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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:もののあはれ――あは!という感嘆――というエポケー)

もののあはれ――あは!という感嘆――というエポケー

このQ&Aのポイント
  • あはっ! ( Ah ! , Oh ! )という感嘆の声にすべての現象は還元される。
  • アハは感動や嘆きを表現し、ものごとの根源を知覚したことを指す。
  • もののあはれを知るとは、一般的な常識や先入見を取り払い、直感や直観によって知覚することを意味する。この境地では、社会的な身分や人為的な現象を超えてものごとを見ることができる。

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noname#140926
noname#140926
回答No.1

アホです秋ですこんばんはさむいですね くおりあ拾いが現象学ですか さとりは純化された語感で物事や自分を埃みたいに霧散させてみるようなまったく弱化させてみるまなざしやら気分やらかと思ってました。完全な傍観というか老子の 日比野さとりは能動的であいかわらず地味対話革命で、憔悴してる私はイメージしようとするだけで疲れますが、どうせなにもできないし 日比野さとりは仏教ほとんど関係なしで人が目指すべきような態度はこんなんだとやっぱり訴えているんですか 今ここ 職安にいく気力もありません 望ましいものにはなりたいのになに望んでいるかも分かりません ひとから認められたり誰かから選ばれたりはしたくて全く受け身の恋愛願望 あれが人としての理想形だよねと草食がかった人々の向いている先に立ちがちな釈迦の、悟りって、体系のことにも気づくことらしいなら権力体系を察知することは犬らもしててヒエラルキー(懐かしいです) あらゆる体系のうちヒエラルキーという人間相互の権力体系ばかりをとりわけ重視し、それにとらわれたり 釈迦の生きた時代と場なら更に輪廻という死生観体系への過剰な盲目的妄想的な着目があり 体系どうしの体系ができて、ある体系が他の体系を隠そうとするので、粒に還って目を開いたり閉じたりしてみると、その他のあらゆる体系やその外側にも、自分や他者の全体や一部が属しうるのだと(こどもの頃を)思い出して悟り 自分や存在や群の自由度を高める悟りにべき論といえるほどの強さがあるか知らない 国があって、日本なんかを中国が呑もうとするので日本軍や愛国心の強化を唱える右翼や西村真悟さんや聞き上手先生(44)。 他国に呑まれようが暮らしにさほど変わりはあるまいと思いつつ しかし放射能を自国民に浴びせて平気そうな日本の官僚や政治家はたぶん最低だけど もしさらにこれが中国やアメリカに呑まれた場合、中国やアメリカの官僚や政治家はもっと嫌な扱いを日本の民にするかもしれない、国家という体系に粒子が潰され 人への悲観 吉田戦車という漫画家が、被災地の中学生に授業しながら、味方になる大人は無数にいることを伝えたいらしい。そういう人間にたいする加算的な、肯定的まなざしが、無力で無為な私にない 味方にならない人々もいるし、体系にはまると体系の利益にならないことには酷なふるまいをする 体系というパワーがないと無力でしかなかったりする 体系というパワーの中で失うものも 人間らしさは何も指さない言葉 医者からシゾイド気味かもと言われ私は心が薄い なにかの体系・組織かあらゆる体系に属し波のうねりに荷担しつつ、どう時にあらゆる体系の外にあるという、属しきらない限定されないものであるという、やがてほどけて体系から去り霧散するであろう自分や他者や体系じたいだと気づけば、少しは何らかの体系にばかり目を覆われずに済みそう ものの哀れ って、群組織や生体などの体系づいているものが霧散して力を失い、力も命も自由も不自由感もない粒に還っていくという、滅びの方向を見つめるまなざし? 体系的な組織や社会に呑まれてある状態で物事をありのままに捉えるには、体系からある程度自由な心が要り 粒子と体系どちらが自由、こどくと組織どちらに自由、自由どこにあり、ちからのそばにありますか、他者をほしいままに扱い命じる意味での権能という自由、他者や体系からの圧力を免れる自由、互いに隷属しあう万人の社会的自由、ある程度のマネーの獲得と所持と利用は自由で。貯金が少しずつみるみる貯まっていきます、使いようもなく、また引きこもる資金にする自由 好きなものや群などに関わる自由が欲しく ヒエラルキー。職場にもありますひとの権威体系、えらさの上下階段 私は粒で霧散してて、組み込まれずちゃんとした机もなく、属したくありません が失業寸前なんで面接うけましたが不採用でした 採用されれば市役所勤務でしたが、みせた資料の中で公務員をなじったのまずかったのか、落ちて 世の中との関わりが急速に薄れはじめ また大気がぐさぐさと肌をさし、妙にさみしいです病院にいく気力もありません 家族は福島県においてきたし 仕事も失うんでアイデンティティ崩壊してます引きこもりという粒にかえるのもいい加減グロテスク 最近は地震すくないですが、原発や原発ムラは生き物や暮らしという永い体系の一部を一時支えるものでしたが全体の急所になりやすい古い体系なので、解体霧散はかなくさせようとオンライン署名に私は粒として加わりました安易にさっき

