アマテラスお二階さんは一階に大政奉還すべし

このQ&Aのポイント
  • なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?
  • ヨセ人は このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。
  • マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての大政奉還。
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アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

 いわゆる地域主権について問うものです。  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずです。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  このヨセ人なるアマテラス種族が 平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ市民村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。  《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており むろんその問題をあつかう。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。

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noname#135843
noname#135843
回答No.4

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > きびしいですね。きびしい現状ですね。――ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  話を複雑にしてしまい、誠に申し訳ございません。 > ☆ どうでしょう 《一部の奉仕者》とその奉仕を受ける者たちにじゅうぶんにこころゆくまで満足してもらいましょうか。たぶんその一回きりで 或る程度はそのあとでは自粛するようになると思うのですが どうでしょう?   確かに、公務員の幸福度(満足度)は高いようでございます。また、国際比較した場合、公務員数は少なめであり、一方、個人あたりの収入は高い傾向にあるようでございます。ただ、数は少ないとはいえ、多量のアウトソーシングをしておりますので(人件費を安く済ませるためです)、一概に数が少ないとは言えないようにも思われます。  ですが、いったん得られた既得権益をすんなりと手放してくれるかは、幾分疑問に思っております。従いまして、自粛してくれればいいのですが、現実は困難なように察せられます。 ”幸福度総合ランキング” http://kishadan.com/lounge/table.cgi?id=201005171504271 ”公務員人件費の国際比較” http://www.dir.co.jp/souken/research/report/capital-mkt/capmkt/05093001capmkt.pdf  > どうせわたしたちはガマンするのなら そのように全面的に甘い汁を心おきなく吸わせてやらねばならないかも知れません。その際には 情報メディアを《全体の奉仕者》として公正な報道の仕事をするように働きかけておかねばならないでしょうが。  実を申しますと、ジャーナリズム(の精神)に期待しているところがございます。最近では、大阪地検の検事が逮捕されるとの報道がございました。従来ですと、検事から特ダネを提供してもらう代わりに、検察の不手際に関する報道は全くしない という慣習がございました。ですが、これらの不祥事も報道されることになりました。引き続き、有能なジャーナリストが出てくることを願っております。 > ☆ トヨタ市とその周辺のトヨタ・ムラとアメリカやそのほかの国のトヨタ・ムラとの連携は 図れませんか? そういう連携をいくつも幾重にも図っていくかたわらで まだつづく国家としての動きもあるものと見ます。  そして今は一国のムラムラの連帯としてその国家の防衛があるのでしょうが 国を超えてムラムラが連携をすれば そのために或る種の防衛を考えるに到ることもあるかも知れません。そうする過程で 国際関係というものが 変質をとげて行きませんか?  先日、トヨタバッシングがアメリカで起こりました。トヨタを弁護してくれたのはトヨタの工場を持つ州の知事の方々だったそうです(ホワイトハウスは冷たかったですが)。従いまして、可能性は大いにあろうかと推察しております。防衛面につきましては、残念ながら、愚生にはわかりません。 > ☆ 失敗した場合には 以前よりもさらにわるい状態に落ち入るかとも思われます。民族間の関係は微妙なもので ちょっとのことで壊れるもののようです。さあ どうしたものでしょう?  