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日本人の論理思考と社会秩序
- 日本人は論理思考によって時制の一致を発達させた。
- 日本人のおとなしさは社会に論理的な秩序を求めるため。
- 和の心は市民の交通思想から生まれ、国家形成に影響を与えた。
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bragelonne様は「論理的であることが素敵だ」とのお考えを強くお持ちのようです。しかし論理的であることが「素敵である理由を論理的に示す」ことは多分困難ではないでしょうか。「論理的であることは好都合である場合に限る」のだと小生は考えます。いっそう好都合であるならば論理的でなくても構わない傾向もあるかも知れませんね。この趣旨から小生の考えをお示しします。的外れかもしれませんがお許し下さい。 言葉・文章が厳密であることが望ましい社会とは、リーダーの命令とその聞き取り易さがその群れ全体の行動・利害を大きく決定する社会、すなわち狩猟・遊牧民社会でありましょう。そのような歴史を持つ国々の言葉は格変化・時制などにうるさい傾向が認められます。一方土着農耕民社会では日常的に重要なテーマ指導者の命令よりも太陽・水であり、租税・徴用など指導者からの命令や指導者への報告はむしろ論理的に扱わないことが有利となる局面が多そうです。このような社会では同音異議語・時制の不確かさ・活用の多様な方言化などが発達するのではないでしょうか。 旧日本軍では通常の日本語が軍事に不向きであることに気付いており、「軍隊日本語」なるものを兵士に使わせることに腐心したそうです。戦記物などの軍人用語のあれです。また今日でも日本語教育は「感情の豊かな表現」が主眼であるらしく「論理や事実の明瞭な表現」には大きな力が払われていないようです。テレビでも「第一グループは○○○・・・・です」など主語と述語の間に地名を30も入れて平気です。主語・述語を先に述べてから地名を入れる工夫をする積りは全くないようです。言い落しのない文章が言い訳として大切であり、聞き取り易い文章であることを捨てているようです。自然科学系の論文などではおおいに明瞭な文章に出会えます。日本人とか日本語のせいではなさそうです。論理使用の厳密さは一階住民の産業構造で大きく定まってきたということになりましょうか。
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- JidousyaGaisya
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度々の回答を賜りまして有り難う御座います。 54番の追記欄へ登場している「素人」は私なのでしょうね? 通信関連の素人だという自覚が乏し過ぎるのでしょうか? 『御互いの語り合いは「通信」へと発展していったのだろう』 と考えておりましたので、見直しもが必要になっているのかが気になりました。
お礼
いえいえ わたし=質問者です。 ☆☆(No.54お礼欄) 要素に分解しつつ しかも全体をも見ている。この基本命題で行けばよいのではないですか? 素人ゆえに安易な考えをするのかどうか そこは今のところ分かりません。 ☆ 通信関連は言うに及ばず 連歌についてもわたくしが素人です。
- JidousyaGaisya
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『「グレゴリ暦」が輸入される前の日本』の時制的な秩序(?)を考える為に、 下記のページの通りの質問を提出させて頂きました。 http://okwave.jp/qa/q6655610.html 既に予想通りの回答もが届いていますが、 現代人らしい解釈を安易に纏めて頂きますと、 「非常に勿体無い」と思われますから、御覧になって頂けますでしょうか?
お礼
投稿を致しました。 ちょっと冒険でした。けれども どうもコトはすべて言葉による表現の問題であって 中身は案外 解釈によって変わり得るとさえ考えられて来ます。 ★★(No.7補足欄) 因みに、存在の否定ではなく、否定される神の存在さえをも想定していない、という状態の心情(?)に基づく、「無神論」が成り立ち得るのか否かを知りたい、と願いまして、 ☆ この《表現》も 気に成りますし 注目せねばならないかも知れません。 人間の言葉で交通(まじわり)をおこなうとき この《否定される神の存在さえをも想定していない》という表現は 言葉の世界つまり要するにこの世界という世界を突き抜けていると受けとめられます。 そのことと 《否定される神の存在さえをも想定しない》こととが 互いに同じことを意味するか? 違っているか? もし《この世界を超えたところつまり非経験の領域》を神と定義するならば 同じことを意味するか?