bragelonne
質問者

お礼

 247さん あっ ちがった 2_4_8 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  三つをまとめてお応えしようと思いましたが 一つひとつゆっくりとまいります。三つ目で 全体のまとめが出来ればという思いで 一つひとつは それぞれ断片的になってもよいという気軽な気持ちで個別のことがらについて述べて行きます。  (1) これまでのやり取りから行けば せっかく帰って来たなら お帰りなさいという言葉は わたしからではなく ほかに発する人がおられるのではないですか? あなたのご見解に即してみれば そういうことだと わたしには いまの段階で 思えます。  (あっ このように言うということは やはり全体を読んだあとで 全体についての応答をもしているようです)。(《女の話》のところです)。  (2) そうですね。目の前のあるいは身の回りの人びととのつながりや組織における関係やについて その親しさをもまた言わゆるシガラミをも超えて ものごとを見ようとしたあと 案外ひとびとは 観念だけは シガラミではないとあやまって捉えるようです。  (3) 次のお考えが 観念チックであります。  ★ ~~~~  ものの哀れ  って、群組織や生体などの体系づいているものが霧散して力を失い、力も命も自由も不自由感もない粒に還っていくという、滅びの方向を見つめるまなざし?  ~~~~~  ☆ そうではありません。たとえそのように分析したことが現実に起こっていたとしても そのことが もののあはれを知ることではありません。  どうしても この《いま・ここ さらにあるいはこの〈わたし〉》に還って来ていなければいけないからです。  (4) 〔ちなみに わたしの話にあっては さとりと言っていても ブディズムとは関係ないと見えたようですが 一方では それでよいと思いますが 他方では やはりそんなことは――基本の問題として言えば――ありません。  今・此処に還って来るというのは 厳密に教義どおりであるかどうかを別として 往相還相(おうそうげんそう)の理論にもとづいています。往ったあとやはり還って来るのです。片道切符ではなく 往復切符だという意味です〕。  (5) (3)のあなたの命題は あなたの言葉で《体系的》な思考であり それに片向き過ぎています。現実を離れていないとしても   忘れてしまっているような分析思考であり その思考物を何らかの体系に組み込もうとするかのようです。  (6) この観念論ないし精神論の傾向は およそこの哲学カテにおいても そこここに見られるクセです。これでは 十年一日どころか 百年一日 あるいはひょっとしてニ千年一日という体たらくだと言わねばならないでしょう。  (《神――つまり〈絶対〉という概念――とは何か?》についての勘違いが はなはだしい。哲学として致命的。と言うのも いまいましいほどです)。  (7) そうですね。このいまの観念論主義というクセ これを指摘すれば あとは 大した問題ではないと言っていいかも知れません。どうでしょう?  (8) あぁ そうですね。世の中猫も杓子も この観念論ないし精神論主義がいやと言うほど はびこっていますから もしわたしのようにそこから自由になってしまうと たしかに住みにくいということになるかも知れません。シガラミのちからは つよい。きわめてつよい。   そういう問題もありますね。  (9) 《公務員をなじった》のですか? でかした! と同時に 世の中の負け組へようこそ! と言わねばならないこの日本です。  (10) 若いきみたちが どうも頼りないからなぁ。この日本は どうも沈んで行ってしまいますかねぇ?  ★ さとりは純化された語感で物事や自分を埃みたいに霧散させてみるようなまったく弱化させてみるまなざしやら気分やらかと思ってました。完全な傍観というか老子の  ☆ 何で《傍観》なの?  (11) ★ 憔悴してる私はイメージしようとするだけで疲れますが、どうせなにもできないし  ☆ まぁ わたくしも何も出来なかったし 出来ていないけれど 弱音を吐くこともない。そこが違うようだ。強気に出ることもないけれど たゆたえども沈まず( Fluctuat nec mergitur. )は実行しています。  (12) ★ くおりあ拾いが現象学ですか  ☆ これは どうなんだろう? よく知らない。茂木の本も――新書版のなんとか言った 《補助線》がどうのこうのという本を読んでみたほかは――知らないし。  (13) ★ ~~~~  日比野さとりは能動的であいかわらず地味対話革命で、〔憔悴してる私はイメージしようとするだけで疲れますが、どうせなにもできないし〕  日比野さとりは仏教ほとんど関係なしで人が目指すべきような態度はこんなんだとやっぱり訴えているんですか  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは そうなのでしょうね。仏教のこともすでに書いたし。  (14) ★ ~~~~  今ここ  職安にいく気力もありません  望ましいものにはなりたいのになに望んでいるかも分かりません  ひとから認められたり誰かから選ばれたりはしたくて全く受け身の恋愛願望  ~~~~~~~~~~~  ☆ ここらあたりが わたくしではなく ほかの人に まづ先にうったえることなのでは? そうでないと これまでの発言内容についての整合性がやぶれる。  (ほんとは この一件のみをこのように応えて 追いかえしてもよいところだ。つまりあなたは そこまでの宣言をするかたちで わたしの見解とは たもとを別(わか)ったと心得ています)。  (15) つまり人はその考えが変わりますから それならそれでそのことに触れて ふたたび話を始めればよい。そうしないとすれば あの精神論主義にともなわれるいまひとつわるいクセとしての《のっぺらぼう》交通が 大手を振って街を歩くという死んだ社会のままです。  (16) 精神論ないし観念論が ひとの頭をまた心をあらぬところに持って行ってしまっています。だから この現実に対しては 地に足がついていない。  (17) 顔が無い。顔が無いほうが 主義主張を述べない《のぞましい日本人》だと 思い込んでいるというわけです。主義主張を述べると見られてしまうと KY だとレッテルが貼られてしまいますし それは悪しき個人プレーだと思い込んでいるようです。思い込まされているようです。  (18) 主義主張を あからさまには述べないのが立派な人間であるという思いは きわめて考えの狭いひとつの主義主張だということが 分からない。  (19) ここらへんで 言葉をひかえようかと思います。  (20) ★ 聞き上手先生(44)。  ☆ って誰のことですか?  (21) それでも続けますが ヒエラルキアについては ふたつあります。   (あ) 宗教組織において 聖職者が――そして非聖職者もその延長において―― あたかも人格や信仰の篤さを基準にして序列され得るという理論の〔まちがいの〕問題。  つまりあらゆる宗教組織はすべからく すみやかに自己解体へとすすみましょう。   (い) それ以外の組織においては――人格の品定めは 正式には あり得ませんから―― 職務に応じた権限が地位などの上下関係として体系づけられているだけです。  そこで ガミガミ役とそのガミガミ電波を受けとめるアース役とが決まるという副作用があるのみです。  (22) ★ ~~~~  体系にはまると体系の利益にならないことには酷なふるまいをする  体系というパワーがないと無力でしかなかったりする  ~~~~~~~  ☆ これは ただの《分業=協業》のための組織だと割りきるのがよいでしょう。間合いが測られなければ ぶつかり合いが出て来ますが 少しはケンカをすればよいのです。秩序のためまたその安定した成長のためです。地位の上の人に対しては おだててやればよろしい。我れに還りましょう。  (23) ★ 医者からシゾイド気味かもと言われ私は心が薄い  ☆ 《気味》くらいでは その話を信用する必要はないのではないか。  個人の状態を 自分ひとりの問題と見るのではなく 社会性のうちに見ないことには 話が始まらないと考えます。休息が必要となるほどの状態になれば それとして別ですが。  つまり みんなそうだという見方です。その気味は みんなにあるという意味です。  しかもそれを超えて もののあはれへと。そして ここへと還って来る。  (24) ★ ~~~~  体系的な組織や社会に呑まれてある状態で物事をありのままに捉えるには、体系からある程度自由な心が要り  粒子と体系どちらが自由、こどくと組織どちらに自由、自由どこにあり、ちからのそばにありますか、他者をほしいままに扱い命じる意味での権能という自由・・・  ~~~~~~~  ☆ というように考えますかねぇ? まちがっていると言おうとするのではなく どうも《もののあはれを知る》のは 筋がちがうように思えます。脳天気でいるその過程において 何か《あはっ!》というヒラメキが来るものと思っています。その無根拠から 自由が得られます。めぐみです。どうでしょう?  (このヒラメキが やはり鍵ですね 考えてみれば この質問は)。

