日本語の保守化する傾向について

このQ&Aのポイント
  • 日本語の保守化する傾向について
  • 日本語の保守化する傾向とは、美しい日本語を目指す一部の人々が文法や用法を厳格に守ろうとする風潮のことです。
  • しかし、この保守的な風潮によって、本来の言葉の用法やニュアンスが薄れていく恐れもあります。日本語の美しさを守りつつも、柔軟な表現も大切にする必要があります。
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日本語の保守化する傾向について

しばしば「美しい日本語」という論点を提出して、言葉の乱れを批判する方がいらっしゃいます。確かにちょっとした一言のニュアンスで腹が立つこともあるのだから、表現を正確に伝わるように訓練するのはよいと認めるところです。しかし、時には用例があるにもかかわらず、用法を狭めている方もいるのです。たとえば、次のような指摘を、ネットで見つけました。 (例) 「より」と「から」を混同しない。 「より」を「から」の意味に使っているケースが、散見されます。「より」は、比較を表す場合に使い、起点を表す場合は、「から」を使います。 ・悪い例 A社より、当社と取引するという電話がありました。 ・よい例 A社から、当社と取引するという電話がありました。 しかし辞書を開ければ、格助詞の「より」には動作・作用の起点を表わすという記述が見つかります。この方は、どうも文法をあまりご存じないらしい。あるいは用法を狭めるべきだと主張しているように思えます。しかしそもそも、それほどまでに日本語の文法がしっかり決まっているのでしょうか。あるいは、将来的にしっかりと決めなければならないものでしょうか。 文章を修練して「美しい日本語」を目指されている方は、多くいらっしゃると思います。しかし、我流なのか、あるいは学術的な裏付けがあるのか知りませんが、もともと用例があったものを認めなくなりつつあるという保守的な風潮を、いかがお考えでしょうか。僕にはどうも納得いかないのですが。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#134290
noname#134290
回答No.16

>ふーん。僕は「結集」と打ったんだけれど、日本語が変ならそれでもいいや。 ◎ご納得いただけましたたようで、御同慶の至りであります。 >結晶という比喩表現の、最初の使用例を知ってるかな。 ◎知りません。 >まぁいいか。知識をひけらかしても趣味が悪い。 ◎それならどうして「結晶という比喩表現の、最初の使用例を知ってるかな。」などと書いたのですか。 はじめっから書かない方がいいのでは。 こういう見え透いた言い方は滑稽の極みです(^▽^)。 >君にとって「美しい」ものがあったとしても、他の人にも美しいと感じる別の基準があるとは考えられないかな。 ◎あるレベル以上の教養人にはそれほど大きな差はありません。 しかし月とスッポンの間のには大きな差があります(^▽^)。

kusa-mura
質問者

お礼

結晶の話だけれど、僕には僕の「美しい」と思う基準があり、またその裏付けがあるという意味で書いたんだ。君は裏付けを書いていないが、僕にはあるんだけれど、と促したわけだ。 まぁ君は信じられないらしい。「努力の結晶」などと、人の行為に対して結晶という言葉が使われるようになった元は、スタンダールの『恋愛論』だよ。ここで「愛の結晶」cristallisation de l'amourという言葉があった。これがとても有名になったんだ。で、翻訳を通じて、日本に入って来た。しかし僕はこれはもともと小説家の言葉だし、比喩だと思う。だから使わない。僕が使わないのは、好みの問題なんだ。 さて、君は上げ足をとっているばかりだが、君には君の基準があるらしい。結構なことだと思う。その結構な基準を、一つちゃんと論じてみてはくれないだろうか。それが立派なものなら、君の言うことにも理があると認めよう。

kusa-mura
質問者

補足

【投稿を締め切るにあたって】 二日もしないで、多くの投稿が寄せられました。結局、僕がベストアンサーに選んだのは、この回答です。これは総合的な論述になっておらず、残念ながら、言いたいことはあるらしいが、僕にはあげ足取りをやりにきただけに見えました。比べて、素晴らしい回答が、他にいくつもありました。知的好奇心に従うなら、これを相手にしている場合ではなさそうだと思えます。それなのに、僕がこの回答をベストアンサーに選んだのはなぜか。 僕は最初、礼儀知らずだと思った段階で、ブロックしようと思いました。しかし、まともな回答でないから受け付けないというのは、この問いの性質を考えていいのだろうかと考え直しました。 なぜなら日本語というのは、皆がつかっているものです。だから学識がないとか、論述がダメだという理由で、お前は発言するなと言ってよいものなのだろうか。これだと、僕が嫌だなと思っている連中と同じではないか。更に喩えを飛躍させると、原子力がこれだけ問題を起こしたのに、専門家以外発言するなと言っているような暴論と同じだ。そう思った時、僕は嫌だなと思いながらも、一応、話を聞いてみることにしたのです。 この回答者は挑発を繰り返しており、総じて僕のことは嫌いらしいのです。しかし、自分が意見を言うべき相手だと思ったのでしょう。もちろん、単に暇つぶしに茶化していただけかもしれない。 しかし、深読みすれば、この投稿は絵文字が多く、2ちゃんねるの記述と雰囲気が似ている。2ちゃんねらーではないかもしれないが、この人の見識というのは、サブ・カルチャーにあるのだと思いました。この方に比べると、僕がいくら保守ではないと自己弁明したにせよ、古典的で、保守の部類に属すように見えたことでしょう。 社会言語学や現代思想を齧った人ならわかってくださると思うけれど、サブ・カルチャーの側から異を唱えるのは勇気がいることです。茶化すというやり方以外、また礼儀知らずというやり方以外、物申す方法がなかったのではないか。こういう理由で、論述の内容と関係なく、この論述をBAに選びました。僕も若者ですが、若者が物申すのは結構大変なことです。いつの時代だってそうなのです(たとえば正岡子規の『歌よみに与ふる歌』のぶった切る調子をご覧ください。ああやって力まないと子規は書けなかったことでしょう。子規の場合、合理性と論理、理想とユーモアがあるので読んでいて面白いわけですが)。 ただ上述は僕の都合であり、主観的な判断です。こうなると見事な回答を投稿してくださった方々に申し訳が立ちません。しかし、失礼ながら回答者の中には学術研究者の方が何人かいるように思ったのです。そういう方々には、僕などではなくても、大学の先生や、学会や、同僚などが、そのご意見の価値を認めていることでしょう。BAの選出など、戯れごとと笑ってお許しください。 ※タヌハチさんの望む補足が来る前に締めてしまい、申し訳ありません。しかし、相手のペースもあると思ったのでした。もしお望みなら、ご自分でディベートに関する質問を投稿し、意見を募ってみてください。また社会言語学系の本にいろいろ書いてあると思います。Ciniiなどで検索してみてください。