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
「未知だった情報」を独占している余所者達が侵略してきた際に、 その方々のカリスマ性によって洗脳され、「歓待」の態度を示してしまう、 という残念な展開の存在は、 世界中の古代社会に共通していたのかも知れませんが、 それの1つが<<ゆづり>>なのでしょうか?
お礼
そうですね。 ひとつに《くにゆづり》という場合には はっきりと一定の範囲で仲間となっている共同体(ムラ連合)どうしの主導権争いから進んで それらの全体をまとめて束ねるという動きにかかわると捉えます。 まづひとつのムラ(共同体)も言わば平屋建ての社会でしょうし(つまり その指導者は 仲間内の抜きん出たひとりであるに過ぎない) ムラ連合体もまだ家にたとえれば第二階があるということでもないと捉えます。社会をヤシロと呼ぶとすれば ヤシロ連合でもありますし そのヤシロごとに秋の穫り入れのときには神々への感謝をささげ神々と共食するマツリをおこなっている。 そこへ ムラムラをおしなべてまとめ治めたいという人間が現われたのだと見ます。どうしても聞かないので根負けしてムラムラのふつうの人びとは では仕方がない ヤシロの上に神棚でもつくってそこに住まわせてやろうかとなった。それが 第二階。言ってみれば スーパーヤシロ。一階のムラムラのマツリをたばねておさめるマツリゴトを始めた。 したがって マツリにおいて神々へささげる供え物は 今度は スーパーヤシロのあたかも現人神に納める税金(租庸調など)となった。 あるいはまた その川や山は ムラどうしの境であったものが 今度は 国の家の領土としての境界になった。このフロンティアは 勢力の増大にともなって広がった。アイヌらがさらに北のほうへおしやられた。 ★ 余所者達 ☆ と単純に言う場合には まだそれはいわゆる《まれびと(客人)》であって 確かにどこのムラでも歓待したようです。 ★ 「未知だった情報」を独占している余所者達 ☆ 縄文時代には 鉄と稲を持ってきたよそ者が受け容れられたようです。アマテラス系の神武カムヤマトイハレヒコより前に ニギハヤヒという名のよそ者が来て トミのナガスネビコに迎え入れられています。これは 侵略とは見られなかったようです。 神武イハレヒコも――戦闘はありましたが―― 必ずしも侵略ではなかった。要するに政略結婚をつうじて 仲間となった。 おれたちを統一した国家の指導者とせよという甘えを言い出したのは おそらく四百年ごろの応神ホムダワケであり それは 百年の計でけっきょくヤマトを乗っ取る大作戦を繰り広げたようです。その五百年ごろ 雄略ワカタケルが けっきょくついに昔からのムラオサ(村長)の家系の者を暗殺することにも及んで そのあと継体ヲホドのときに いざこざを乗り越えてスーパーヤシロなる第二階の住民となったようです。 ★ その方々のカリスマ性によって洗脳され ☆ というのは 全体の印象として当たらないと思います。けっきょく暗殺をも含めて 駄々をこねた。これに人びとは根負けした。その結果であるように受け取ります。 カリスマ性と言えば むしろその昔稲と鉄をもたらしたニギハヤヒの系統のほうにあったはずです。しかも その到来はけっして侵略やその戦いがあったとは 思われません。そういう記事はないようです。 これは あくまで神話――記紀神話――をひとつの歴史と見なして推し測った物語です。 史実を比定することによって歴史を知ろうとすることに限界があると考えて 人びとの真実に合った歴史についての物語を明らかにしてみようとするに過ぎないものです。現代にまで通じる歴史についての人間の真実です。 事実と真実とを合わせて 人間の現実であると考えるところから来ています。 世界のほかのところでは どうであったか。これからの課題です。
- JidousyaGaisya
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後に此処との関係性の有無を探って参りたい、と考えまして、 下記の通りに、別の方からの質問へこういう回答(26番)を提供しました。 http://okwave.jp/qa/q6649334.html つまり、其処から、 「日本的な価値判断の伝統的な特徴」を読み取らせて頂ける、 と感じられたのです。 因みに24番の欄への回答は、安易な判断の結果で、 反省を踏まえまして、其処の26番の欄へ冷静な意見を綴らせて頂きました。
お礼
そうですね。 印象批評になりますが。 ひとつ基本的なことがあると思います。 片や《ひとがその心においてやわらがしめられること》と片や《実際に社会の中で人びととのあいだに利害関係が錯綜していて だれがどれだけ利益を得たか損失をこうむったかということ》 これら両者は分けて捉えてもよい。こう考えます。 前者については 誰もがヰン‐ヰンの関係になれる。こう思います。どうでしょう? 空想的でしょうか?
