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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人は 人のあやまちを赦すことができるか)

人は人のあやまちを赦すことができるか

noname#194996の回答

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noname#194996
noname#194996
回答No.6

NO.1 です。 かなり本質的なところですれちがっていた(いる)というもどかしい気分なのですが、おそらく私の理解がなお皮相的なのでしょう。 哲学は人間の心理の襞の奥まで入り、その真理を解き明かそうと試みる学問です。皮相的に現れている問題点を(根本的に)解決するためには、一旦その問題にひそむ真理というか赤裸々な事実そのものを(辛くはあっても)すっかりあらわにする作業も必要でしょう。 ブラジュロンぬさんのこのご質問は実に複雑で解明が困難な、人間社会に潜むこみいった汚い部分を引きずり出されたような気がいたします。 >おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?  赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか? おそらく、そうなのでしょう。今の日本の政局のようにぐっちゃぐっちゃになってしまった人間関係を元に戻すことは人間の能力ではおそらく不可能でしょう。あるいはフクシマの原発の惨状とのシノニムも上げてもいいかもしれません(が、これは余計なことです)。 でも、ですね、そうやって人間の能力に絶望してしまうだけでは救いはないでしょう。惨状をほおっておくことが最善だとでも仰るのでしょうか。解決の道はないのでしょうか。その道を探るのが哲学なのではないでしょうか。 かって、ヒロシマ市民は惨禍を自分の身に引き受けて前を向きました。こういった赦すという高貴で最高の道はどこかにあるはずだと思います。 人間は幸か不幸か進化の過程で膨大な記憶力を獲得しました。しかもそれだけに満足せず、文字を発明して無限に近い記憶とそれらへののアクセスをも可能にしました。過去に得た莫大な知の富をわがものにする事が出来た一方で、過去に犯した罪もまた圧倒的なプレッシャーでわれわれの心身にのしかかってくるという辛さも経験しています。 こういったものをコントロールする知恵をわたしたちは考えねば成らないと思います。 私はさほど深刻なものではないのではないか、と思っているのですが、どうでしょうか。 前回の訂正 保障→補償

bragelonne
質問者

お礼

 ★★(回答No.1) 人(B)は 人(A)のあやまちを赦すことはできない  ☆ この命題を 次のように変換することを この質問は問おうとしています。   ○ 人は その生まれつきの自然本性としての能力によって 人の    あやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。        ○ 人と人との関係は その行為やまして存在にかんして 赦す・    赦さないといった判断をするようには出来ていない。(マチガ    イを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である)。    自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さない    かの判定をするようには出来ていない。   ○ わづかにおそらく 嫌悪や憎悪をその――心に反してでも――    想像力によってかき立てた人間から始まって それがついには    人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化(ま    づ初めは 考え方)を生んだ。  ☆ よってこの現行の文化を見直そうと言っています。  こまあすさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 私はさほど深刻なものではないのではないか、と思っているのですが、どうでしょうか。  ☆ おそらく 実際の事例として  ★ かって、ヒロシマ市民は惨禍を自分の身に引き受けて前を向きました。こういった赦すという高貴で最高の道はどこかにあるはずだと思います。  ☆ これを挙げて 大きく見て言えば 心配ないのだということだと思われます。  ですから あらためて復唱しますが  ★ ~~~~~  過去に得た莫大な知の富をわがものにする事が出来た一方で、過去に犯した罪もまた圧倒的なプレッシャーでわれわれの心身にのしかかってくるという辛さも経験しています。  こういったものをコントロールする知恵をわたしたちは考えねば成らないと思います。  ~~~~~~~   ☆ というとき ヒロシマ・ナガサキの《愛》からの出発をお手本に挙げておられるというかたちです。  愛からの出発と勝手に言いかえましたが それは  ★ 惨禍を自分の身に引き受けて前を向きました。こういった赦すという高貴で最高の道  ☆ のことに当ててよいと踏んだ結果です。そして 一点のみ別の考え方をこの質問はしており その点を問うています。  ★ こういった赦すという高貴で最高の道  ☆ この《赦すという道》の まづ表現について そしてその中身について こだわろうとしていることになります。  惨禍をもたらしたものについて きちんと管理し果てはそれを無しで済ますことができるようにしようという哲学による批判をすること これをまづおこなう。  そしてじつは それだけである。というのが 人間の自然本性の能力にふさわしいのではないか。  ヒロシマ市民は あるいは日本人は その暴挙のあやまちを赦したのでしょうか? その暴挙をおこなった人たちを赦してやると思ったり言ったりしたのでしょうか? あるいは赦さないぞと言い続けていましょうか?  あやまちとそのマチガイの内実をしっかりと考えその成果を世界の人びとが互いに共有しあたらしい交通のあり方を模索していこうと哲学するほかに 赦さん! 赦すもんか! 土下座されても赦せん! という思いや考えを表明していましょうか? また表明すべきでしょうか?  ★ ~~~~~   >おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?   >赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか?  おそらく、そうなのでしょう。今の日本の政局のようにぐっちゃぐっちゃになってしまった人間関係を元に戻すことは人間の能力ではおそらく不可能でしょう。あるいはフクシマの原発の惨状とのシノニムも上げてもいいかもしれません(が、これは余計なことです)。  ~~~~~~~  ☆ 《不可能ではない》と ご自身がヒロシマ市民の事例を挙げておっしゃったのぢゃないでしょうか。  ★ ~~~~~  でも、ですね、そうやって人間の能力に絶望してしまうだけでは救いはないでしょう。惨状をほおっておくことが最善だとでも仰るのでしょうか。解決の道はないのでしょうか。その道を探るのが哲学なのではないでしょうか。  ~~~~~~~  ☆ 《赦す・赦さない》から自由になること あるいはむしろ自然本性において人はそれらから自由であるということ これは人間の能力であること これが解決の道につながるのではないでしょうか?  《能力によって 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ないし しない》 ここから前向きの姿勢とその身と心に湧き上がる力が得られるのではないでしょうか?  いまの常識あるいは文化が ことをややこしくしている。こういう問題ではないでしょうか?  ★ 過去に得た莫大な知の富  ☆ が手枷足枷になっていませんか?  ★ 過去に犯した罪  ☆ についても 人はまづおのれに関する部分はいともたやすく赦している。人は自分はかわいい。人はおのれを赦す天才である。  だったら その天才ぶりを 出発点としての自然本性にまでさかのぼって 赦さない・赦す以前の人間の能力において見直してはどうか?  フクシマになると ヒロシマのときより人びとは 賢くなりすぎたのでしょうか?  

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