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その他の回答 (17)

回答No.8

残念ですが現在、人に会う余裕がありませんので。 あはれ

bragelonne
質問者

お礼

 了解。  わたしだって 人見知りしますよ。

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noname#140926
noname#140926
回答No.7

きちがいニートということです。でも立派になれたので良かったです。バイクに乗りながらニコニコ死にたくなります。退会します。

bragelonne
質問者

お礼

 ううーん。  こまった。  考えられない展開ですね。  ま わたしは ちり紙みたいな存在ですから。    また 来てください。    そしてあなたも あそびに来てください。  しゃあないよなぁ。  よほど繊細な精神の持ち主なのかなぁ。  がらっぱちには分からん。  こまったとは言わないよ。

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noname#140926
noname#140926
回答No.6

すみません 聞き上手先生の画像はり忘れました。 これです。

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございます。  動画を見るのは ひかえましたが。(まだ登録もしていません)。

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noname#140926
noname#140926
回答No.5

あったかくない東北弁ですね。 失業間際なんで無職にアドバイスなんか思いつきません 手紙だけ書きます ゆきやまさんへ 蝉が死に絶え、秋のまん中へ向かいながら、いかがお過ごしですか。 春頃、私スラサリという意味不明な名をかたっていた折、親戚を嫌がるゆきやまさんに助言を数個おくると、粘着されてると書かれ、なんて怖い人なんだと思いました。そしてなんて人を傷つけるのが上手い人なんだろうと思いました。文章で人心に作用するゆきやまさんを暇なおじさんは放っておかないと思います。 おじさんに相談を持ちかけてみたり、ぼやいたりしても、なんにもなりませんよね。やっぱりあんまり役立たずだし、腐った心がより腐る、自殺の加速みたいなことで不毛で、ブラジュロンヌさんみたいにはなりたくありませんしね。 そんなことじゅうぶん分かっているのに、いちおう言葉が確かに受け止められることが予定されている状況には、カウンセラー効果じみたものがあり、それをどこかつい期待して甘え、嘆きを放り込むんですよね。ティッシュみたいなタライみたいなおじさんに。 おじさんは鈍感で、ぽかんとしているから、なに言っても書いても、許してはくれますしね。怒っても変なおもちゃが壊れるだけな感じで。でも相手はいちおう人間で。 そういやアクシアさんとの諍いはどうなったんですか。あんまり興味ありません。 ゆきやまさんは賢く物知りで、気分屋でまじめで、あんまり読解力なくて私は文章力なくて、この手紙は意味不明と見做されそう。 もう私たちの言葉の使い方は悲嘆に傾くことが癖になってて、真性引き篭もりhankakueisuuさんの懐かしいブログの記述みたいに、動きをとりにくいんですよね、動機にならない言葉、自分を保留するばかりの、ブレーキの機能しかない言葉になってしまって。 言葉や意志にいちいち両価性ってのがつきまとうんだろうと思います。 しかるべきところに相談を持ちかけず、実りのない場所で味気ない愚痴に終始しがちなのは、つまり心のどこかで、自分が幸せになることを拒んでいるからだと思います。いったいどうなりゃ幸せなんだか。 半袖では寒い宵のアパートで、半袖にて にしな 追伸:バイキングに連れてってもらうといいですよ、暇なら。ゆきやまさんがファザコンなら更に。 私は対人不安が強いので人と会えそうにありませんからつまらないし安心です。他人からどう見做されるか、その受け身な値踏みが怖すぎます。 ちゃんと生きたかったですね。でも、ちゃんと生きたかったですね ブラジュロンヌさんへ こんばんはお元気で。 (-_-)ノシ 追伸:私も人もゆきやまさんも本当はブラジュロンヌさんのこと尊敬してます。ゆきやまさんその他は他人なので本当は分かりませんが私は心のどこかでブ(中略)さんを敬愛してます。尊敬も敬愛も記憶の中で否定の対象でした。心の深部では全てを肯定したいという無方向性な釈迦的欲望に身をやつし、かっこいい両価性に病みつかれ人生が停滞してるんで、心身を優しい矛盾の板挟みにされつぶされて、無為を引き伸ばしがちな私たちなので、じゅうぶん詩的で、社会性からの自由を逝ってるんで、他者を否定しながらどこかしら軽蔑しつつ肯定していたい優しさからくる両価性で、つまり釈迦もどきな両価性のもずくの海に溺れてますから、おじさんのこともじゅうぶん尊敬しながら蔑みもかなりしています。人間なんてそんなもんでこんな私たちはいちいちのことに対して両価的ですからケチで、はじめは妙な失神だったんです、混沌に満ちた不安というかたんなる不調です、それに襲われ、心身活動が停止しはじめて、不安な混沌を言葉で整理すれば両価性の世界で、疲れ、面倒くさくて、なんにも信じられず自らも定まらず腹も据わりません。にひりすとで。わかものです。自分病であります。どうしたら両価性病や自分病を克服できますでしょうか。意識を外へ、と森田がむかし。病を克服せず放置しながら森田のいうように、日々の瞬間をふさわしいことに用い、働くときはただ働いて過ごしたりすることに、なるべく意識と力を割くといいんでしょうか。また一番の嘆きでありながら禁句に近い問いがあり、なぜこのページに書きこむ三人いいとしこいて童貞なのでしょうか。 聞き上手先生はこんな方です。美人です素敵です右翼です。YouTubeやニコニコ動画にたくさん動画を投稿しています。西村眞悟さんや武田邦彦さんのブログを読み上げたり、私的な追憶に耽ったり落語をぶったりする、抜け目のない芸達者な方です。滑舌よくてぴんぴんしてます。☆(-_-)>まったね~が記号的でかわいいです。 くそ寒い夜も独り寝ながらケータイにて にしな