- JidousyaGaisya
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もう1つを追加します。 「売却目的有価証券」が一般会計の対象の商品と違って、 「購入後の対象銘柄証券へ付加価値を上乗せさせて貰えない」 という特殊な事情もが、 直前の段階での価値だけを参照する「連歌」に似ていないでしょうか?
お礼
これはですね。 たしか会社が保有する有価証券は 投資目的と長期保有とに分けられ 前者については 決算の時点で時価評価が義務付けられているということではなかったですか? 長期保有のものでも どうでしたか その時価が帳簿価額(取得価額)の半値よりさらに下がった場合には その評価損を計上しなければならない。でしたっけ? これとにわかに連歌における作歌事情などとの関連がどうであるか。は なかなか分かりづらいところなのですが。・・・(ほかのところでのやり取りで多少とも触れ得るかも知れません)。
- JidousyaGaisya
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お礼
言語一般にとっての構文のあり方というものを論じるならば 大きく三つに分かれると見ます。非線形から線形への移り変わりとして次のようです。 (α) AハBガC構文 (λ) AハBガC(C=S´‐V‐O´)構文 (ω) S‐V‐O文型 印欧語の古代諸語は (ω)の手前に位置する。 1. 世界の言語の中には 能格( ergative )構文という文法を持つものがある。カフカース諸語やバスク語などである。 2. この構文は あたかも AハBガC構文とS‐V‐O文型との中間に位置するかのごとくである。 3. 能格構文の例を日本文と英文を交えて説明すると: (a-α) 英語( A )は 彼( B )が 話せる( C )。 ☆ この文を 能格構文では あたかも次のようなかたちで言い表わします。 (a-λ): (a-α)に対応すると想定される能格文 ・能格文の描像:《英語ハ 彼ガ he-speaks-it.》 ・論述収斂層 : O S S´‐V‐O´ ・ 〃 : 対格 主格 〈主-述格-賓〉 ・主題提示層 : 中立格 能格 論述格〔法活用〕 ・ 〃 :≒Aハ ≒Bガ C´=〈S´‐V‐O´〉 4. すなわちそこでは 中心第一主題格(Aハ)を 《絶対格ないし中立格》として保ち 関係第二主題格(Bガ)を 《関係格ないし能格(ergative)》として 一つの変種のもとに形成している。 5. ただしまた 論述C の成り立ちが違って来ている。 論述部として《用言述格X法活用》――日本語でC:《話せる》――という一般的なあり方に従うことは言うまでもなく当てはまるのだが そのほかに変化が生じている。 6. すでにその論述部の用言(動詞)C一個のうちに 主 S‐賓 O‐述 V の三項から成る格関係を表示する形態を採るようになっている。 7. したがって文全体としては 分析した場合には この《S-V-O》連関が重複するかたちを呈している。 8. これは――つまり述格(V)のほかの主格(S)・賓格(O)にかんしては―― 代名詞(代名接辞:S´・O´)を用いて表わしている。この意味での用言の法活用形態は それ自身の内に S´‐V‐O´の形式と構文とを形成しているということになる。 9. もっとも そうは言っても 英文にしても この《C:S´‐V‐O´》の形式に近いものを持っている。 仮りに (a‐ω) He speaks English. の文例で見るなら ○ 述格用言《 speaks 》は 実際には《 he / she / it speaks 》という主‐述の格関係の部分をもともと同じく形成している。 つまり 述格用言が 《S´‐V》という部分的な構文を宿している。賓格の要素=代名接辞O´はそこには ない。だけである。 10. だからあらためて 能格構文は印象風にこうである。 ・能格文の描像(a-λ):《英語ハ 彼ガ he-speaks-it.》 11. 能格構文が 日本文と同じように 主題提示の層をも保っているという根拠は 中立格(≒ハ格)が 自動文(述格用言が自動詞)においてはその自動詞に対して 主格(主語)に立つことにある。《雨ハ降る》のたぐい。あたかも 日本文のAハの中心主題格と同じようにである。 12. 能格構文の第一主題格の中立格は 日本文のAハという第一主題格と同じように 分析的にAガという主格(主語)にもなれば Aヲという対格(目的格)にもなるという意味である。 13. 英文は 推測としては 能格構文のうちの論述部( S´‐V‐O´ 形式)が 単独分立し 文の全体へと進出し そこで独立した文型と成っている。このように考えられまいか。 14. つまり日本文や能格構文が 主題提示と論述分析(論理連絡)の二つの層を保っているのに対して 英文は 論述分析層ないし論述収斂層の一本に絞って線形のごとく合理化したような形態である。 15. このような独特の構文を持って 能格言語は 日本文(AハBガC)と英文(S‐V‐O)との中間に――しかし決してあいまいにという意味ではなく あたかもきちんとした折衷方式のごとく――位置しているように思われる。 このようです。 (ω)を現代英文だとすると ラテン・サンスクリットなど古代言語は 日本文や韓国文に見られる(α)の非線形の要素をなおまだ何がしか保っていて またバスク語などの(λ)類型も非線形として成り立っており その(λ)とそして(ω)との間に位置するかに思われるという見方です。
- JidousyaGaisya
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社会交流に於かれましても、「対話」の方式は、 下記の遣り方に分類される、と思われますので、 矢張り「連歌」がどれに漸近しているのかを探る事にも、 価値が含まれているのではないでしょうか? 「複信」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E4%BF%A1 「ブロードキャスト」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%88 「3ウェイ・ハンドシェイク」 http://ja.wikipedia.org/wiki/3%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF
お礼
いやあ 分かりませんが まづ面談という対話の方式をいちばんに挙げるのではないですか? そこからひろがっていくように思うのですが。
- JidousyaGaisya
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話の展開とは逸脱しますが、 質問文の中の文言につきましての疑問もが残っておりましたので、 此処でそれをも伺います。 「既得権益を譲ったのではなくて、 侵略者によって、それを奪い取られた」 のでは御座いませんでしょうか? そもそも、内部での闘争から支配権力が台頭する、とは考え難いのですが、 私の誤解なのでしょうか?
お礼
いえ 重要な論点であろうと考えます。 西欧近代における社会契約説にあっては ○ 人は人に対して狼である( Homo homini lupus. ) / 万人の万人に対する戦い( bellum omni contra omnes ) ☆ という命題がかかげられました。土地を囲っておれのものだと宣言したら その所有が決まる。けれども あとは・そのあとでも 奪い取ればよいというような考え方だと思います。 これを《主戦論》の思想として規定し それに対してわが国では そもそもの二階建て構造の国家が打ち建てられるときには そうではなく《非戦論》としての《くにゆづり》をとおしてであったと仮説しています。