各ムラの代表者の外交努力(外交能力)に強く依存するものかと思われます。ムラ人たちも、自分たちの有能な代表者を選んでいくという姿勢を持っていけば、前進する可能性は高いものと考えております。 > ただし 企業が中二階としてお二階さんと手を組むというよりは 一階にとどまりムラとの生活全体にわたるつながりに基礎を置くほうが うんと人間的でもあり効用も大きく経済的でもありまた共同自治の実も上がると考えてよいでしょうか?  はい、愚生は次のように考えております。国から地方への“権限”を移行すれば、企業がお二階さんと手を結ぶメリットが減じ、その結果、ムラとの関係性が強まり、共同自治の活性化につながるものと考えております。ただ、容易に、国が、自分たちが持っている権限を、地方に譲渡するのには未知数でございます。 > ☆ でも 業界における自主規制という手もあるでしょうから・そしてムラムラの行政に任せてもいいでしょうから《国家》としての役割はすでにおそろしいほど消えて行きつつあるのではないでしょうか?  一例を挙げさせていただきますと、“関西広域機構”なるものも設立されているようでございます。まず、国との癒着関係を希釈化していく方向性も打ち出されているように見受けられます。   最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今回のキモは 次のご見解にまとまりましょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  はい、愚生は次のように考えております。  ( a ) 国から地方への“権限”を移行すれば、企業がお二階さんと手を結ぶメリットが減じ、その結果、ムラとの関係性が強まり、共同自治の活性化につながるものと考えております。  ( b ) ただ、容易に、国が、自分たちが持っている権限を、地方に譲渡するのには未知数でございます。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち( a )の方向を向くものとして 次のような連れ立つ傾向が見られるようであると。  ★ 一例を挙げさせていただきますと、“関西広域機構”なるものも設立されているようでございます。まず、国との癒着関係を希釈化していく方向性も打ち出されているように見受けられます。  ☆ ( b )の問題に関連して:  ★ 〔公務員は個人としての幸福度が高く その人数においても人件費においても国際比較でいわば優等生である日本のその公務員について〕:ですが、いったん得られた既得権益をすんなりと手放してくれるかは、幾分疑問に思っております。従いまして、自粛してくれればいいのですが、現実は困難なように察せられます。  ☆ と。  さらに( a )の傾向に関連して 国家を超えてムラムラの連携が しかも企業を交えて すすみうると思えなくない:  ★ 先日、トヨタバッシングがアメリカで起こりました。トヨタを弁護してくれたのはトヨタの工場を持つ州の知事の方々だったそうです(ホワイトハウスは冷たかったですが)。従いまして、可能性は大いにあろうかと推察しております。  ☆ ただし そのときにおいても  ★ 防衛面につきましては、残念ながら、愚生にはわかりません。  ☆ そして防衛をふくむ外交活動として:  ★ 各ムラの代表者の外交努力(外交能力)に強く依存するものかと思われます。ムラ人たちも、自分たちの有能な代表者を選んでいくという姿勢を持っていけば、前進する可能性は高いものと考えております。  そしてメディアの位置づけの問題ですね。わたしが勝手にメディアに対して 公共の仕事をせいと吠えたのでしたが  ★ ~~~~~~~~~~~  実を申しますと、ジャーナリズム(の精神)に期待しているところがございます。  最近では、大阪地検の検事が逮捕されるとの報道がございました。従来ですと、検事から特ダネを提供してもらう代わりに、検察の不手際に関する報道は全くしない という慣習がございました。ですが、これらの不祥事も報道されることになりました。  引き続き、有能なジャーナリストが出てくることを願っております。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ むしろ個人の独立したジャーナリストに期待しておられるようにも伺えますが。ということは お二階さんのそれぞれの部署で引き続きこの種のもう行き戻りの出来ない不祥事が起きてくれることを俟っていることになりましょうか。大手のメディアは 政府ないし官僚行政とのつながりが強いのでしょうか。  名古屋市では議会のリコールが確定したようですが いわゆる地方自治において幾分かはあたらしい動きが出て来たのでしょうか。  さて しっかりと現実にもとづいてお考えを言っていただけるのをいいことに質問者は 勝手な絵図を描こうとして来ましたが そのつてとしてになりますが 優秀な人材が中央に行くのではなく地域の自治体において公務員になって欲しいですね。  あるいはこの市民社会としてのムラへの大政奉還という考え方について学者からも議論や研究が出て来るとうれしいと思います。  ここで一区切り打てたのかも知れません。でももう少し開いていましょうか。急いで閉めることなく。

