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思念の現実化
現代の物理では、世界の構造は理解尽くせないようですが、 ずっと気になってきたことを一つ。 人によってはそうでないと言いますが、私の場合、 思ったこと、特に無意識に近い部分で漂っている感覚が、 高確率で現実化します。最近では、多少コントロールできる ようになったんですが、まだまだです。 どうして、思念は現実化するんでしょうか? 関する知識などお持ちの方、どんな些細なことでもよいですので、 お教えください。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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#9 【でも、例えば、現実のものとする力があったとして、それをどのようにして使っていけばよいのか、その結果が他に対してどのように作用するのか、まだ全体像を把握できていないんです。】 というコメントを戴きました。 夢の事項を現実たるものする力を使用しているのは、質問者さんや私たちの真底の自己であるとするならば、それにより現実化(現実だとおもわされている)されているのが質問者さんや私たちという夢存在でしょうね。 そういう夢存在が何かと全体像やどう使えばいいかを考えても結論は得られないと存じます。 私たち夢存在は真実自己はもう究極者ですから、その先に意図や志向しなければならないものも、価値も理念も自己自身いがいにないなのだと存じます。 というわけで、その真実自己自体になること以外には結論はない。ということになりますね。 つまり夢の自己を解脱して、飛び出すことではないでしょうか? そんなふうな修行や哲理はパラマハンサ・ヨガナンダとその創立の教団が教えています。ヒンドゥ系統です。 Self-Realization Fellowshipという名称の団体です。
- SPROCKETER
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思念が現実化するのが事実なのか、そう思い込んでいるだけで現実ではないのか、という点で意見が分かれるところですが、同じような経験が誰にでもあるだろうと思います。 特に、最近多いのは、テレビでニュースを見ていると同じ数字ばかり繰り返し放送されているように感じます。錯覚でしょうか、それとも、実際に同じ数字が使われるニュースが多いのでしょうか。 思念が現実化するという話は古代からあり、魔法や神通力として知られています。現実に魔法や神通力があると考えるか、それとも、単なる妄想に過ぎないのかは人によって意見が分かれるところです。 もっとも、多くの人は、そういう現象は誤認か、錯覚であり、思い込みに過ぎないものだと考える例が多いようです。 しかし、本当にそうなのでしょうか。哲学的な立場で考えるならば、思念で現実がコントロール出来るのならば、現実は人間の意識の一部と考えるしかなく、コンピュータシミュレーションの中にいるゲームプレイヤーが仮想世界をコントロールしているのと同じ事になります。 もし、現実が仮想世界であるならば、我々は人間ではなく、人間として認識しているのは仮想世界でのアバターに過ぎない事になります。そうならば、我々とは何かという大問題が生じる事になります。 現実の世界が現実ではなく、仮想世界であるならば、我々は事実上、無限のエネルギーを使う事が可能であり、思った事で実現不可能なものはないはずです。 なぜならば、我々がいる世界が別にあるのであれば、現実とは3次元空間に構築された仮想世界に過ぎず、我々は3次元よりも高次元の世界(おそらくは5次元)にいると考えなければ説明出来ないからです。 そうであれば、3次元の世界の住人である人間が2次元の世界で何でも出来るように、5次元の世界の住人である夢の存在は3次元の世界で何でも出来るはずです。 しかし、現実には、そんなにうまく行きませんよね。思念で思い通りになるのは限られています。それは、なぜなのでしょう。 やはり、現実は3次元の世界にいる人間であり、5次元の世界に夢の存在がいて、それが我々の正体だというのは宗教的妄想に過ぎないものでしょう。それが事実であれば、怨念や遺恨が現実の世界を支配していて、我々の生活に大きな影響を与えているはずだからです。 1つの仮説なのですが、我々は人間であり、現実の世界は現実の世界のようです。ただ、思念が現実化するのは、何らかの機械があって、それを使って思念を現実化させていると考えるのが最も現実に近いように思います。 それでは、その機械とは何なのかですが、5次元の世界に機械が設置されていて、その機械を制御出来る権限が与えられている人間がいるとします。