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。勝手な要望に応えてくれてありがとう。  それにしても にしなくん にしなさんは立派になりました。  きざしはありましたが まだ慣らし運転でしたから。  もうこのひと言に尽きます。  ★ ・・・はじめは妙な失神だったんです、混沌に満ちた不安というかたんなる不調です、それに襲われ、心身活動が停止しはじめて、不安な混沌を言葉で整理すれば両価性の世界で・・・  ☆ ここから 堂々とお成りになった。   ★ 聞き上手先生  ☆ 右翼だそうで いまひとつ食指が動きませんでした。何故か 今夜は 止まりました。そういう情況です。  ★ 両価性病  ☆ とにもかくにも わたしの場合は 三十歳近くまで 西も東も分からなかった――なぜ人びとは ウソだと自分も相手(このばあい わたくし=ぶらじゅろんぬ)も分かっているのに つき続けるのかが分からなかった――そのあと 世界のすべてが ととのったのでした。  知識や経験がすべて それぞれしかるべき抽斗(ひきだし)にきちんとしまわれて 取り出しも自由自在になるという経験を持ちました。  人から見れば 何を考えているのかが分からない人間として映ったかも知れませんが 案外そうではなく 西も東も分からなかった状態にあったときには じつはわたしは 相手の考えていることを 何もしないでも意外と分かったりしましたし 相手もそのことが分かったみたいです。そういう情況で二十歳代を過ごしました。  ううーん。こんなことを書いても たいしたことにならないですね。  ヒラメキが起こるということを言いたいのかな。  あぁ 次のくだりは 少し分かりませんでした。《社会性からの自由を逝ってるんで》という表現の内容です。  ★ ~~~  ・・・心の深部では全てを肯定したいという無方向性な釈迦的欲望に身をやつし、かっこいい両価性に病みつかれ人生が停滞してるんで、心身を優しい矛盾の板挟みにされつぶされて、無為を引き伸ばしがちな私たちなので、じゅうぶん詩的で、社会性からの自由を逝ってるんで、・・・  ~~~~  ☆ とびっきり社会性から――人びととのつながりから――自由な状態にあるということですか?

bragelonne
質問者

補足

 あぁ 東北弁は 失敗でしたか。

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回答No.4

とうとう歳をとるのが苦痛になりました。 憂鬱で死にたいときも、あはっと声がでます。 ニュートリノが光よりも速い?タイムマシンができる?とかのニュースやiPS細胞が実用化される前に私は淘汰されていくその他大勢の一人でしかないのだな…と悲しくなり、あはっと声がでます。 哀れ。 今年は地震もあったし…早く仕事がしたいです。自立しないと…自分はなにをしているんだろう…。

bragelonne
質問者

お礼

 こまったにゃやあ。  No.1~3のにしな氏は やっと仕事についたというのに――でもお金は貯まるとも言っているけれど―― 職を追われるかも知れないというし あなたはあなたで くるしみがつづくのですね。  わたくしにも ちからがあったらなぁ。ニュートリノでどこへでも飛んで行って その心の燈心に火をともすきっかけにでもなれれば いいんだが。  くまつたなやア。  まぁ ここへ顔を見せて声を出してくれているだけでも まづはよかったと思わなきゃ。  んだなぁ。  でも あれだよ。われわれはすでに十字架上でかの人と同じようにもう逝ってしまっているのだよ。そこから出発していますよ。  しかも パウロぢいさんなどは わたしは日々死んでいますなんぞと抜かしておられます。  あはああっ。くまつたにゃやあ。  にしな氏に いいアイディアがないか聞いてみるか。にしなくん 何かいい考えがあったら 書き込んでくれたまえ。(応答でかなりきついことを言ったけれど)。  いちどあそびに来るかい? と言っても 何にもしてやれないんだなぁ。カレーとサラダバーのバイキングに連れて行ってやれるけれど。  たいていのことには 底入れというものがあるんだが。どこか 行き着くところまで行ったとき コツンと底に当たって あとは そろそろ浮上するってもんだが。  自立することも大事だし 一歩一歩たしかな足取りであゆむことも大事。  まぁ シガラミは 屁の河童とまづは思うところからかなぁ。  歳を取るったって そんな感覚があるかなぁ? 日常いつもそんな感じが現われるわけではない。  あぁ 枯渇! わが泉の水が・・・。どうすっぺ?