その他の回答 (8)

noname#135843
noname#135843
回答No.9

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > そしてメディアの位置づけの問題ですね。わたしが勝手にメディアに対して 公共の仕事をせいと吠えたのでしたが、大手のメディアは 政府ないし官僚行政とのつながりが強いのでしょうか。  メディアは、少なくとも民法は、私企業(株式会社)ですので、営利目的のために活動しております。ですが、公共性が極めて高いため、以下のような“放送法”により、規制がなされております。 放送法 (目的) 第1条 この法律は、左に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。 1.放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。 2.放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。 3.放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。 (放送番組審議機関) 第3条の4 放送事業者は、放送番組の適正を図るため、放送番組審議機関(以下「審議機関」という。)を置くものとする。  (当機関の設置により、適正化の担保をしています)  ですが、癒着・利権等も見られるのも事実でございます。以下に癒着の一例を挙げさせていただきます。 「地デジ放送:200億円で済むはずの地デジ化に1兆円(東京スカイツリーの建設費等です)もかかった理由」 日本の地理的な条件を考えた場合、放送のデジタル化は衛星デジタル方式で行う方が遙かにコストも安く、難視聴地域対策にも有効なため、合理的な選択のはずでした。ですが、何十倍ものコストがかかる地上波デジタル方式が導入された理由は、衛星デジタル方式ではバックに有力な政治家がついている地方放送局の存続が困難になり、そのような選択は当時の自民党政権下では不可能だったのだそうです。 > 名古屋市では議会のリコールが確定したようですが いわゆる地方自治において幾分かはあたらしい動きが出て来たのでしょうか。 「市議会もリコール住民投票へ=鹿児島・阿久根市」 時事通信  にもございますように、新たな風潮が生まれてきたように察せられます。因みに、この背景には、以下のようなものがあるようでございます。 「市長が市職員の給料明細を公開~税収よりも人件費が多い阿久根市」 http://www.rui.jp/ruinet.html?c=400&i=200&m=200538  地域の自治体職員にも、問題があるように見受けられます(ですが、地域住民の積極的な市政への参加等により、種々の問題点も解決・回避可能とも考えております)。  以前にもリコール運動が各地でございましたが、汚職議員のリコール等しか愚生の記憶には残っておりません。新たな運動かと推察しております。 > さて しっかりと現実にもとづいてお考えを言っていただけるのをいいことに質問者は 勝手な絵図を描こうとして来ましたが そのつてとしてになりますが 優秀な人材が中央に行くのではなく地域の自治体において公務員になって欲しいですね。  はい、もちろん、愚生もそう望んでおります。 > あるいはこの市民社会としてのムラへの大政奉還という考え方について学者からも議論や研究が出て来るとうれしいと思います。  はい、仰ると通りかと存じます。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 公共性が極めて高いため、以下のような“放送法”により、規制がなされております。  ▲ 放送法 ~~~~~~~~~~~  (目的)  第1条 この法律は、左に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。  2.放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《不偏不党》ですか。フジから朝日までざっと右寄りと左寄りとに並んでいるとも言いますが。  次の情報はそう言えばありましたね。  ★ 「地デジ放送: ~~~~~~~~~~~~~  200億円で済むはずの地デジ化に1兆円(東京スカイツリーの建設費等です)もかかった理由」  日本の地理的な条件を考えた場合、放送のデジタル化は衛星デジタル方式で行う方が遙かにコストも安く、難視聴地域対策にも有効なため、合理的な選択のはずでした。  ですが、何十倍ものコストがかかる地上波デジタル方式が導入された理由は、衛星デジタル方式ではバックに有力な政治家がついている地方放送局の存続が困難になり、そのような選択は当時の自民党政権下では不可能だったのだそうです。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 南米の国で日本方式を採用したとかとも言っていましたね。政治がらみというのは まともに後世に影響を与えるのですね。岐阜羽島駅もそうでした。  次の情報で細部を引用しておきます。  ★ 「市長が市職員の給料明細を公開 ~~~~~   ~税収よりも人件費が多い阿久根市」  鹿児島県阿久根市は、総人口24,356人、1時間に1本の汽車が停まる駅が一つだけの小さな町。  市の歳入を見ると、税収は20億。地方交付税が40億円注入されている。  このうち、たった300人に満たない職員の半数以上が年収700万円を超え、人件費だけで年間約24億が支出されているというのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 全国の格差を均しているとは言えるようですが。でも 平均年収が多すぎるようです。  大阪都や中京都と言い始めていますね。都民税にすると 県民税と市(市町村)民税とがいっしょになるだけだと思うのですが。でも企業誘致には やりやすい環境が出来るのでしょうか。(分かりませんが)。  この質問は 現実に立脚するも当然よし 現実離れして考えてもよしという姿勢でいます。もう少し開いています。

  • heartmind
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回答No.8

すいません。 やっぱりちょっと場違いな気がしてきました。 やっぱりなんかちょっとずれていたようです。 では失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ えぇ――ご回答をありがとうございます―― 実務やあるいは政策は ここでは二の次としているので その意味ではかみ合わなかったかも知れません。  鉄道の転轍機で行き先を変えますよね。そういう作業を――従来の考え方から自由になるために エポケーをして――考え合って行こうという趣旨ですから。机上の作戦ですね いまはまだ。  あるいは鉄道を その線路網じたいを 変えようとしているかも知れません。