言わば、携帯電話を使えるように契約している人がいれば、そうでない人が出来ない遠距離通話が出来るのと同じです。 そういう仮想機械が5次元にあるのであれば、仮想機械の力を使って現実を変えるのは不可能ではないでしょう。仮想機械から見れば、我々がいる世界は仮想空間に過ぎず、何でも変えられるコンピュータシミュレーションと同じであり、仮想機械を操って現実を変えれば、不可能が可能になるというわけです。 古代の人達が考えていた魔術や呪術は、これと同じ発想で現実では不可能な事態を仮想機械を使って実現しようとしたものでしょうが、5次元の世界に実際に仮想機械があるのであれば、確かに、そういう現実を超えた事が実現出来るはずだという話になるようです。 では、思念をどうやって仮想機械に伝え、現実化するのでしょうか。古代の人達は紙に書き記し、祈祷をおこないました。現在はインターネットに書き記す行為に変わったようです。 思念が現実になるのが事実とすれば、現実とは何なのでしょうか。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.2:補足 そしてこの現実とされる世界も、実はその真実なる自己の夢の世界だという事なのでしょうね。
お礼
私も実感として、この世界のあり方は素晴らしい、と感じています。 回答者さんと同意見です。 でも、例えば、現実のものとする力があったとして、それをどのように して使っていけばよいのか、その結果が他に対してどのように作用する のか、まだ全体像を把握できていないんです。 そこが知りたいと思ったわけです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.2: 宗教の原理的理論でのご説明があります。でも私はその冒頭からもう読めなくなります。 質問者が無意識とか、深いところといっていることはとてみ大事で、その層というかレベルは日常的な騒がしい思考や感覚知覚の経験界を鎮めたところなんでしょうね。 だからそこは小賢しいあたふたした自己ではなく、深い自己の層なんでしょうね。 多分真我とか真実の自分というところなんでしょう。 いろんな日常の本当の行為や経験もそこの自分が、実はしているのでしょう。 そこにいけるならば、そこの観念や感覚を物象化していくことは人間の能力として矛盾はないのではないでしょうか。 この地上界とその見え方、そして経験と行為というものはそういうものなんですね。 素晴らしいですね。
- east_end_404
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>どうして、思念は現実化するんでしょうか? 「現実化しやすい・叶いやすい事柄」を思い浮かべるからです。 >順番を決める際、じゃんけんやくじなどを使うことがあるかと思いますが、順番は自分で決められますね。 これは、通常は「感が当たった」と見做されるものでしょう。 又、じゃんけんも「出し癖」というものがあるので、当てやすいのです。 >教師が、誰かに答えさせる際、誰を当てるかなどは決められます。 これは、その教師の指名に於ける癖やその教科の得意・不得意な生徒に関する情報が既に記憶にあるから、「当てられる」というだけです。 >これらは拙いので、滅多に使わないですが、 「滅多に使わない」のは、「滅多に叶わない」「滅多に当たらない」事を貴方がご存知だからです。これこそが、「貴方の思考が現実化する」のではなく、「現実に起こり得る事柄を予想・予測しているに過ぎない。そして、『予想・予測が当たった事柄だけ』記憶していたり、都合良く解釈している」という、確たる証拠です。 >誰かの病気からの回復の際、自分で立ち直れるためのお手伝いとかはたまにやります。 「傷病人の介護看護」や「治癒祈願」は世界中で至極一般的に行われています。しかし、患者が回復するのは「適切な治療」と「患者本人の体力・抵抗力・治癒力・気力」に因るものです。それは「貴方の思考の現実化」ではありません。 医師や看護師には、「この人は持たない」「この人は絶対治る」と直感する事があるそうですが、それは今迄の経験の蓄積から「確率的に高い直感的予測」であり、それが現実となっても「ああ、やはり」であって「自分の思考が現実化した」とはなりません。 先のくじ引きやじゃんけんについては、「順番を決める為に100人が100本のくじを引く」際に「1番から100番まで、誰が何番になるか全て的中させられる」「100人が2人組でじゃんけんし、最後に勝ち残るのが誰か、言い当てられる」のですか。 教師が誰を当てるのかも、「今迄教わった事の無い(どんな先生か、全く情報を持っていない)教師が、初対面の生徒ばかりのクラスでの最初の授業で指名する順番を『全て』当てられた」のですか。 「思い浮かべた事」を全てノート等に書き留め、「現実化した/しなかった」と結果も付記していますか。していないのなら、貴方は「外れた時の事は頭から削除している」か「当たった時の事しか覚えていない」か「たまたま当たった事を強く記憶している」か、のいずれかです。 数学の確率・統計は学んでおられますか。未だならば、是非学んで下さい。 或いは、貴方は「認知の歪み」を起こしている可能性が高いと思われます。「全能感。万能感」も窺えます。ここではなく、しかるべき医師との対話が必要でしょう。その医師が、貴方の疑問に「正解」を答えてくれますよ。