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noname#140926
noname#140926
回答No.3

人への悲観 吉田戦車という漫画家が、被災地の中学生に授業しながら、味方になる大人は無数にいることを伝えたいらしい。そういう人間にたいする加算的な、肯定的まなざしが、無力で無為な私にない 味方にならない人々もいるし、体系にはまると体系の利益にならないことには、人は酷なふるまいをする 体系というパワーがないと無力でしかなかったりする 体系というパワーの中で失うものもある 人間らしさは何も指さない言葉 医者からシゾイド気味かもと言われて、私は心が薄いよう 老子や釈迦もけっこうシゾイドじゃないですか なにかの体系・組織かあらゆる体系に属しつつ(波のうねりに荷担しつつ)、どう時にあらゆる体系の外にあるというか、属しきれない限定されないものであるというか、やがてほどけて体系から去り霧散するであろう自分や他者や体系じたいだと気づけば、少しは何らかの体系にばかり目を覆われずに済みそうで ものの哀れって、群組織や生体などの体系づいているものが霧散して力を失い、力も命も自由も不自由感もない粒に還っていくという、滅びの方向を見つめるまなざしで、すか 体系的な組織や社会に呑まれてある状態で、物事をありのままに捉えるには、体系から自由なある程度の反骨心は要りましょ また体育会系の組織や、体育会系の呑み会や体育会系の人とあまり話したことありません 成人スポーツ競技を否定します サッカーも野球も子供がすることで、その他のスポーツ競技も、人の大人同士がすべきではなく。競い合いを大人たちがして、マスコミが日々その光景を報じているのは問題です。 粒子と体系どちらが自由 こどくと組織どちらに自由、自由どこにありますか? ちからのそばにありますか 他者をほしいままに扱い命じる意味での、権能という自由が 他者や体系からの圧力を免れる自由が 互いに隷属しあう万人の社会的自由が ある程度のマネーの獲得と所持と利用は自由で。貯金が少しずつみるみる貯まっていきます、使いようもなく、また引きこもる資金にする自由 好きなものや群などに関わる自由が欲しく 体系的なのは世の中も宇宙も自然も体系的で、たんに粒子が霧散してあるってわけじゃないんですが ヒエラルキーてありましたよね。ひとの体系。ネズミやサルから派生した樹状の図でなくて、組織の図。 職場にもありますそれ、ひとの権威の強弱、役職の体系、えらさの上下階段 私は粒子で霧散してて、組み込まれず、ちゃんとした机もなく 属したくありません 面接うけましたが不採用でした 期待して 採用されれば市役所勤務でしたが みせた資料の中で公務員をなじったのまずかったのか 落ちて 世の中との関わりが急速に薄れはじめ また大気がぐさぐさと肌をさし、妙にさみしいです 病院にいく気力もありません 家族は福島県においてきたし 仕事も失うんでアイデンティティが崩壊してます 最近は地震すくないですが、原発や原発ムラという古い体系は、生き物や暮らしという永い体系を一時支えるものでしたが、むしろもはや霧散・解消させる急所になりやすいものだとばれたので、原発ムラ体系を解体・霧散させようとするオンライン署名、オフライン署名に1つの粒として流れや動きや力の一部として加わります、わりと安易に 自分がなんであったかをまとめるために 相談サイトに送った自分の文字を集めます お久しぶりです ~(-_-) 紙風船です ほい

bragelonne
質問者

お礼

 (~^~)・・・・  土の船です。  へい。  ★ 体系的な組織や社会に呑まれてある状態で、物事をありのままに捉えるには、体系から自由なある程度の反骨心は要りましょ  ☆ あはっ! の瞬間から 自由の風が吹いて そのめぐみにあずかり 多少は反骨精神が付くというものです。  自力は 認識までです。そして絶対自力というものは あり得ません。  他力には 絶対他力があり得ます。ただし 認識は 他力では得られません。    ★ ~~~~~  また体育会系の組織や、体育会系の呑み会や体育会系の人とあまり話したことありません  成人スポーツ競技を否定します  サッカーも野球も子供がすることで、その他のスポーツ競技も、人の大人同士がすべきではなく。競い合いを大人たちがして、マスコミが日々その光景を報じているのは問題です。  ~~~~~~~~  ☆ 保留しておきます。大きな問題だと思い直したら 触れるかも知れません。  ★ 粒  ☆ について何か言葉を返したいと思うけれど なかなか思い浮かびません。あしからず。  No.1お礼欄で ひととおり応え得たということですかね。ふうーっ。  どうですか?

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noname#140926
noname#140926
回答No.2