その他の回答 (15)

noname#134290
noname#134290
回答No.15

>阿保 ◎不思議な言葉ですね。あなた普段から「アホ」のことを「アボ」と呼んでいるんですか。阿保さんという方に叱られても知りません。 >君は辞書の用例を使わない時は、学識と見識に基づいて行うと言ったよね。であるとすれば、今の君の日本語が、その結集だということになる。 ◎その結集⇒変な日本語 ◎その結晶⇒まあまあの日本語 とてもタイプミスとは思えませんね。 美しい日本語を論じるには日本語力が不足しているように思います。 >僕は設問で示したように、日本語はいろいろあっていと思っている。僕に説得されたのじゃないだろうけれど、君は結果的に僕に同意してくれたってことになる。 ◎はい!決して貴方様に【説得】されたわけではありません。貴方様に【同意】したわけでもありません。 昔の日本人は潔さを美徳としていました。負け惜しみをするのは恥かしいことでした(^▽^)。

kusa-mura
質問者

お礼

ふーん。僕は「結集」と打ったんだけれど、日本語が変ならそれでもいいや。結晶という比喩表現の、最初の使用例を知ってるかな。まぁいいか。知識をひけらかしても趣味が悪い。 ともあれ、君の指摘、学術に基づくのでも、見識があるのでもないね。そもそも、その判断が、辞書を引いたのか、君の判断力によるものなのかも、書いていない。ただ断定しただけ。あまり考えはない人らしいと思ってしまう。 ともかく僕が聞いたことに何の応答もない。自分が言いたいことを書いただけだ。コミュニケーションにはなってないよ。しかし不思議なんだけれど、君にとって「美しい」ものがあったとしても、他の人にも美しいと感じる別の基準があるとは考えられないかな。君が自分の言っていることに本当に忠実なら、誰のことを批判しないでもいいと思うけど。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.14

>ディベートの問題は、帰納法を奨励するということではないでしょうか。論文を書いていても、ヨーロッパ圏は演繹法で説明します。段々と議論が積み重ねられて、自然な形で最後に到達するのが望ましい。が、アメリカン・スタイルはまず結論を言ってしまう。その上で、説得的な証拠を集めてくるというやり方です。 帰納と演繹の言葉の使い方が私の理解している使い方とは違っているようですが、貴方の言いたいことは解りますので、それは横に置いておくことにします。 ディベートやプレゼンテーションのスタイルにアメリカ型があったりヨーロッパ型があったりするとは私には思えません。貴方の言うアメリカ型は、話し言葉で説明するときの最良な型であり、段々と議論が積み重ねられて、自然な形で最後に到達するようなやり方は、最低な型です。一方、論文等の文章で説明するときには、どちらにも優劣は無く、状況に応じて使い分ければ宜しい。 文章と話し言葉の最大の違いは、話し言葉ではそれが次々と消えてしまうので、もう一回後に後に戻ることができないのに、文章ではそれが消えていないので何度でもそこに戻って来られると言うことです。だから、この全く違った表現法に同じ優劣の基準がある筈が無く、文章での基準と話し言葉での基準を比べて優劣を語るわけには行きません。 消えてなくなってしまう話し言葉では、一先ず聞き手に、これからあなた方をどちらに連れて行くつもりなのかを先に言ってもらわないと、話し手の論理に付いて行けないのです。 例えば、「私はこれからAならばZとなることを示します」と言ってから、「さて、AならばBですよね」と言うと、聞き手はAとBの関係だけでなく、BとZの関係も考えながら聞いています。そして、そうかもしれないと言う気になれるのです。 しかし、始めにZがゴールであることを言って置かないで、「さてAならばBですよね」と言っても、聞き手は、「いやBじゃなくてB’じゃないの」なんて思いながら聞いてしまいます。そして、次に話し手が「BならばCでよね」といっても、聞き手は「いや、B’だからC”だ」なんて考え始めまて、話し手とはどんどん違った方向に進んで行く可能性があります。だから、どんなに話し手にとっては自然な流れだと思われる方法で「A=>B=>...=>Z」と進んでも、聞き手はそれを納得出来なくなってしまいます。 また、話し手はその問題を今までに十分考えて来たので、話し手に取っては既に自然な論理の流れになっていることでも、聞き手にとっては殆どの場合そんなことを考えるのは初めてですから、それが自然な論理の流れであるかどうかすら解らないのが普通なのです。だから、話し言葉で説明するときに、段々と議論が積み重ねられて、自然な形で最後に到達する方法は絶望的なのです。 だから、 >なぜこうなったのかといえば、アメリカがヨーロッパに比べて新興国で、より合理的で、速戦的な議論のスタイルを好むからだ、 と言うことが理由であるとは思えません。話し言葉で説明するときは、どの国の人がやっても、貴方の言うアメリカ型の方法が最善なのです。 一方、文章では読み手は何度でも読み返せます。そだから、段々と議論が積み重ねられて、自然な形で最後に到達する方法が必ずしも最低な方法ではなく、状況によってはその方が解り易いことだって有り得るのです。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。新興国と書いたのはまずかったかもしれません。お許し願いましょう。また演繹と帰納の意味が違うということですが、その言葉もなくても済むので、使わないことにします。 しかし依然として僕は、ヨーロッパ型とアメリカ型という議論の型の違いがあると思っています。Zをヨーロッパ型が示さないわけではありません。僕のイメージを聞いていただきましょう。あくまで僕の主観だと再度お断りしますが、論文やディベートの時の最初の口上の型を書いてみました。たとえばAという主題について、Bという観点をもちこんで論じるとして、どうやって開始するか。 ・ヨーロッパ型 Aというテーマについては、一般的に~~~と言われている。こうした論点が提出されたのは、―――という観点からアプローチされた結果である。しかし、この議論では、・・・・・という点について触れられていない。そこで重要と思われるのは、Bという新しい論点である。AというテーマについてBという論点から論じてみることにしよう。 ・アメリカ型 この論考はAというテーマについてBという論点から考察を試みるものである。このアプローチが重要なのは、・・・・・・・という従来、触れられていない論点について十全に議論できると考えるからである。Aというテーマについては、そもそも、―――という観点から、~~~と言われてきた。しかしBという観点から、我々の議論は、新たな成果を示せると期待できるのである。 言っている内容は全く同じです。僕に馴染みがあるのは、実はヨーロッパ型です。アメリカ型で話が始まると、なぜCでもDでもなく、Bという論点が来たのだ?新しい発見が期待できるだと?!功を焦って無茶な議論を組んだんじゃないか?と疑いのまなざしを向けるのです。 しかしヨーロッパ型は、読み手である書き手と同調し、全体を見渡してあれこれ考えた結果、Bという観点を見出したという論じ方です。そこには自分が今しがた探索を始めたかのように追体験して理解できるというメリットがあるのです。読んで行くうちに、あたかも山を探索しているうちに喉が渇いて泉に行きついたような自然な気持ちで、何が発見なのか、わかって来るのです。いかがですか。 口頭の時と、書く時の違いについては、先生からのお答えを読んでからにしたいと思います。