これをめぐってだと思われます。 ちなみに主戦論も非戦論も どちらも人びとの自由を社会的に実現するためには 人は弱いものであるというその人間の能力の限界がからんでいるであろうと見ています。同じ人間の弱さから来る思想であれば 人殺しをしなくて済む非戦論を取ろうという考え方が その昔の日本人にはあったのではないか。この問題です。 二階建て構造が《アマテラス公民‐スサノヲ市民》の連関から成るという仮説も 公民・市民の規定は ふつうの経験科学のものだという反面で アマテラス・スサノヲは明らかに神話にのっとっており 歴史事実であるかどうかも分からない事柄ではあります。 そしてその神話に関する限りで 両者は 実の姉と弟であり それぞれのクニ(市民社会)のあいだに主導権の争いが起こったのも そのとおりであるようです。そこでスサノヲ共同体は 非戦論により国ゆづりをおこなったとも書かれています。 国ゆづりをするに到るまでの経過は 要するに《アマテラスの国に従え》という服属の要求があったということです。たとえば: ~~~ タカマノハラに神留まりまして 事始めたまひし神ろき・神ろみのミコトもちて 天の高市に八百万の神たちを神集へ集へたまひ 神議り議りたまひて 我が〔* アマテラスの〕皇御孫(すめみま)のミコトは 〔* スサノ ヲの〕トヨアシハラのミヅホの国を 安国と平らけく知ろしめせ と 天の磐座(いはくら)放れて 天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて アマクダシ寄さしまつりし時に 誰(いづ)れの神をまづ遣はさば ミヅホの国の荒ぶる神どもを神攘 (かむはら)へ攘ひ平(む)けむ と 神議り議りたまふ時に もろもろの神たち皆量り申さく 〔* 第一の使い:アメノホヒのミコト〕 アメノホヒのミコトを遣はして平(む)けむ と申しき。 ここをもちてアマクダし遣はす時に この神は返り言申さざりき。 〔* 第二の使い:タケミクマのミコト〕 次に遣はししタケミクマのミコトも 父の事に随ひて返り言申さず。 〔* 第三の使い:アメノワカヒコ〕 また遣はししアメノワカヒコも返り言申さずて 高つ鳥の殃(わざわひ)によりて 立ちどころに身亡(う)せにき。 〔* 第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト〕 ここをもちて天つ神のミコトをもちて また量りたまひて フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト二柱(ふたはしら)の神たちをアマクダしたまひて 荒ぶる神どもを神攘ひ攘ひたまひ 神和(やは)し和したまひて こと問ひし磐ね樹(こ)の立ち・草の片葉も語(こと)止めて 皇御孫のミコトをアマクダし寄さしまつりき。 かくアマクダし寄さしまつりし四方(よも)の国中(くぬち)と 大倭(おほやまと)日高見の国を安国と定めまつりて 下(しも)つ磐ねに宮柱太敷き立て タカマノハラに千木(ちぎ)高知りて 天の御蔭・日の御蔭を仕へまつりて 安国と平らけく知ろしめさむ皇御孫のミコトの 天の御舎(みあらか)の内に坐す皇神(すめがみ)たちは 荒(すさ)びたまひ健(たけ)びたまふ事なくして タカマノハラに始めし事を神ながらも知ろしめして 神直び・大直びに直したまひて この地(ところ)よりは 四方を見はるかす山川の清き地に遷り出でまして 吾が地と領(うしは)きませ と たてまつる・・・ (《祟(たた)り神を遷(うつ)し却(や)る》――《祝詞》) ~~~ ☆ 古事記には《第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト》が スサノヲ側と腕相撲をしたとも書いています。 《侵略によって奪い取られた》と言えないこともないと思います。ぎゃくに その場合でも奪い取った側のほうが それはもともと我が領土であったと言いたいし 言っているのだと見られます。どうでしょう?