すみません なんか前の文は字数制限に合わせて圧縮したのですが、やけに窮屈で読みにくくなったので、初稿のを分けてのせます。 (-_-)~ ~(-_-) こんばんは (-_-)~ アホ です ~(-_-) 秋 ですね (-_-)~ 茂木さんの本かりたんですか ……(-_-) 女の話をしましょう おばさん……待ちぼうけの生足おばさんの現象学は 人々が次第に分かり合っていくのを期待しながら 共通に見出すものとしてのくおりあ それをだんだん手探りしていきながら その手探りの時をたのしみ待ち持つという かれと仲良しになろうという企てだったのですか知りません さとりの噂話、しましょう…… さとりって純化された意識という語感があり、物事や自分を埃みたいに霧散させてみるような、まったく弱化させてみるまなざしやら気分やらかと思っていました。完全な傍観というか。老子の 日比野サトりは能動的であいかわらず地味革命的で、憔悴しているの私はイメージしようとするだけで疲れますが、どうせなにもできないしと 日比野サトりはサトりといいながら仏教とほとんど関係なしで、人が目指すべきような態度はこんなんだとやっぱり訴えているんですかね 今ここ 職安にいく気力もありません、今ここ 望ましいものにはなりたいのであって なのになに望んでいるかも分かりません ひとから認められたり、誰かから選ばれたりはしたくて(全く受け身の恋愛願望) あれが人としての理想形だよねと、草食がかった人々の向いている先に立ちがちな釈迦の、悟りって、体系のことにも気づくことらしいなら 権力の体系を察知することは犬らもしてて ヒエラルキー(懐かしいです) あらゆる体系のうちヒエラルキーという人間相互の権力体系ばかりをとりわけ重視し、それにとらわれたり 釈迦の生きた時代と場なら更に輪廻という死生観体系への過剰な、盲目的、妄想的な着目があり 体系どうしの体系ができて、ある体系が他の体系を隠そうとするので、粒に還って目を開いたり閉じたりしてみると、その他のあらゆる体系やその外側にも、自分や他者の全体や一部が属しうるのだと(こどもの頃を)思い出して悟る 自分や存在や群の自由度を高める悟りにべき論といえるほどの強さがあるか知らない 国があって、日本なんかを中国が呑もうとする ので日本軍や愛国心の強化を唱える右翼や西村眞悟さんや聞き上手先生(44)。(サングラス)。 日本が中国に呑まれようがアメリカに呑まれようが暮らしにさほど変わりはあるまいと思いつつ しかし放射能を自国民に浴びせて平気そうな日本の官僚や政治家はたぶん最低だけど もしさらにこれが中国やアメリカに呑まれた場合、中国やアメリカの官僚や政治家はもっと最低な扱いを日本の民にするかもしれない 国家という体系に粒子が潰される

bragelonne
質問者

お礼

 (~v~)・・・・  バカです。  ・・・・(~^~)  やはり秋です。  安全保障については 言わば成り行きに即して――ただし手立ては前倒ししつつでしょうか―― すすめなければならないところもあるのでしょうね。  あとは インタナショナルなインタムライズムとして ムラどおし仲良くすることしか分かりません。  あるいは 神とは何か? についての共通の理解が得られることも 重要でしょうか。  No.1お礼欄でもたずねましたが  ★ 聞き上手先生(44)。(サングラス)。  ☆ って誰ですか?

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     (1) あはっ! ( Ah ! , Oh ! )という感嘆の声にすべての現象は還元される。か?  この問いをめぐっての質問です。  (2) まづ アハは とうぜん感動あるいは嘆きをあらわします。おどろき・おそれ・すばらしさ・あるいは かなしさ・つらさ・くるしみなどなど。  (3) しかも ここでは ものごとの根源を見たというような意味合いを――勝手に強引に――込めて 世界におけるすべての現象についてのわが心的現象を表わすと見ます。    (4) ワ(我)やナ(汝)にレ――おそらく親愛称――がついて我レや汝レがつくられるごとく アハにもレがつき アハレがつくられた。   (5) アハレは (2)の分類にしたがって アハレ(哀れ・憐れ)および すばらしい場合には アッパレ(天晴れ)なることばである。  (6) 《もののあはれを知る》というときは おそらく すべての先入見や既存の常識を取り払ったごとくおのれの意識という意識を超えて 目の前のものごとを知覚したことを言うものと考えられる。  (7) しかもさらに その知覚は 意識しうる知覚(ノエシス≒ノエマ)をも超えて 直感および直観が稲妻のごとく走ったという経験であろう。ヒラメキとして捉えよう。  (8) もののあはれを知ったというときには たとえば社会における人為的な現象を超えているであろう。たとえば ふるい事例として言えば 身分制。身分の違いを難なく超えて ものごとを見ているはずである。  (つまりたとえば身分制なる現実に即した認識や判断を中止して そこから自由な知覚や意識を得ようとすることであり ここでは エポケーとも言うこととします)。  (9) ここまでを作業仮説なる前提として 次にかかげる見解〔(11)〕について考えてみたいと思います。    (10) 焦点は こうです。   ○ ~~~~~~  社会的な作為としての身分(あるいは いわゆるシガラミ)を超えてものごとを見ている(それはひょっとして 《空》観?)そのような《もののあはれ》を知った境地は それでもあたかも向きを変えてふたたび身分や人間的なシガラミの場に立ち戻って来た場合 どうするか?   どう現実をとらえるか?   どうふるまうか?  ~~~~~~~~~  (11) ひとつの参考意見は 次です。にっちもさっちも行かないような現実に相い対しては 人はもののあはれを もののあはれ主義として身構えて生きることになる。といった見解につながるようです。  ▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~  宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばならない》・・・。  歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。  前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。  右(上)の歌論は この認識に対応するものである。  つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。  意識下にまで儒仏の〔* あるいは身分制の・もしくは シガラミの〕影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。     (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (12) この《〈物のあわれを知る〉心を自分の心の中に虚構するということ》は だとすればけっきょく 世に言う《宗教》のことか? ただの固定観念となったようなオシエのことか?  (13) すべての先入見を超えあらゆる固定されてしまった常識をひるがえして得られたヒラメキとしての《もののあはれ》なる心 ここからふたたび強迫観念にさえ成りかねない固定観念としての宗教やドグマが現われ持たれてしまうのか?  (14) (11)の参考意見がおかしいのか?  (15) エポケーなり現象学的還元なりなどということが おかしいのか?  (16) もののあはれを知るなどというのは どうでもよいことか?  (17)  アハッは 神か? 神などは要らぬか?  (18) シガラミを抜け出たと思ったヒラメキから またふたたび世の中のシガラミの中に舞い戻るのか?    (19) われらが自由は どこにあるか?  (20) 人は いま・ここに舞い戻らざるを得ない。あなたは そのとき どうするか?

  • もののあはれは 安全保障には通用せぬか?

