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ヤマト王権の統一について

sala1の回答

  • sala1
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回答No.5

 追補です(少々細かいですが・・・) 中国の史書からこの時代の倭国を見てみましょう。 まず、劉備玄徳・諸葛孔明で有名な「三国志」。 この時代の後、中国は「魏・呉・蜀」の三国が鼎立します。 紀元220~280年間の歴史を、陳寿という人が魏書30巻・呉書20巻・蜀書15巻の計65巻で正史としての「三国志」として記述しました。 このうちの魏書(魏志)の中に「東夷伝」があり、その中に「倭人」の項があります。 いわゆる「魏志倭人伝」です。 ここに「邪馬台国・卑弥呼」の記述があるわけです。 「邪馬台国」は比較的大きな政権であったようですが、ヤマトの王権であったかが定かになっていません。 次に中国も国が変わって「晋書・梁書・南史」などに413~502年のこととして「倭の五王」が「高句麗・百済」などの王と同様に中国のそれぞれの朝廷に貢物をおくり、「安東大将軍・鎮東大将軍」などの官職を得ています。 「讃・珍・済・興・武」の五王は「履中・反正・允恭・安康・雄略」の天皇に相当するものとされています。 広開土王碑にあるように、このころの倭王は「安東大将軍・鎮東大将軍」として朝鮮半島の軍事にも関わっていました。 応神天皇に始まって仁徳天皇、次いで「五王」が立つなど、この王統は邪馬台国以上に勢力が大きかったように思いますが長続きしません。 その内情は不安定なようでした。 その後、中国は「隋」に国が変わります。 日本も雄略天皇以降国が乱れ、502~600年までの間、国交が途切れます。 朝鮮半島の拠点であった「任那」の地も失います。 ついに武烈天皇の代で「倭の五王」を排出した王統が断絶します。 6世紀になって、新しい王統として近江や北陸地方に勢力をもつ豪族が大和もその勢力下に治めることになります。 これが「継体天皇」を祖とする王統です。 この王統は次の「欽明天皇」の代に大和の地盤を固めました。 この頃、仏教が本格導入されます。 こうしてヤマト王権が統一されるに至ったと考えられるのです。 この二代後に「聖徳太子」を排出します。 「国家」としての体ができあがってくることになります。 長くなりました。ごめんなさい。

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