kusa-mura
質問者

補足

もう一点。お気づきかもしれませんが、ヨーロッパ型は「~と考える」という書き方をしません。なぜなら、話の流れで、自然にそこに落ち着いていくからです。論者が考えたというより、誰が考えてもそこに落ち着くという論じ方です。AからBではなく、B´ではないかとおっしゃるが、そうなるのなら、その論文は上手く書けなかったか、失敗なのです。しかしアメリカ型は、自分の主観でぐいぐいと話を勧めていきます。だから「~と考える」という譲歩の表現が、どうしても必要になる――というのが僕の理解していることです。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.13

>猪突先生は、他で「死」という言葉が外来語の過剰な影響を受けたのではないかとお考えですね。僕は原点にかえるという意味で、それは保守的な立場からの質問なのかなと興味をもっていました。しかし、これは猪突先生の質問に水を指すようなものとも思え、質問とは直接関係ないので、僕の欄でいうことにしたのです。いかがでしょうか。 私は「死」という言葉の由来について、もっと単純な好奇心から質問したつもりだったんですが、深読みされてしまったようですね。別に原状に帰ろうなんて言うつもりで縄文時代を持ち出したつもりはなかったのですよ。ただ、死というこれだけ馴染みのある現象に何故日本語が使われなくなってしまったのだろうかと言う素朴な気持ちが起こったからです。そして、皆様からいろいろな素晴らしい意見を出して頂けたお陰で、大変勉強になりました。 皆さんの意見はどれもこれも参考になったのですが、私にとって特に目を引いた回答は、今のところ国語欄で立てた質問「死という言葉」の#5の回答と、哲学欄の「死?」の質問の#8の回答でした。前者の#5では、元々日本語には死と似た発音の言葉があったから置き換えが自然に感じられたのかもしれないと言う意見でした。また、後者の#8は私の専門分野の個人的なテーマである「時間」と話しが繋がるとは思っても見なかったので、質問して良かったと言う気になれたからです。 あと、これを書いているうちに偉い親方の木造の爺いが#11で返答書いてあったので、今更私がとやかく言うことはないんですが、木造の爺いも私も、年寄りって連戦錬磨なんで、そんなに簡単に腹なんか立てたりしませんよ。貴方がまた深読みし過ぎたか、あるいはそれではない場合には、年寄りどもが時々目をキラっと光らせて、若いもんをからかって人生を楽しんでいるだけです。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。そうですか、安心しました。またご年配の方を同列に見るようないい方をしてしまい、失礼しました。確かに猪突先生がご投稿くださる時は、―といっても数回のお付き合いですが、大きな流れでいえば「お前は深読みし過ぎではないか?」という指摘であると言えますね。これは若者の類型に僕が当てはまるということなのでしょう。百戦錬磨とはよくおっしゃったものです。やれやれ、ご老人衆には勝てませんね。 ところで、足を運んでいただいたついでに申し訳ないのですが、もしよかったら、アメリカにおいてディベートが盛んである背景について、ご教示いただけませんか。No9の方が、関心があるのだそうです。アメリカの議論のスタイルは、自分の意見を隅から隅まで相手に伝えるのではなく、相手を説得することに主眼が置かれているという意見があってのことなのですが。 死については、そちらのスレッドを拝見させていただきつつ、勉強させていただくことにします。