     もののあはれは きわめて主観的な知覚にもとづきみづからの判断〔のひとつ〕を持つという思想です。人情を義理よりも――まづは感覚や気持ちによっておこなう第一次的な判断としては―― とうといと見なすものです。  殺されたくないし ひとを殺したくないという気持ちを第一にとうとぶという理由から 生命や生活の安全を守るためと言えども戦争は嫌うということ。戦争という手段を 《あはれ》の気持ちに対しては先行させない。あるいはそもそも 戦争をその範疇じたいとして存在しないと見なすという思想になり得ます。  けれども考えてみれば 狭い料簡だとも捨てたものだとも思えないかも知れません。というのも たとえばオバマは遠くない過去に次のように言ったそうですが けっきょくどちらも主観丸出しの気持ちの表明であるに過ぎないとも思われるからです。  ▲  《武力行使が道徳的にも正当化される場合がある》。    ☆ さて日本人から見て日本にとっても世界にとっても安全保障はどのような施策を採用するのがよいでしょう? ひとりの主観から始まるようだと思って その素朴な思想のあり方のあたりについて問います。  参考:(文学論を超えて もののあはれを捉えるという意味で)  ◆ (本居宣長:源氏物語玉の小櫛) ~~~~~~~~~~~~~  物の哀れを知るといふことをおし広めなば 身を修め 家をも国をも治むべき道にもわたりぬべきなり。  人の親の子を思ふ心・しわざを哀れと思ひ知らば 不孝の子は世にあるまじく 民のいたつき(労苦)・奴(下僕)のつとめを哀れと思ひ知らむには 世に不仁の君はあるまじきを 不仁なる君・不孝なる子も世にあるは いひもてゆけば 物の哀れを知らねばぞかし。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 本居宣長

    本居宣長さんの思想を現代の日本で教育したなら、あらゆる分野において、他国に遅れをとるように感じるのですが、どうなると思いますか? この国学と言う物がもたらした産物は、やはり幕末の明治維新だと思われます。当時の日本国民の目を支那から、日本に向けさせたことは、大いに意味のあるものと思います。 しかし、早急な近代化を必要としなければならないときに、やはり本居宣長さんの言う、ありのままを受け入れ、その現象に対する原因等を考えることはせず、ただありのままをそのまま受け入れ、それらを神のしわざと捉える。なんてことでは、近代化は無理だと思います。

  • フッサールは《純粋意識》に もののあはれを知ったか

     《あは!》という思いを感じるときに到るキッカケを フッサールというドイツ人は 《エポケー》と称しました。わたしは 判断中断と訳すとよいと思います。  ▲ (ヰキぺ:エポケー) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC  エポケー(古代ギリシア語: ἐποχή  epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。  ▲ フッサールおよび現象学においては、  エポケーは 世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。  すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。  ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。  世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かったような分からないような感じですが ひとつにギリシャ語を引っ張り出して来ているので 古代人に関係あるかも分かりません。  もうひとつに 基本的なこととして このエポケーのあとに得られる結果が 《もののあはれ》だということだと解釈します。  これをフッサールとしては 《純粋意識( reines Bewußtsein )》が得られると言っているようです。  ▲ (ヰキぺ:現象) ~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1  フッサールは、  哲学や諸々の学問に確実な基礎を与えることをもくろみ、  意識に直接的に現れている現象を直観し、その本質を記述する方法を追及した。  そのために彼は、外界の実在性について判断を中止し(=エポケー)、それでもそのあとに残る純粋意識を分析し記述する、という方法を採用した。  この場合、フッサールは現象について、本体などの背後にあるものとの相関については想定しない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいは 《本質直観 / 本質観取 / 本質看取 ( Wesensschau )》と言うのだそうです。  《もののあはれを知る》のほうが 理屈づけではなく全人的であると思われ その点 推奨されます。  《 Wesensschau 》は英語では Being's show と言っているのですから さしづめ《もののあらはれ》でしょうか。日本語とは 一字違いですね。  フッサールのほうは――わたし自身もおそるおそる言っているところがありますが―― 純粋意識を得て ようやく《生活世界( Lebenswelt )》に戻って来るという恰好にもなっているようです。くわしくは たとえば次のサイトをご覧ください。  ▼ (フッサールの方法とその諸問題)   http://mrmts.com/jp/docs/husserl.html  この現実に帰って来たときにも・そしてエポケーの状態であはれを感じたそのときにも 《おそれ》をひとは覚えるのでしょうね。《きよらかなおそれ》。  しかもこれは ものごころが着く前の幼児のときの《聖なるあまえ》と同じ筋の状態だと確認できるのではないでしょうか。  おそらくこのことを 《ハカラヒ》を《義》と言いかえて 親鸞は 《義無きをもって義とす》と言った。  一般にヨーロッパ人は ものごとを分析しすぎます。要素に還元しようとします。もっと全体論として捉える視点をも推し進めるのがよいと思われます。それには 日本人は――《ふつうの人》が――生活としてすでに実践している現実があるはずなのであり その生活の歴史の中からさらに哲学のあたらしい展開のために 見直すのがよい。歴史を洗い直すのがよいと考えます。  俳句や短歌は それだけでは 文学としてもまだ練れていないと考えますが その生活感覚の中に 哲学の鍵語が得られるかも分かりません。  当否を問います。

  • 意識と無意識についての質問

    はっきりと自覚できる意識と自覚できない無意識が人間には在るそうですね。 そして意識と無意識の間のものも存在するそうでそれはひらめきが起きる前のなんかひらめいたような気がすると思うよな感じなんだそうですが説明しづらいです。 ここで悩み事を言わせてもらいます。私は物事の段取りがとても悪いです。何か行動している時にこうすれば作業が早くできると心のそこで思っているような気がするんですがはっきりとそれがどんな考えなのか出てきません。他人から注意してもらうとそれを無意識と意識の間で気づいていたと思ってしまいます。意識的にはっきりと考え方が出てこないのです。 これはいったいなんなのでしょうか