お礼
癖ではないですよ。全部初めてのフィールドでのことですから。 得手不得手は知る由もないです。 患者が回復するのは「適切な治療」と「患者本人の体力・抵抗力・治癒力・気力」に因るもの、私もそう思います。 でも、ここには患者の意志が大きく関わっていると思います。 病気に関わらず、基本、誰かの大きな意志が関わるとき以外、私がやろうと 思ったとき、すべて、変えられます。まあ、経験則程度ですよ、科学的にみたら。 確率・統計っていうと高校数学みたいな響きがありますが、 私は統計については満点とはいかないまでも、原理くらいなら 知ったつもりです。ちなみに科学のフィールドでも使えます。 確率は高校レベルですが。 ちなみに私は現代の科学に反するような領域を考える場合、敢えて 記述しません。科学のガチガチ感が影響しそうだからです。 というと、逃げだとおっしゃるかもしれませんが、そうかもしれませんね。 確率や統計は、ミクロな視点で個々を十分に追えないのでマクロな視点で 動きを予想したりまとめたりする学問だと思ってます。 つまり、科学的にはまだ十分ミクロな視点から動きを観察したりできない ということです。 科学でもまだ、未知の領域や真実を探るために、ブレイクスルーが 必要だと考えています。医学でもまだ解明できないことがたくさんあります。 脳はまだ序の口程度にも解明されてないはずです。もし、科学的にも 我々が思うことと、現実とのリンクがより詳しくわかったら、面白いと 思いませんか?
再度失礼します。 察するところ、すべてが第七識以下の思考のように思われてなりません。 元の部分云々、と仰っていますが(第八識の世界を)そのように思量する事自体が、正に第七識以下の働きの現れのように思えます。 第八識における覚知というものは、およそ思量とは言い難いもののようです。 ご質問者様がすでに、第七識における働きと向かい合っておられるとしたならば この世界の有り様を知る方法としては 禅定による体験が最も有効なのではないでしょうか。 五感を滅却した体験を味わうだけでも十分に有効だと思われます。 また、さらに進めば 五感や意識に付随してはたらく直観の働きが解放される時 この世界が、ありのままに姿を現すはずです。 直観という無限のレーダーが全てを教えてくれるはずです。 そこには、第七識の思量という迷いはないと思われます。 諸法無我、という言葉に表される実相を身をもって知る事になるのではないでしょうか。 第八識の世界なのでしょう。 また、第八識に到達しなくても、人それぞれの機縁に従って、雷の如き知らせが落ちる場合があります。 それがどのようなものなのかは、伏せておいた方がよいと思います。 意識に関わりなく、そうしたものが有りうるという事だけは心得ておいてください。 ご精進を祈ります。
お礼
一昨日書きました元の部分云々は、言語化を無理やり試みたときに 生じたので、うまく書けませんでしたが、これまでを通して、 第八識には自我はない、ということはわかりました。 正直言って、自我以外のものは、ぼんやり感じる程度で、あまり感じ られないときの方が多いんです。 私のしていることが、第七識を主体とした何かへの作用であるなら、 本当に拙いことですね。 できれば、第八識に到達した方を身近に知る事ができたら、 迷いはなくなりそうですけれども。
>思ったこと、特に無意識に近い部分で漂っている感覚・・・ この正体が問題です。 いつ、どこで、どのようにして生じたのか? 意識(第六識)との関わりは? また、現実化したところの結果が持つ自己への影響度は? その影響度まで最初の思念に含まれていたのかどうか? もし・・ですが 仰っているところの思念なるものが、自己意識に関わらず生じたものであったなら検討に値すると思います。 そこには、100%の現実化という明確な条件も付きますが、どうでしょう。
お礼