- JidousyaGaisya
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夜中に再度の登場を致しました。宜しく御願い致します。 率直に続きを申しますと、 こういう見方もが「気」になっています。 『「木を見て森を見ない」要素還元論』と『「木に拘らずに森を見渡す」東洋医学的な思想』 http://www.ymknu200719.com/kotowaza/koto-ki-0026.html http://onigumo.kitaguni.tv/e398530.html http://www.takeuchikeizai.jp/pinkrona/kiwomite.htm そもそも何故に是を此処で引き合いに出すのか? 執拗な反芻で畏れ入りますが、 それは矢張り「連歌」への理解に関わっています。 つまり、「直前の句」だけを絶対的に参照(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AD%97%E5%8F%82%E7%85%A7)し、「引用」せねばならない、という事情を鑑みた場合に、 『「森を見渡す」感覚もが投影されているのか否か』を私が理解していないのだろう、と思われたからです。 寧ろ、昨晩の投稿の際に引用させて頂きましたMMORPGへの参加の方が、 遥かに「森を見渡し」てはいる様にも感じられます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/MMORPG
お礼
そうですね。 ★ 連歌は 「直前の句」だけを絶対的に参照し、「引用」せねばならない、という事情を鑑みた場合 ☆ とも限らないでしょう。 解説を読む限りでは 《直前のそのまた直前の句》をも参照し その中身とむやみに重なることは避けなければいけないであると言っています。 あるいは そのつてで行けば けっきょくすべての句を一応参照することになるでしょうし ひいてはそれまでの作品やすべての文芸・果ては歴史の全体を参照して おのれの表現をおこなうことになると言っても言い過ぎではないであろうと思われます。 だとしたら 木をも森をも見ているのです。そうではないでしょうか? 要素に分解しつつ しかも全体をも見ている。この基本命題で行けばよいのではないですか? 素人ゆえに安易な考えをするのかどうか そこは今のところ分かりません。
- JidousyaGaisya
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因みに、大航海時代の羅針盤やら聖書の活版印刷やらが、 「グレゴリ暦」の普及を促したのかを、現時点で調査しています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「近 代 の 座」 秋 尾 敏 ☆ これは おおきな主題ですので いましばらくお時間をください。(ほかの設問での返答を先にすることをもおゆるしください。と言っても 大したよい反応は わたしからは出て来ないかも知れません)。 ご参考に。 ・・・ ★ ~~~~~~~~~~~~~ 判りやすいたとえで行きますと、 古事記、万葉集、伊勢物語などの歌物語の詞書が不要になり、 時代を経て、勅撰和歌集、私選和歌集が盛んになり、 連歌の時代がやってきて、 最後には俳句にたどり着いてしまう、 そのプロセスに似ているように思います。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。《俳句》が文学あるいは少なくとも詩学の中で 歴史的に現代にまで来て その到達点であるということならば うなづくことも出来るかも知れませんが どうでしょうねぇ。 おっしゃるように《うた》は 社会的・公的な認知としては確かに歌物語の中に置かれて初めてそれらが貴ばれています。たとえば わたくしの別の質問の中に採り入れた次のうたも やまとたけるの物語の中に――もともとは それとは別にうたわれ覚えられていたに過ぎないものが――置かれて初めて 公式には日の目を見たわけです。 ▼ (記歌謡31) ~~~ やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまこもれる やまとしうるはし ~~~~~~~~~~ ☆ ただしつまりは 逆に言えば もともと――第一の次元において―― 日常生活の中からヒラメキが得られそれの言葉による表現も与えられるようになったものです。《原初の美》がありますし 保たれていると言ってもいいほどです。やまとたけるの話とは切り離して受け取ることが出来るからです。 あるいは と言うよりも おそらく《うた》は 独りいるときの自己表出のほかは 相手があって呼びかけ答えるというかけ合いの――互いの――自己表現だったと思われます。また いまもそうであると考えられます。 ということは ウタも詩も芸術も 国家(あるいは豪族の家系)の正式な歴史書や歌集として編まれるという第二次の社会的認知によりも 第一の日常生活の次元におけるその息吹きのほうが うんと大事であると考えられます。原初の美の中核の部分です。 ★ 連歌 ☆ は どうでしょう? 市民のたのしみとして 第一の次元にとどまっているでしょうか? 第二の・社会権力(ないし権威)による認知の次元と足して二で割ったような成り立ちをしていませんか? いやいやあくまで市民の次元においていとなまれる芸術であると言われれば おそらくそれは生活日常とはすでにかけ離れてしまっているのではないか? と問うことになるでしょう。 求愛のウタやあるいは冠婚葬祭での呼びかけ・問いかけとしての生活のウタからは 一たん離れてしまったあとだと考えられます。