noname#134290
noname#134290
回答No.12

>たとえば「国語の辞書」や「国語辞典」という言葉あっても、「国語辞書」という言葉は辞書を引くと用例がありません。僕の念頭に置いている方なら、「の」を入れないで、名詞だけ連結させるのは誤りであると指摘すると思います。 ◎「僕の念頭に置いている方」・・・だ~れ(o^∇^o)? >「国語辞書」という言葉は辞書を引くと用例がありません。 ◎辞書に用例がなくても立派な日本語ですよ(o^∇^o) >辞書を引けば済むと断言なさるが、まず、ご自身が辞書を引いてごらんなさい。 ◎Goo辞書を開けて見ました。 http://dictionary.goo.ne.jp/ 左端の辞書カテゴリーを見てごらん。   国語辞書、英和辞書・・・・「の」なんかないぞよ(o^∇^o)。 ◎立派な美しい日本語は辞書の用例以外にもイッパイありんす。 ◎A#10を再掲します。 「美しい日本語」を論じるためには、国語辞書に書いていること以上の深い見識学識が必要です。 「間違いのない日本語」であれば、国語辞書を引けば十分。 わかったぁ?(o^∇^o)

kusa-mura
質問者

お礼

しょうがないなぁ、君。僕が非礼をとがめたんだから、次は謝るか、弁解するかしなきゃ、コミュニケーションが続かないよ。礼儀ってものがわかってない。僕、そういうの嫌なんだよね。何でそういうことをするんだろうな?って考えて、君は、たぶん子供なんだなって思うことにした。だから口調も、変えることにした。生真面目に話していたら阿保らしいからね。 まず「わかったぁ」って聞いてるけれど、最初はさ、君が辞書を引けば十分って断言した。僕は君が「美しい日本語」で投稿しているとは思わず、「間違いのない日本語」で投稿しているのだろうと思った。だから辞書にない用例をつかっている君を、僕は矛盾した人間なんだと思った。しかしこれは僕の誤解で、君は前回、自分の信じる「美しい日本語」で投稿していたわけだ。そうか、僕は勘違いしたよ、ごめんなさい。 でも、君は辞書の用例を使わない時は、学識と見識に基づいて行うと言ったよね。であるとすれば、今の君の日本語が、その結集だということになる。あるいは「国語辞書」とどうしても使う必要があると感じていたということだ。君はその点について説明できるかな。そもそも「辞典」と「辞書」の違いを説明できるのかな。 そして今回の文章は、たぶん君の言う「美しい日本語」のスタイルなのだろう。しかし、僕にはそれが学識や見識に裏打ちされているとは思わなかった。僕は君がいう「学識」と「見識」がどういう意味なのか、聞いてみたいな。 それから僕は設問で示したように、日本語はいろいろあっていと思っている。僕に説得されたのじゃないだろうけれど、君は結果的に僕に同意してくれたってことになる。 語調が攻撃的であったことから判断すると、君は僕に反対意見を表明していたのだろう。何に反対してくれたのかを、もう少し明確に書いて欲しい。 その際に絵文字は要らないし、「わかったぁ」と侮辱する必要はない。ここは質問欄だから、ことさら「美しい日本語」を披露しないでもいいんだ。最低限の礼儀と正確な日本語、そして論理があればいい。 それから「だーれ」って聞いているけれど、それは設問で批判しているような人で、匿名にしてる。僕は個人攻撃をするためにこの投稿をしたんじゃないから。

回答No.11

アッシは保守であっても、石頭では無いつもりですよ。そう努力している。 哲学のカテでは、敢えて原理主義的な立場を取ることはあるけど、実生活では極めて柔軟。 >「サボる」は「ズル休みする」でよく、「ショックを受けた」は「残念だった」でよい、というに、浸透したカタカナ語もダメだということではないですか。 「サボる」と言った人がサボタージュの意味であれば、そう言っても良い。衝撃と言う代わりにショックと言っても良い。でも「ショックってなに?」と聞かれて衝撃と答えられなくなった時点で、日本語崩壊、”英語汚染”だと思いますがな。 相手があって言葉を使うのだから、マニフェストと言って、相手が「?」と思っているふしがあったら、すぐさま政権公約と言いかえる能力とやさしさが保守本流。 ルサンチマン? 簡単には対応する日本語が見つからないので、ルサンチマンで良い。でも、その概念を使う以上、80歳の善男善女に判る言葉でルサンチマンを説明できるようにしておきたいですね。 追伸: 先のお礼欄で、愚拙の三度目の回答のきっかけが、kusa-mura がcyototuさんを苛めているから、その援護射撃をしたかのごとき記述がありましたが、それは誤解です。愚拙がボコボコにされている時にCyototu先生が助け舟を出してくれたことはありましたが、愚拙からCyototu先生に助け船を出したことは無い。あの先生は愚拙の助け船なんかなくても沈まない不沈戦艦みたいなお人ですがな。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。言い換えが利かなくなったら、問題だというのは納得します。うーん。ルサンチマンressentimentですか。日常で使ったら、怨恨、恨み、コンプレックスで、大体は言い換えが利くと思います。しかしルサンチマンでしか言い表せない意味とは何か。 フランス語ですよね。名詞のもとになった動詞ressentirは「強く感じる」というのが第一語義です。Sentir「感じる」に接頭辞reがついて、sの発音を残すために、ressとなった。「あらためて感じるほどに強い感情」というわけです。元が「強く感じる」だから、ルサンチマンには感謝などの肯定的な感情が入ってもいいわけですが、どうやら日常的には、怨恨などの負の感情を表す用例の方が多いですね。臥薪嘗胆の故事のようなものでしょうか。 ともあれ、哲学のテクニカル・タームの場合、語源に遡ります。元の語の形成からすると、正とも負とも決めつけがたい強い感覚、つまり、まだ当人でさえ、その感覚が恨みであると認識できていない状態の鬱屈とした気持ちなのです。これを八十歳の方に説明するとしたら、途中を省略して「心中の整理できない負の感情」とか単に「鬱屈とした気持ち」と説明すると思います。 猪突先生のことはわかりました。僕が投げた言葉程度で、撃沈するとは思ってはいません。でも、当人には言えないことを、周囲が代わりに言ってやるということもあるのかな、と思ったのです。

