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世の中は加害者と傍観者が幸せになるのでしょうか?
- 加害者と被害者と傍観者の3種類の人間が存在し、人生をエンジョイしているのは傍観者のように感じられる。
- 冷たい現実が世の中の常識であるなら、私も冷たい人間になることを考えている。
- 他人を見捨てたり噂で追い詰めたりすることは罪に問われないため、何故この現実が変わらないのか疑問である。
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特におかしいとは思いません。 私も、一理あると思いますし、考え方のひとつだと思います。 多くの人は非日常を嫌いますから、加害者になる人も少ないし、被害者には当然なりたくない。 障害事件やイジメなどには、この3者論は成り立つと思います。 ただ、加害者と被害者以外が全員傍観者かと言うと、そんなことないと思います。 最終的に結果を出せなかったとしても、あるいは、行動に移せなかったとしても、被害者に手を差し伸べたい人がいるはずです。その人たちをも冷たい傍観者と呼んでしまうのは寂しい気がします。 加害者、被害者、傍観者 以外の分け方で分類した場合、また違った角度でものを考えられるのではないかなぁと思います。
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そうは思えません。 加害者・被害者といたら、傍観者と、世話焼き係もいます。 近所に1人や2人は得もしないのに世話焼き好きな人はいます。 私は世話焼きの部類ですね。 また、被害者を誹謗中傷してる人が人生をエンジョイしているとは思いません。 むしろ、そのような品性に欠ける行為をしていれば、おのずとそれはめぐりめぐって 自分にも返ってきます。 それが解っている人は、理性のある人です。 あなたは、やりきれない、やるせないなどと言いつつも、結局何もやっていないのだから、 傍観者なわけですよね。つまりそれは、あなた自身、冷たいってことです。 現実とは、それぞれの人にあります。 あなたがやりきれない、やるせないと思いを綴って何もしない現実もあれば、 そこに割り込んで行って両者を仲直りさせる世話焼きの人の現実もあります。 現実とは、世間全体ではなく、個人個人が見ているもののことです。 あなたから見れば暗い現実に見えるかもしれません。 しかし、私は理性がありますし、事実目の前で起きていることがおかしいと 思えば声をあげ、行動していますから、結果的に明るい現実が「見えます」。 でも、傍観しているあなたにはそれが明るくは見えないでしょう。 人間性でメシは食えないなどというのはまさしく人間性を育まなかった結果でしょう。 人間性を育むとは、自分から他人のために見返りを求めずに行動することで、 相手に良き結果をもたらし、信頼を得、その結果、それが自分に返ってくるものです。 例えば、震災がありましたが、その前から東北の方に色々と助けてもらっていたり、 また、国の間でも日本から支援を受けている国は、こういう時だからこそ手を貸し、 支援を広げました。 人間性とは、そういうことです。 他人のために見返りを求めず、自分が損しても相手に喜んでもらうことを日常的に していない人に、人間性などというものはなく、当然メシは食えません。 あなたにとってキツイアドバイスかもしれませんが、あなたに私の見えている 現実は曇ってみえないようですね。
- hiro822
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反発しますよ~ 世間の大半が加害者と傍観者ではなく、世間の大半は傍観者と被害者。 マスコミは糞ですが、彼らは傍観者でなく加害者。 加害者に対しても、被害者に対しても、加害する者。 でも、情報は重要なので、マスコミによってフィルタリングされた情報を、再度もとの情報に戻して 咀嚼する必要があります。そのまま鵜呑みにしていたら、それはマスコミと同レベルの糞。 なので、加害者か被害者を誹謗中傷する傍観者の方が人生をエンジョイしているのではなく、 傍観者のフリをしている加害者がいるだけのことです。 別に、冷たい現実でもないと思うので、冷たい人間になる必要はありません。 冷たいのは、加害者としてのマスコミの報道です。 傍観者が正しい解釈をしましょう。 人間性でメシは食えないのではなく、 人を感動させて飯を食うのです。 他人を見捨てることは何の罪にも問われないですし、他人を噂で追い詰めても犯罪にはならないですが、 罪や犯罪ではない、目に見えにくい荷を背負うことになるのではないでしょうか。 人に信頼されないとか、人生の質を落とすとか、そういう類のことで。
お礼
>多くの人は非日常を嫌いますから、加害者になる人も少ないし、被害者には当然なりたくない。 障害事件やイジメなどには、この3者論は成り立つと思います。 私が書いたことがまさにそうです。何故書いたのか?それは私自身がイジメの被害者だからです。 >ただ、加害者と被害者以外が全員傍観者かと言うと、そんなことないと思います。 最終的に結果を出せなかったとしても、あるいは、行動に移せなかったとしても、被害者に手を差し伸べたい人がいるはずです。その人たちをも冷たい傍観者と呼んでしまうのは寂しい気がします。 気持ちだけで行動しないと言う論理は社会では通用しないですし、被害者だった当事の気持ちを考えると50歩100歩でしかないのです。勿論、巻き込まれたくないと言う気持ちは否定しません。だから被害者を誹謗中傷する傍観者と書いたわけです。 >加害者、被害者、傍観者 以外の分け方で分類した場合、また違った角度でものを考えられるのではないかなぁと思います。 細かい意味合いを省けば、結局はそうなるって意味で大別しました。 ありがとうございます。