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • 「ねがはざるをいみしきことにして」の理解の仕方

    本居宣長の『玉勝間』に次のような文章があります。 *****引用***** うまき物くはまほしく、よききぬきまほしく、よき家にすままほしく、たからえまほしく、人にたふとまれまほしく、いのちながからまほしくするは、みな人の真心也、然るにこれらを皆よからぬ事にし、ねがはざるをいみしきことにして、すべてほしからず、ねがはぬかほするもののよにおほかるは、例のうるさきいつはりなり、又よに先生などあふがるる物しり人、あるは上人などたふとまるるほうしなど、月花をみては、あはれとめづるかほすれども、よき女を見ては、めにもかからぬかほして過るは、まことに然るにや、……月花はあはれ也、女の色はめにもとまらずといはんは人とあらむものの心にあらず、いみしきいつはりにこそ有けれ。 *****引用終わり***** 古文に詳しくないのですが、自分で理解してみたところ、下記のような意訳になると思うのですが、 「美味い物を食べたがり、良い絹を着たがり、良い家に住みたがり、宝絵を欲しがり、人に尊まれたがり、命が長くあって欲しいと望むことは、みな人の真心(偽りのない心)である。然るにこれらを皆良からぬ事にし、願わないことを忌みしいことにして、全て欲しがらず、願わない顔をする者の世に多いことは、例の煩い偽りである。又世に先生等と仰がれる物知り人、あるいは上人など尊まるる法師等、月花を見ては哀れと賞でる顔すれども、良い女を見ては、目にもかからない顔をして過ぎるは、真にそうであることだろうか。……『月花は哀れである、女の色は目にも止まらない』と言おうことは人とあろう者の心ではない、忌みしい偽りでは有るけれども」 この場合、「願わないことを忌みしいことにして」という部分の真意は「願うことを忌みしいことにして」だと思うのですが、どうして「ねがはざるをいみしきことにして」と表現されているのでしょうか。理解の仕方が分かりません。 文法的にどういう表現であるか、教えていただけませんか? また、もし意訳に間違い等あればご指摘いただけたらと思います。 よろしくお願いいたします。

  • 「あはれ」と「もののあはれ」

    「あはれ」と「もののあはれ」 「あはれ」と「もののあはれ」の違いとは なんでしょうか??;; また、「もののあはれ」について 詳しく説明してくれと言われたら どのように説明すればいいのでしょうか??;; すみません>< 返答よろしくお願いします!

  • 意識(心)は、どこからやって来たのか?

        哲学では、意識とは何か?とか、 死んだ後、意識はどうなるか? と、現在と未来については問われ、語られる事は多い。 しかしながら、私達の「意識」、これは幼心にいつ、どのように生じたかについて、問われ、語れる事が少ない様に思う。 けれども、現在、死後の意識を考える上で、その発生起源を考える事は重要なはずだ。 そこで、問いたい。 あなたの主体である意識は、いつ、どのように生じたか? 記憶をさかのぼる、自己観察、現在ある根拠と思われる物、現象から論理を展開し、この問いを考え、答えてみて欲しい。 ちなみに、意識、心、精神、は区別していない。  

  • 僕は憐れです

    僕はスポーツをやっていました。自分で言うのもなんですがかなり上手かったです。才能もあり努力もしてかなり期待をかけられていましたが慢性的な怪我をしてやめました。 僕には弟がいます。僕の家では事情があり、僕が小学生の時スポーツ少年団に入りたかったのですが入ることができず、弟は入ることができました。僕は結局中学からそのスポーツを始めました。 うちは変な家庭で父は幼い僕に勉強を強要しました。母は食べる子供が好きだったみたいで僕は小さな頃太っていて気にしていました。弟は強要されず太ってもおらずでした。 そしてスポーツから離れた僕はギターを始めました。5年根性で続けましたが全然上達せず周りにはあの時の輝きは…なんて言われてます。もちろん悔しくて勉強そっちのけで徹夜で勉強しましたが上手くなりませんでした。おかげで高校は進学校でしたが今現在一浪しましたがどこも受かりませんでした。弟は進学校で成績も良くスポーツもやっていて家ではナルシスト気に半裸で見せ付けるように居間で勉強しています。 今では父親も母親も当時に比べれば丸くなりあの時はすまなかったと謝ってきますがそうされると僕は誰を恨めばいいのでしょう??弟も悪気があるわけではなく人一倍コンプレックスが強いだけなんです。でもそしたら僕は誰を恨めばいいのでしょう?? 勉強やギターのことを考えると胸が苦しくなり吐き気がします。性格上僕の本当の気持ちを誰かに話す気はありません。 勉強しようと思っても隣の部屋で祖母がイビキをグーグー、弟はゲームをカチカチ(うちは地震で被災もしてます)です。 僕はこれからどうしたらよいのでしょうか??好きにしたらと言われたら家族全員原形をとどめなくなるまで皆殺しにします。 まぁ絶対にしませんが。僕が誰より優れてると思うポイントはここにあるので。しかしその分僕は溜め込みます。 自分で言うのもなんですが背も高いし顔だって自信あります。しかしいいなと思う人がいてもコンプレックスであるこの過去を偽って付き合っていかなければならないと思うと積極的にはなれないし、そもそもこの過去を受け入れてくれる人がいる気がしません。誰にも話す気にはなれません。初対面の人にはどうやったらバレないかとそればっかり考えています。 僕はこれからどうしたらいいんでしょうか

このQ&Aのポイント
  • 印刷用紙のサイズを変更できないと困っています。プリンタへの指示をA4からA5に変更しようとしたのですが、できませんでした。
  • EPSON社製品のプリンタを使用していますが、印刷用紙のサイズ変更ができない問題が発生しています。指示をA5に変更しようと試みましたが、何度やってもA4のままで印刷されてしまいます。
  • 印刷用紙のサイズ変更がうまくできません。EPSON社のプリンタを使っているのですが、指示をA5に変更してもA4のまま印刷されます。どうすれば正しいサイズで印刷することができるのでしょうか?
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