noname#134290
noname#134290
回答No.10

>もともと用例があったものを認めなくなりつつあるという保守的な風潮を、いかがお考えでしょうか。 「もともと用例があったものを認めない」⇒保守的⇒X 「もともと用例があったものを認める」」⇒保守的⇒○ 「もともと用例にないものを認める」⇒保守的⇒X 「美しい日本語」を論じるためには、国語辞書に書いていること以上の深い見識学識が必要です。 「間違いのない日本語」であれば、国語辞書を引けば十分。

kusa-mura
質問者

お礼

横から、僕の書いたことに根拠無く、主観で○×をつけるんですか。ご挨拶だなぁ。見識と学識に加え、「美しい日本語」には礼儀も大切な要素だとあらためて思いました。 まぁそこまでおっしゃるならと、投稿の文について一点書くと、たとえば「国語の辞書」や「国語辞典」という言葉あっても、「国語辞書」という言葉は辞書を引くと用例がありません。僕の念頭に置いている方なら、「の」を入れないで、名詞だけ連結させるのは誤りであると指摘すると思います。 辞書を引けば済むと断言なさるが、まず、ご自身が辞書を引いてごらんなさい。

kusa-mura
質問者

補足

【みなさまへ】 再投稿をお願いした方もいますが、あまり過度な期待をすることになってはよくないので、今日一杯で締めようと思います。実際、僕が投稿した最初の質問に対しては、すでに、よい回答がいくつも集まっていますから。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.9

ANo.6です。 ご丁寧な感想をいただき恐縮です。今、部屋の書棚の一角に「岩波講座 日本語」があったことを思い出しました。残念ながら僕が購入していたのは「文字」の巻だけでしたが、全巻の構成で確か6巻と7巻が「文法1」と「文法2」だった記憶があります。  オクスフォードの文法テキストのことは僕も知ってはいます。けれど日本の中学校や高等学校更には今話題の小学校でも残念ながら19種類の文型のことなどは一向に取り上げられる気配などありません。  「英語教育」の導入として専らの話題の中心は「英語を話せる事(これもイヤな表現ですが)」を近視眼的に追求している姿に他なりません。「先ずエイゴを話せる人を育てる」これでは明治時代の文明開化と全く変わりませんね。音声記号としての英語を話すことができても、意思を通じることができるかどうかは別次元の問題です。ですからそれはドイツ語であってもフランス語であっても或いはロシア語やスペイン語であっても同じ事と思います。単語を並べるだけではなく、キチンとしたWord-Orderに従って綴られた言葉は相手にとって「間違いがなく」そして「理解し易い」言葉として伝わります。  外国の方からは「日本語には主語がないことで分かりにくい」と言われることもままあります。日本人の心象風景の底辺には「目は口ほどに物を言う」の様に「思っていても敢えて口には出さないでも分かってもらえる」部分があることからも日本語には曖昧さがついて回っている側面もあって、それが日本語の特質の一側面にはあるのかもしれません。  でも「言葉」は意思を伝える道具なのですよね、悩ましいことに。強いてこの問題に答を出そうとするならば、井上ひさしの『国語元年』のような珍騒動を巻き起こすしかないかもしれません。でも僕は「日本語はこう使え!。こう使うことだけが正しいのだ!」とお上からの指定など決して受けたくはありません。 No.8の方、失礼とは存じますがご言説の根拠を知りたいので提示していただけませんか? 下記の部分に多少なりとも興味を惹かれ、僕も勉強してみたいと存じますので。次の部分です。 「そして、コミュニケーションに必要な道具は他にもジェスチャー・文字・表情・服装・髪型etc,,,と沢山あります。 一説に寄れば、コミュニケーションにおける言葉の重要度はたったの7%にしかすぎないと言われています。(もちろん、状況や研究結果によって違いは出てきますけど) だから、言葉の違う人同士でも十分に分かり合うことが出来るんですね。 言葉に寄らないコミュニケーションを非言語コミュニケーションといわれ、グローバル化社会の中で注目されています。」  このうちの「一説に寄れば」の一説、そして「グローバル化社会の中で注目されています」の典拠。そしてアメリカン・スタイルの典型である「ディベートこそが優先される」との根拠。殊に最後の部分に関しては背景に大きな問題点が隠されていますので明確なお答えを知らせていただきたいと存じます。  学者の論文に於けるテクニカルタームの使用に関しては大学院の受験問題で出題される外国語対策と同レベルの問題です。論文では先ず「定義付け」が行われていることが大前提です。

