到達しないんですから。 また機会がありましたら。