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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人は 人のあやまちを赦すことができるか)

人は人のあやまちを赦すことができるか

noname#180065の回答

noname#180065
noname#180065
回答No.8

ごめんなさい。私の回答の仕方が稚拙です。 確かに批判ですね。 何故そうなるのだろうと 自分の欲求だけ貫いた回答になっています。 携帯から回答をしているので、一つ一つに丁寧な回答が難しく、 気になった点だけあげさせていただきます。すみません。 前提となる考えで 何故心が晴れていたら、傷つけられても平気なんでしょう? 始まりは傷つけられてからがスタートラインでは? 強姦者は欲求の目的を達成しています。心が晴れるのでは? レイプを被った人は、場合によっては子供をおろし、そのため、 流産を繰り返し、二度と子供が産めないようになります。 健やかな心で、女性が仮にいたとしましょう。 旦那も健やかで、女性の両親も健やかで、幸せだと言うとしましょう。 産まれてくる筈の子供も、僕はこうなって幸せだ。 と、子供に言わせる世の中にしたいですか? そう考えると、秩序を守るためにも、その心は戻らないようになっているのかな とも思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 またたびさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  批判は 歓迎ですよ。  とことん批判を受けてマチガイや考え及んでいないところをおそわるのは いちばんのご馳走です。  【Q:おなじみ:悪は存在しない。・・・】へのご回答にまだお応え出来ていないのは 昨夜は早く就寝したためです。こちらに先にお応えします。  ★ レイプを被った人  ☆ について次の質問をしています。心が晴れ続けているなら その被害はただ《蚊が刺しただけ》という結論を提出して問うています。  【Q:ザビーヌ事件について】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5548780.html  【Q:ザビーヌ事件について なぜそれを無効の行為だと判断してはならないか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5724038.html   ▲ (ヰキぺ:ザビーヌ・ダルデンヌ) ~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%8C  ザビーヌは1996年5月28日、12歳のときに通学中に誘拐され、犯人の家の特製地下室(幅99cm・奥行き2m34cm)に80日間閉じ込められる。その間、小児性愛者である犯人から性的虐待を受け続けた。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ このあと 何ともなかったかたちで元気にやっているそうです。    ★ 強姦者は欲求の目的を達成しています。心が晴れるのでは?  ☆ その目的に関するかぎり 達成感はあるでしょうね。ただしその行為はすでに自分のであれ相手のであれ心と意志とを偽っていると考えられます。銀行強盗も一たん盗みおおせたなら その意味と範囲では心が晴れるかも知れません。  要するに ウソをついたことが通ったとしたら それとして達成感は・・・あるのかなぁ? あるかも知れないけれど へその曲げから始まっているので さらに心がねじれるのではないでしょうか?  たしかにこれをもへいちゃらで乗り切ってしまおうとする場合には その心のやわからさは麻痺して頑なに成って行くと思われます。  したがって 《心が晴れている》という言葉には やはり二種類の内容があるように思います。  言いかえると 第二次の《イツワリの意志行為についてでもよいから達成感を得て心が晴れる》という場合には けっきょくその行為が失敗したときなどには 《赦す・赦さない》といった感覚が強く根づいて来るのではないでしょうか。  なぜなら 第一次の・ふつうの自然本性にあっては 何かを目指してその目的を達したから《心が晴れる》というものではないからです。基本的に言って そこでは《赦す・赦さない》という観念は出て来ないはずですから。  ★ ~~~~~  ・・・  旦那も健やかで、女性の両親も健やかで、幸せだと言うとしましょう。  産まれてくる筈の子供も、僕はこうなって幸せだ。  ~~~~~~~  ☆ ですから 《こうなって幸せだ》つまり心が晴れるというその順序ではないからです。出発点が 違っているという見方を提出します。  つまり その災難に遭ったとき一たん《心が晴れなくなった・曇った・雨が降った》ということではなく――つまりその時には実際には天候のわるい状態に入り悩んだり苦しんだりさまざまに考えるでしょうが それは元からの《にっぽん晴れ》を確認しさらに晴れさせるための試練であるのでしょうから―― 《ゆるす能力もゆるさない能力も人にはもともとないのだ》という能力を発揮するようになるための事件だったとなると思います。  そうしてそのような場合 基本的な対処の仕方として哲学による批判は すでに加害者に対して述べているはずです。  ★ ~~~~~  健やかな心で、女性が仮にいたとしましょう。  旦那も健やかで、女性の両親も健やかで、幸せだと言うとしましょう。  ~~~~~~~  ☆ 加害者がどういう反応を示すかを別として 哲学としての批判をきちんとしっかりと述べ伝えたのであれば 心はすこやかで元のまま晴れているということだと思います。それ無しにすこやかな心でいなさいというのであれば それは泣き寝入りせよとかアホバカ状態になれとかいうことに過ぎなくなります。  もし生まれることが出来たならその子どももそのように考え方においても 心の晴れを確認するとよいと思います。  ★ そう考えると、秩序を守るためにも、その心は戻らないようになっているのかな / とも思いました。  ☆ これは 哲学による批判のほかに 確かに人びとの間での取り決めとして・つまり法律として互いの交通の規則を決めてそれによって捌く(あえてこの意味合いで)ことも 秩序を守ることになると考えます。  ★ ~~~~  前提となる考えで  何故心が晴れていたら、傷つけられても平気なんでしょう?  始まりは傷つけられてからがスタートラインでは?  ~~~~~~~  ☆ 根本的な主題であると考えます。《自然本性》とは何か? といった問いが含まれるであろうからです。  でも簡単に見てみます。  ○ 言葉遊びだと言われかねませんが 《心が晴れていたら その心は傷つけられることはない》のです。  ☆ 怒りは起きますし ちょっと注意しても聞き流しているのを見たら憎しみも起きあがります。でも心が損ねられることはないはずです。傷がつくのは とうぜんのごとく加害者のほうです。  ということは 二次的なねじれた心から目論見や計らいを持ってその実現を目指して行動するわけですから その時点からずっと心は傷つけられていると思われます。  言いかえると ここで哲学による批判と言っているそのコトは けっきょくへそ曲がり人間がすでに心を傷つけつつ行動しているのであるから 誰かにそのことを指摘して欲しいと――心の奥底では――言っているようなものである。こう考えられませんか?  わたしたちは加害行為をこうむったら むっとしますしその怒りを隠すこともありません。とうぜんその加害行為のマチガイであることをその理由をしっかりと哲学的に考えたところとして述べ伝える。ということは 心の晴れている人間の場合は 相手からそのような要請があったという実質的なかたちにおいて ちょっと世話を焼く(もしくは 自己の心の回復を手助けする)ということになると見ます。  晴れた空に雲が出たり雨さえ降ったりするでしょうが それも元からのにっぽん晴れの確認と再生への試練であって その間こころが傷ついたり落ち込んだりするということではないと考えます。(心理的に・つまり大海の表面に波風が立つようなかたちで 気が沈むことはあります)。(そして 自分にも出発点に 心のねじれがあった場合には ちょっとした傷もつき落ち込むこともあります)。    このようにして 次に言う《スタートライン》については事情が違って来ていますというお話なのです。  ★ 始まりは傷つけられてからがスタートラインでは?  さあ どこまで有効でしょうか?

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