kusa-mura
質問者

お礼

ありがとうございます。タヌハチさんのことも覚えました。構造の問題は、膠着語(日本語、韓国語、ハンガリー語など)と屈折語(印欧祖語)の違いでしょう。ご承知かと思いますが、屈折語は関係詞をどんどん使って、あたかもレンガを積むかのように、物凄い長文を作れます。ラテン語の最も優れた文章は、1パラグラフで1文ですね。仏語でも2ページ以上、プルーストなら続きます。長い文を書けるほど偉いという風潮もあります。しかし日本語では、語順で決まっていないから、あまり長く続けてしまうと、助詞や格助詞が限界に達します。僕の知り合いは、屈折語を石造り建築と呼び、膠着語を寝殿造り(平屋)と呼んでいましたが、的確な表現だと思ったものです。 さて、ご質問の件について。非言語コミュニケーションの分析は、社会言語学の範囲でしょうね。僕は、意味はわかります。たとえば、ミニスカートを履いて身体を露出している女性がいたら、セックスアピールをしているのかな、とか。喪服で現れたら、そうか、楽しい気分ではないだろうな、とか。このパーセンテージまで研究したとなると、僕は誰なのか分からないですが、社会言語学の書籍を開けると切っ掛けがあるかと思います。 ディベートの問題は、帰納法を奨励するということではないでしょうか。論文を書いていても、ヨーロッパ圏は演繹法で説明します。段々と議論が積み重ねられて、自然な形で最後に到達するのが望ましい。が、アメリカン・スタイルはまず結論を言ってしまう。その上で、説得的な証拠を集めてくるというやり方です。ディベートは、帰納法です。なぜこうなったのかといえば、アメリカがヨーロッパに比べて新興国で、より合理的で、速戦的な議論のスタイルを好むからだ、と僕は思っていました(No8の方、間違いだったら教えてください)。 アメリカからの留学生がプレゼンをやると、日本人とまったく違ったやり方をします。ともかくまず、聞き手を驚かせて、注目をひく。20秒で終わるから、作らないでいいのにクリップ・ボードのようなものを作って見せる。これもまたサーヴィス精神旺盛でいいなと思います。No8の方にも教えていただけたら幸いですが、猪突先生がアメリカの大学の先生のようですから(他の設問欄で知りました)、何か教えて下さらないだろうかと期待しつつ。

  • tyr134
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回答No.8

横から失礼します。 他の方とのやりとりを読んでいて思ったのですが、「日常としての言葉」と「学術上の言葉」の区別が曖昧なんじゃないでしょうか。(あるいは履き違えている人が多々いる) 「日常としての言葉」というのは、コミュニケーション上必要となる言葉です。 コミュニケーションというのは、複数の人間同士(もちろん動物も含まれますけど)が情報、感情、意志などを伝えあい共有する行為です。 この場合、言葉は情報を乗せたた道具の一つでしかありません。 そして、コミュニケーションに必要な道具は他にもジェスチャー・文字・表情・服装・髪型etc,,,と沢山あります。 一説に寄れば、コミュニケーションにおける言葉の重要度はたったの7%にしかすぎないと言われています。(もちろん、状況や研究結果によって違いは出てきますけど) だから、言葉の違う人同士でも十分に分かり合うことが出来るんですね。 言葉に寄らないコミュニケーションを非言語コミュニケーションといわれ、グローバル化社会の中で注目されています。 それに対して「学術上の言葉」というのは、言葉を「限定的」に使わなければならないことが多々でてきます。 何故かと言えば、自分の学説を他者に伝える手段でもっともポピュラーに用いられているのは「論文」だからです。 「論文」だと先の「日常としての言葉」のように、ジェスチャーを初めとした「非言語コミュニケーション」がサポートしてくれません。 それに加えて、説得力を増すためには「言葉の曖昧さ」はなるべく避けなければなりません。 そうなると、「格助詞」の一つ一つに至るまで、緻密に計算しなければ、相手(批判者)につけいる隙を与えることになります。 ついてきたところが、学術上重要な問題であるならばそれほど問題はありませんが、それが単なる言葉狩りとなるとなんら建設的な議論とならないことがあります。(日本のTVの討論番組がぎゃーぎゃー五月蠅いのは、殆ど言葉狩りの応酬です。) 緻密に計算し、自説を補強するためには「言葉と文法」というのは非常に重要となってきます。 なんで、「どうしたら相手に的確に自説を伝えられるか」というのを研究する「論理学」という学術分野もあるほどです。 さらにこれに加えて、「修辞学(レトリック)」という分野も存在します。 これは、弁論・叙述する「技術」のことです。 つまり、「言葉」という道具を使っていかに相手を説得できるかという事を主眼に置いています。 一見、論理学と似ていますが、まったくの別物です。 論理学では、言葉の緻密さが要求されますが、レトリックでは「相手をいかに説得するか」に主眼が置かれます。 そこには、事実や真実に対する正確さは求められません。 一番の常套手段は、人間の感情に訴えかけることです。 例えば、洗剤や消毒剤のCM。 「○○にはこんなにばい菌が!!そんな時あると安心××石けん!!」って感じですね。 CM意外にも、政治家の演説なんかにも必要な技術でもあります。 「M党が政権を握ったままでは国が滅びます!G党ならこの国を救えますので皆さんの清き一票を」みたいな感じですね。 小泉元首相が仕掛けた「郵政選挙」なんてのは「レトリック」を駆使した好例でもありますね。 彼は、選挙の論点を「郵政民営化」一つに絞り、それに賛成=味方、反対=対抗勢力という単純な二項対立にしてしまった。 さらに、「郵政民営化」という言葉の裏には、「郵便局はお役所=官僚=悪いイメージ」ってのが有権者の無意識上描かれるような風潮があったこともポイントです。 実際は、郵便局の職員の給料には一銭も税金が投入されていないにも拘わらず、その事実を覆い隠して「官僚のリストラ」であるかのように見せかけていた。 なかなか上手いレトリックだったと思いますよ。 だから、「小泉劇場」と言われるまでの社会現象を生み出し長期政権を実現させました。 まとめると、「言葉」というのは「情報」を乗せた道具にしかすぎません。 その道具の重要性と緻密性は、それが使われるシーンによって変化するもの。 日常会話では余り重用視する必要は無いけれども、学術分野やレトリックが重要性を増すシーンでは厳密性が求められてくる。 「言葉は生き物、時代と共に変わるものさ」という人は前者を念頭に置いており、「言葉は厳密でなければならないのに、昨今の言葉の乱れは・・・」という人は後者を念頭に置いているのでしょう。(意識的であれ無意識的であれ) ではでは、参考になれば幸いです。

