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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人は 人のあやまちを赦すことができるか)

人は人のあやまちを赦すことができるか

noname#180065の回答

noname#180065
noname#180065
回答No.7

過ちや、許す、許さないは、結局は心が壊されたに尽きるのではないかと。 例えば、殺人や強姦などは、 その心が元に戻れるように努力していく必要があるでしょうが、 通常は並大抵の事ではなく、人間の一生では足りない場合も多々あるのかと。 忘れる事で、相手を許すようで、自分の時間を取り戻せるかもしれませんが、 心が生きたまま治らない。だから許さないになるのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 またたびさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  貴重なご批判ですので さらに質問趣旨を明らかにしつつ反応します。  ★ 過ちや、許す、許さないは、結局は心が壊されたに尽きるのではないかと。  ☆ こうでしょうか? すなわち 加害者は被害者に対してその心を壊すことをやったのだ。たとえ被害者が赦したとしても この壊された心が癒えること・元通りに直ること これが出来なければ その壊れた状態が現実であるかぎりで――たとえ赦したことになっていても―― 被害者本人にしてもその周りの人びとにしてもあるいは第三者にしても 基本的な考え方として《赦さない》になるのではないか。  えぇっとですね。  まづ重ねて述べますが この質問が立脚する考え方は いまの常識からは かけ離れています。  その上で 次のように考えています。  ★ 例えば、殺人や強姦などは、 / その心が元に戻れるように努力していく必要があるでしょうが、  ☆ 人を殺すというあやまちの場合は 残念ながら死んでしまった被害者本人からは その殺人者との関係などについて聞き出すことがかないません。その意味では 特殊な事例になるかと思います。  でもそう言った上で 一般にあやまちについて赦すか赦さないかを問題とします。  いきなりですが 質問の趣旨にかんするかぎり つぎのような・或る意味で前提となるような考え方を持っています。  ( a ) ひとは 世界と和解しているかぎり・またその心がさまざまなわだかまりをつねに晴れさせているかぎり あやまちを犯しても・あるいは人からあやまちをこうむっても その《心が傷つく》ということは 金輪際ありません。  ( b ) 《あやまちは人のつね ゆるすは神》だからです。あるいは 《罪を憎んで人を憎まず》だからです。憎むのはあるいは怒るのも 大いにしてもだいじょうぶだと思います。赦さないというためにではなく 哲学による批判の一環としてです。  ( c ) もし仮りにいやしくも人の心が傷つくあるいは壊れるということがあるとしたら それは へそを曲げ自分で自分の心に逆らい心を偽って行動するという自虐的な(もしくは自殺的な)意志行為をおこなったときだと見ます。つまり心は傷つき壊れますが それは 自分が傷つけ壊したのだと見ます。それよりほかに心が傷つくことはありません。他人がわたしの心を傷つけることなどはいっさいあり得ません。自殺行為か自殺を伴なう共犯行為のばあいにのみ 心が朽ちて行きます。  ( d ) 強姦という事例の場合 自分のであれ相手のであれその心に逆らって行動するわけですから 明らかにその自殺行為によって強姦者はみづからの心の自殺をおこなっています。つまり その心は壊れます。みづからが壊しています。  ( e ) レイプの被害者については どうか? これは単純に考えることが出来ます。そのレイプをみづからが望んだものであれば その意志行為を自分の心に忠実なことだと思い込んでいるかぎりまだ傷つきませんが やがて心にさからってへそを曲げたと分かったときには 傷つき心の血を垂れ流すようにさえなると考えられます。    ( f ) つまり レイプをこうむった人が 力学上の優位さによって行動する加害者に屈したとしても なんら心に傷はつきません。蚊が刺したのみです。すこやかな心でいられます。  ( g ) 仮りに殺人に遭ったとしても 同じです。それは人生の途中で取り返しのつかない災難に遭ったということが残念ですが 心が傷つくかどうか・壊れるかどうかについては 同じです。  ☆ そのような被害に遭って おのれの心におけるイツワリを伴なってもいたがゆえに心も傷つきさらには壊れたという場合 その壊れた心を回復することは  ★ 通常は並大抵の事ではなく、人間の一生では足りない場合も多々あるのかと。  ☆ これは なんとも一概には決められないかも分かりません。むしろおのれの努力やあるいは助けの手を差し伸べる人たちの尽力によっては なかなかむつかしいと思われます。  つまり 人間の力によっては心の傷が癒えるのは無理かも知れません。なぜなら もしそれがたやすくできるのであれば 人は好き勝手に或る日或る時にはへそを曲げたり心にイツワリのはからいを企んだりして そのあと時を見計らって好きなように元の心を回復させるという仕業をたのしむようになるでしょう。  ★ 忘れる事で、相手を許すようで、自分の時間を取り戻せるかもしれませんが、 / 心が生きたまま治らない。  ☆ 《忘れる》ということは――趣旨説明にその言葉を出していますが それは忘れてしまうくらいに人は自分については赦すものだと言おうとしています―― 基本的に別としています。むしろ忘れず 覚えています。それでも赦す・赦さないとは 関係させないだと。  つまり  ★ 忘れる事で、相手を許すようで  ☆ という場合は 人によってあるかも知れませんが そのことをさらに超えて 赦す・赦さないからも別の考え方の世界に移って行こうと言っています。というよりは この赦すことも赦さないことも能力によって出来ないというその能力をもった人間のあり方のほうが 生まれつきのもともとの姿であるのではないか? と問うています。  その回復の度合いによっては  ★ 心が生きたまま治らない  ☆ ものも――それは ナゾですが つまりナゾの力によるのでしょうが―― ときには直ることがあるかも知れません。  さて いかがでしょう?  

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