私が書いた、無意識に近い部分で漂っている感覚、というのも曖昧な 表現でしたが、私が感じられるのは、この世界を形作る上で元と なっている部分だろうと思っています。 この、元となる部分は、おそらくもともと存在している領域で、 100%現実化しています。 したがって、いつ、どこで、どのように生じたのか、と言われれば、 すでにそこにあるものと答えます。 意識(第六識)が、私が元の部分と呼ぶところに作用しているのかに ついては、はっきりとはわからないんですが、元の部分にはある種 波長的な内容物があって、それを変えてやると意識レベルの世界に 変化が生じると言った事は経験上わかってます。 元の部分では、自己以外のものを主に感じているので、直接には 自分に影響しなさそうなことも変化させられると思ってます。 自分についての感覚というのは、感じやすいので、より簡単で、 変化が明瞭です。 唯識的な観点からは、どのような位置付けになるのでしょうか。 この先、世界の有様を知るにはどうしたらよいでしょうか。
第七未那識以下の思量が現実を変えたと誤認なさっておられるようです。 高確率という表現がその現れです。 100%の現実化はあり得ない、という前提のもとに事象の変化の推測を楽しんでいらっしゃるようにお見受けします。 いずれ、雷が落ちるかもしれませんね。 それは推測ではなく、100%の知らせというやつです。 雷に打たれて痺れる前に止めましょう。
お礼
私の場合、思ったこと、特に無意識に近い部分で漂っている感覚が、 高確率で現実化します、と書きましたが、高確率ではなくて100%ですね。 この感覚の変化が、100%思い通りにいかないという意味です。 例えば、古典力学的な法則で表せる現象は、この感覚を使って 変化させたことがありません。 唯識論は言葉を聞いた程度なので、内容見てみたいと思います。 第七未那識以下の思量では、第八阿頼耶識への作用はなく、 第八阿頼耶識の発露が第七未那識以下であるということなのでしょうか。 私はこの感覚の変化を一般に良いと言われている事に使うよう 心かけていますが、世界の構造が見えてこないと一体どのように したらよいのかと思ったわけです。
>思ったこと、特に無意識に近い部分で漂っている感覚が、 高確率で現実化します 具体的にどういうことが起こったのか説明していただかないとわかりません。 過去にあった「念力でスプーンを曲げる」は手品だったそうです。 当時みんな騙されたそうです。
お礼
身近なもので言えば、順番を決める際、じゃんけんやくじなどを使う ことがあるかと思いますが、順番は自分で決められますね。 教師が、誰かに答えさせる際、誰を当てるかなどは決められます。 これらは拙いので、滅多に使わないですが、誰かの病気からの回復の際、 自分で立ち直れるためのお手伝いとかはたまにやります。 ちなみに、物質物質した力学的な法則は今のところお手上げです。 つまり、スプーンは手でしか曲げたことがありません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
多くの場合、私たちは思念が現実化しても、いや現実化しているのにそれを知らない。気付けない。そうとは思えないという事なのだと存じますが。 自分と外的情況の全てはそういう思念の現実化の結果ということを考えられないでしょうか?
お礼
深い部分で漂っている感覚は全て現実化してそうですね。 少なくとも私は回答者さんと同様、外的状況の全ては深い部分にある 感覚の発露と考えています。 この感覚自身や、感覚の変化の由来を知りたいと思ったわけです。
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お礼
私は科学の心得程度なら持っているかもしれませんが、 物理や数学の知識については、素人なので、以下は私の ただの稚拙な考えです。 私も、我々の本質という存在が、現実世界と呼んでいる世界 よりも高次の世界にあって、その高次の世界においてなすことが 現実世界へ影響しているだろう、ということは考えた事があります。 高次の世界からのこちらへの影響は、仮想世界の存在を操る ごとく働くか、それとも高次元で成したことがこちらで影として 映り、それを見るだけなのか、など考えられると思います。 思念の現実化がありうるとして、 私の経験上、直接に古典的物理法則を覆して、私の言っている 現実化を行えた事はないと思っているので、これが私の能力不足に よるものでないと考えるならば、回答者さんのおっしゃる仮想機械の 使用がある程度規制されているということになると思います。 私は、こちらの世界への作用に関して、監視役や現実世界の 構成役がいると考えたりします。 ちなみに、私は、こちらの現実世界は縦横斜めの3次元構成ではなくて、 2桁程度に多い次元構成なのではと考えています。 例えば、3次元では、時の動きはもとより、どうやって、どうするなどの動きや目的を与える要素が欠けてしまうのではないかなと。我々はそれらの 要素をよく使っているわけですし。まあ、例えばの話ですが。 この現実世界は、次元を落とすことで、何かを習得させる教育機関の ようなものなのかな、とも考えたりしますが、どうなんでしょうね。 高次世界での動きを常に観察できる人がいると、色々わかりそうですけどね。