kusa-mura
質問者

お礼

大変参考なりました。「美しい日本語」を振りかざす批判者の批判の質を検討しようということですね。僕の考えをさらに先まで進めてくださったことに深く感謝しています。こうなるとコミュニケーションの言語は、3つ考えた方が良いかもしれませんね。すなわち、 1. 言語以外の手段が取れる  a.日常語  b.雄弁術 2. 言語のみ  c.論文など a. 日常語とは、複雑なことを話さないでもいいわけです。おっしゃるように、ジェスチャーをはじめ、言語以外の意思表示の手段が取れます。例はあげてくださったので、甘えることにして説明を省きます。 b. 雄弁術とは、自分の持っていきたい方向に相手をもっていくための術です。これは相手さえ説得されればよろしい。自分の考えを隅から隅まで話す必要はない。竹中平蔵が学者上がりだけに、全部説明しようとして演説が酷評されたというのが、よい例です。小泉のように、レチソンス(沈黙語法)をもちいてもよろしい。 c. 論文の場合は、abと異なり、言語以外の表現をとらない。かくして、文法を駆使し表現を洗練させる必要がある。また思考過程を忠実に再現するモノローグも許される(思考過程を忠実に書いた方が論文は説得的ではないでしょうか?確かに字数制限などがあれば、かなり情報を取捨選択しますが、それは自分の思考過程の一番強い部分を浮き上がらせて、思考を確固たるものにするためだと思えるのです)。 ただし、どちらにせよ、aに対して、cが求められることは多いといえます。しかし本当に求められているのは、cを口語でやることではなく、別モノのbであったりするわけです。かくして本当に学ぶべきは文法ではなく、雄弁術であったりすることがある――と美しい日本語を求める批判者に切り返すことはできそうです。

回答No.7

質問をいまいちど読み返したので、私の考えをもう一度。 まず、私の好みを先に言わせてもらうが、言葉に関しては保守本流が大好き。 日本語だけじゃあないよ、ドイツ語だって中国語だって、わかる範囲で保守が好き。 だから、英語による汚染が大嫌いなんだ。 (本当は漢語に汚染される以前の日本語に興味があるが、学が無いので良く知らない) さて、質問者は、「日本語の保守化する傾向について」問いを立てたが、例が例に成っていませんね。例示された”愚かな主張”は全然保守的ではないからね。 結言に、「もともと用例があったものを認めなくなりつつあるという保守的な風潮を、、、」とあるが、これも形容矛盾じゃあないでしょうか。「もともと用例があったものを認めない」という横暴はまったく保守的ではないのだから、質問者が納得ゆかないとする風潮とは何だか判らんようになる。 全体を読み返してみると、日本語に対する保守的な風潮を阻止したいわけではなくて、ただ愚かな学者の過ちを否定したいだけのように思える。しかも、愚かな学者の過ちに関しては、大きな本屋でやっと見つかる日本語の文法書の中を見よ、とのこと。茶碗の中の嵐(?)を風潮と呼ぶのには無理がある。牽強付会だ。 表現とは裏腹に、本当は質問者さんは日本語に関して保守が好きなんじゃあないかな? 本当のところはどげんなっとるんかね。

kusa-mura
質問者

お礼

親方、気合を入れて、投稿してくださいましたね。ありがとうございます。順にお答えして行きます。 まず設問の例が保守の例になっていませんか。これは「保守」の定義の問題ですね。僕は「保守」とは、「現」状の順守の意味だけではないと思います。むしろ「原」状に立ち返り、そこで解釈した原理を盾にとって、原状を妨げる要素の排除を行うことだと考えています。これは特に僕が、自前の定義をもちだしたとは考えていません。 たとえば英語について親方は保守の見地から、その汚染を俺は認めんとおっしゃいますね。しかし、これは顧客に格好つけようとしてカタカナにまみれたセールスマンのことだけを批判しているのではないでしょう。「サボる」は「ズル休みする」でよく、「ショックを受けた」は「残念だった」でよい、というに、浸透したカタカナ語もダメだということではないですか。 また漢語に汚染される前の日本語というのも、やはり元々の規則を考えて、措定される「原状」回復しようということに他ならないでしょう。親方の用法は、十分に僕が示した「保守」の定義に当てはまります。 僕の設問の例も同じことです。つまり、辞書を引いても書いてあり、No6の方が示してくれたように語源的にも説明がつきそうな言葉を、自らが正当だと信じる規則によって、排斥する対象だとみなしてしまったのですから。 さて、「原状」をどこに定めるかが問題です。縄文時代?平安時代?近世?明治?1980年代?――僕は戦前なら、ある程度、保守の典型として納得いくのです。しかし漢語以前の縄文はどうかと思います。縄文に遡って、その片鱗が現代に至るまで端々で見られるという論証は、卓越した学者ならできるかもしれません。しかし、そんなことをしても、もう漢語や英語の影響は根深く浸透してしまっているのです。 ただ親方がここまで反発するので、僕が猪突先生によほど悪いことを書いたのだなと思い、申し訳なく思っています。猪突先生の文章を読めば、彼が保守になり様がないことはわかっているのです。言語は生成されるものなのですから、影響関係も全部受け入れる立場でしょう。僕はだからこそ、敢えて、何をなさっているのか聞いてみたかったのでした。 さて、お前が保守ではないか?という話ですが、これは早合点です。僕は、コミュニケーションの問題として、仏語が分からないのに看板だけ仏語になっているとか、英語の語源や用例を検討したわけでもないのにカタカナを使うとか、自分の使っている言葉を熟知しない風潮が嫌だと親方のお礼欄に書いたつもりでした。攘夷ではないのです。 日本語の文法書はなるほど、本屋の中で占める割合は少ないでしょう。しかし教育現場ではどうなっているでしょうね。それに基づいて教育することになっています。たとえば学校の教科書は大きな本屋に行かないと買えません。しかし、それは重要な書籍ではありませんか。このくらいのこと、親方はすぐにわかっておいででしょうに。よほど猪突先生のことで、気を悪くされたんですね。ごめんなさい。