(実際にそのようにウタがうたわれることがあったとしても それは風流なことですねと受け答えられておしまいになるのではないでしょうか?) では ★ 俳句 ☆ は どうか? じつはこれは現代では 生活日常の中に溶け込んでいます。無名の俳人がたくさんいます。ただしその表現の形態もしくは中身は どうか? 十七文字という形態にも制約され 中身ははっきり定義することもむつかしいのではないでしょうか? 別に言いかえると 《わたし》がその自己表現の動態を生きるとき――《わたしがわたしである》ことを うんうんと推しながら 表現し切って行こうとするとき―― 確かにその一人ひとりは 正真正銘の芸術家であり しかも その中身はこの《自己還帰》の過程の全体(つまり一生)において捉えるかたちの芸術となっている。つまり 一つひとつの作品じたいには その内容があまり見るものはない。(そもそも 定型の容量が短すぎて表わしがたい)。 ★ 俳句にいたると、これは省略の美。”菜の花や月は東に日は西に”。他のものは隠されてしまいます。 ☆ わたしの見方から行けば こうです。《省略》していようがいまいが 《原初の美》もしくはその言葉への翻訳ないしその加工 これが表わされ伝えられ得れば それは芸術だと認められるのではないでしょうか? ★ ”菜の花や月は東に日は西に” ☆ そうですね。《原初の美》を凝縮したと言えましょうか? どうでしょうか? ・・・ (つづきます →http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6404077.html No.27補足・お礼欄)
お礼
ふろいらいんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 まづ ★ bragelonne様は「論理的であることが素敵だ」とのお考えを強くお持ちのようです。 ☆ にかんしてですが ちょうどいま【Q:信仰は どんな得があるか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6596814.html という質問をあげています。コギト(われ考える)の思考――そこでは 一般に論理思考が骨格となる――よりも ヒラメキ(直感および直観)のほうが言わば次元が高くて大事だという話を取り上げています。たとえば 次のような図式でそのことを捉えています。 ○ (ヒラメキとは 身と心のどういう動きか)~~~ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の場):カミ _______________________ インスピレーション=ロゴス(β):異言(いげん) 中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言(よげん) 本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ(理性)=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性に拠る論理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このようにたぶん前提としてのご指摘じたいは 的外れだと思いますが それは揶揄した物言いではなく 本文はまじめなご回答だと受け取りましたので しっかりとお応えしてまいります。 と言っても けっきょく見解は互いに一致していると言っていいほどではあります。 ★ 自然科学系の論文などではおおいに明瞭な文章に出会えます。日本人とか日本語のせいではなさそうです。論理使用の厳密さは一階住民の産業構造で大きく定まってきたということになりましょうか。 ☆ つまりはその素地が――潜在的な表現の能力が―― もとからあった。そのことをちょっと想い起こし頭の隅においておくとよいがなぁと思ったものですから この質問を挙げました。 もっと細かく言いますと 《時制の一致》が日本文にはないという質問がいまほかに挙げられていたものですから それにちなんで あぁ見落としてはいけない事実があったなぁと想い起こしたのでさっそく設問したという次第です。 ですからあとは わたくしも 日常の生活が互いに見慣れた顔ばかりのところでは 論理を追い求める表現はあまり要らなくなったのではないかと趣旨説明で触れましたように ★ 一方土着農耕民社会では日常的に重要なテーマ指導者の命令よりも太陽・水であり、租税・徴用など指導者からの命令や指導者への報告はむしろ論理的に扱わないことが有利となる局面が多そうです。このような社会では同音異義語・時制の不確かさ・活用の多様な方言化などが発達するのではないでしょうか。 ☆ といったところではないかとやはり思われます。 ただ少し思ったことは 次のご指摘では いわば情感の共同性が自然に養われて来るのでは必ずしもなく 人為的におしえるようになったのか でした。 ★ また今日でも日本語教育は「感情の豊かな表現」が主眼であるらしく「論理や事実の明瞭な表現」には大きな力が払われていないようです。 ☆ ですから わたしなりに結論めいたことをしるせば もし《ヒラメキ(直感および直観)》がイメージないし情感・感性やそして言葉としても互いに大事にされ理解されているのならば あとは さらにその内容をいかに論理的にほかの言語を母語とするような誰にも分かる表現に置きかえるか その度合いは 情況などに応じて必要なだけ対処すればよい。 あぁ やってはいけない《自分の田んぼへの水の引き過ぎ》をやらかしました。とふり返って思ったのですが 生来の厚顔無恥から書き直しはしないことにしました。あしからず。 でもこれに懲りずまたご回答をお寄せくださいませ。