  • TANUHACHI
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回答No.6

 ドイツにヤスパースという思索家(哲学者という言葉を僕は余り好きではありませんので、こうした表現になることをお許しください)がいました。彼は同時に精神医学者でもありました。そのヤスパースが遺した至言に「言葉は思考の家である」という文言があります。  「言葉」はそれ自体として完結性のある存在ではない、との意味も込められています。そこからは言葉を発する側が言葉を受け取る側に「自らの意思を伝えたい」とのメッセージが先ず最初にあって、「機能としての“言葉”の存在意義を問うならば道具もしくは手段として意思をは表したモノにすぎない」との言葉の性質が語られています。その内容がどのようなモノであるか、は次の段階の問題ということもできます。  「家」の存在意義は何でしょう?。そこに住んで生活する人がいなければ「家が存在する意味」は成り立ちません。言葉を「伝達のための記号の集合」的に理解するだけでは意味を問うことにはならない、ともヤスパースは語りかけていると考えられます。  引用されている「より」の問題を考えてみると「悪い例としての“より”」を規定している背景には英語の比較表現を示す「より“も”」が念頭にあることも想像に難くありません。けれども「より」には手紙の文言である「~より」としての意味があることも確かです。「便り」だから「より」なのです。また「拠り所」だから「より」でもあるわけです。  僕の個人的な感想としてですが、「文法」と「語法」の間には違いがあっても、それは必ずしも絶対的な「規則」とは言えないのではないか。知見の限りですが「橋本文法」なる文法解釈では「品詞としての形容動詞が存在する」という見解はありますが、これ1つとっても決定的な根拠のある説明であるとは理解できないことも確かです。  またご自身が「英語の五文型的な発想」と仰っていますが、五文型ひとつを例にとって、その範疇からはみ出す文章は現実のモノとして存在すること珍しくありません(=S+V+O+O“+O”)。として文章のリズムを整えることなど論文を読んでいても日常茶飯事です。また“Tt is ~that”の構文のように、主語として文頭に置いては文章全体の「バランス」が良くない、とのことで倒置して表現するケースもありますね?。直接話法と間接話法しか高等学校では教えませんが、実際には混合話法もあることを僕自身は予備校の先生(某有名大学の英語学の教授)に聞いて始めて知った経験もあります。  他の方々の回答へのコメントを見て「学者の親戚もいて“君のこの言葉遣いは誤りである”」とのこともその方自らも誤りを犯しているともいえます。「学者の言葉」つまり「僕はこの言葉をこういう意味で使うよ」と“テクニカルターム”を使う場合には、先ずその定義付けを行ってから使うことも基本的なルールです。そうでなくては学者としての論争に耐えることもできません。逆にその方は「ボキャブラリーがプアー(言葉遣いを余りよく知らない気の毒な)」方であるといえるかもしれません。「美しい日本語」よりも「適切な言葉遣いで文章を書くことの出来る」達意の文章の書き手でありたい、と僕は思います。  言葉は歴史の中で様々な変遷を遂げてきました、今後もその姿は変わっていくことでしょう。そうした対象に対し「これしかない」とするのは保守的というよりも暴論、ファシズムに近いとしか思えず、危惧の念を抱かざるを得ません。  

kusa-mura
質問者

お礼

短歌の問いに続いて、ご回答、ありがとうございます。おっしゃる方向性はよくわかって、ファシズムであるとは、その通りだと思います。実際、文法を厳密に定めようという動きは、ナショナリズムに沿っているように感じています。 逆に文法が便利だなと思うのは、教える時です。5文型と言ったところで、オクスフォード大から出ている文法書には、19文型の分類がありました。例外をどの程度、重視するかということを考えると、なかなか難しいものです。中学生に19も文型を教えたら、頭がパンクするでしょう。 また僕は外国人に日本語を教えたことがありますが、やはり簡潔明瞭にまずは教えた方がいいのです。「そのニュアンスはちょっと違うね」などとやっていては、進みませんから(でも間違ったまま覚えて10年という人もいて、僕はその過去の教師は何といい加減な奴かと思いました。相手もショックなわけで頑固だし、こうなると直しようがなくて、音を上げました)。 文法には段階があって、初心者であるとか、子供の頃には許容されていても、それが大人になるにつれて、段々と上級文法を覚えていかないとならないということはあるのかなとは思います。その際に周囲の大人が、口を出してくるということはあると思います。僕に関しても、言語学者は口を出すべき段階にまだあると考えたことなのかもしれません。 しかし、ヤスパースで言語の使用目的という話が出ましたが、このことを考えると、ある程度意味が通じれば、僕は他人が口出しすることでもなさそうだなと思ったのです。 たとえば、言語の洗練は円滑にコミュニケーションするためであるというご意見が、他の回答者の方から出ています。僕も設問にそう書きました。一面では、それは否定しようがない事実です。しかし、もっと考えてみました。たとえば円滑にコミュニケーションするためには、文法の巧みさより、「相手の心情に配慮する」などの方が優先順位は上ではないか、と。抗議する時とか、弁明する時には、確かに微細な表現をします。が、それでさえも紋切り型で事足りるように思うのです。文法など知らず、劇の台詞を丸暗記でもいいのです。 しかし上級文法や複雑な語彙が必要だと感じるのは、日記などで、自分の思考を細やかに表現したいと思う時です。僕はモンテーニュやプルーストを読んだ時に、こいつらは何とものをよく考えているのかと思いました。その思考の緻密さに感激したのです。 僕の思うに、文法に関して行きとどいた理解が必要なのは、思考を洗練する時です。つまり言語と自らの思考を突き合わせ、練磨しようとする時、自分に最適な表現がわかるにこしたことはありません。ただし、これは趣味で教養を身につけ、内面を磨くのと同じであって、他人に強制するべきことはではないのです――設問をきっかけに、今はこう考えるに至っています。

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