回答No.7

ぶらじゅろーぬさん。おはようございます。 しゃべるだけしゃべって すっかりご無沙汰しております。 ぶらじゅろーぬさん。 相変わらず、しゃべるのが早いです。苦笑。 わたしの、 「わたしが受けたいぢめ」の話を 聞いてもらえますか。 なるべく全身でナマの声でしゃべりますから。 わたしにもいろいろないぢめが降りましたが、 それらに関してわたしはとても鈍感でした。 鈍感であるように、体中で訓練したからです。 いぢめの内容は、 たとえば小学生のころ、友ダチが わたしの習字道具をどこかに隠し、 1週間ぐらい探した結果、 屋上でようやく見つけた、などでございます。 このような可愛らしいいぢめは、 他にもいろいろあったように思うのですが、 そのほとんどは、あまり鮮明に覚えていません。 どうでもよかったからです。鈍感だったからです。 さて。 「わたしが受けたいぢめ」の話を 聞いてもらえますか。 わたしを最も強烈にしかも静かにいぢめたのは、 おそらくわたしの母親でございます。 いえ、あの人は物理的虐待もしませんでしたし、 ネグレストもしない、善良な市民でございました。 ええ、わたしは大人になるまでちゃんと、 あの人に「作ってもらい」ました。 しかし、あの人は、わたしのとても早い時期に、 わたしから、言葉を奪ったのでした。 社会の最小単位である「家庭」における、 強烈なA-S関係でございます。 Aの役割をするのは専ら母親でございました。 父親は「金銭運搬機」であり、 「家庭」においては「居ない人」でございました。 このような状況は「特殊な家庭環境」ではなく、 一般的であったように思います。 ええ、あの人はとても善い人でございました。 子どもにとって、のみではなく、 【世】【間】にとっての外見としても。 たとえばこんな風に学習しました。 ゆづり合う格好をして縛り合うのが当たり前、 「言葉」は「用を足さない」から 「言葉」の背後を聴くべきであり、 「言葉自体」は聞き流すのが当たり前、 「言葉自体」で他者を傷つけることのないよう、 また「言葉自体」で自分が傷つかぬよう、 それほどに個人は「打たれ弱い」のだ、など。 このように学習するたびに、 わたしは、わたしを、何度も殺しました。 生きているフリをするために、です、たぶん。 しかしわたしの心臓は動きたいと言っておりますし、 わたしの腎臓はおしっこが出たいと言っておりますし、 つまり生きたいと言っておりまして、 わたしのウチ側のマが平衡になるように、 体のほうが勝手に病気になったのでございました。 わたしが、母親にいぢめられたと気付いたのは、 つい、数年前のことです。 わたしは、それまで、半分、死んでいました。 わたしは、ですから、生まれて約8年でございます。 いえ、まだ8歳にもなれていないかもしれません。 とにかく奪われた言葉を取り戻すのに必死なのですが、 なにしろ無駄に着てしまった着物が重い上、 透過度の低いサングラスをかけておりますゆえ、 それらを打ち砕いて捨てることに必死でございまして、 とてもゆっくり歩むことしかできないのでございます。 おそらくわたしの「成人式」は数十年後でございましょう。 余分な話が長くてすみません。 この質問は拝見しておりましたが、 ずっと沈黙しておりました。 このように阿呆なので何も言えずにいるというのが とりあえずの言い訳でございますが。 正直なところ、大政奉還は、 難しいのではないでしょうか。 低次元な話で恥ずかしいのですが、 同じおうちに住んでいるのに、 なぜ二階の人は一階の人に質問をしないのですか。 なぜステアヱイの真ん中あたりで話をしないのですか。 二階の人も言葉を奪われているのではないですか。 戦争責任うんぬんとか、 難しい話はちっとも分からないのですが、これは、 「誰をも傷つけないように慎重にしゃべった」風をして、 「こうするより他、仕方がなかったのだ」と言えるまで、 (つまり逃げ道を残せるようになるまで) 沈黙していたのではないですか。 こうして、お上も、大衆も、 無駄に重い槍......もとい......思いやりもどきを、 担いでいるような空気になりっ放しなのではないですか。 そうして、お上も、大衆も、 このように責任放棄ができてしまっていませんか。 そうして、そのことにあまり不満を感じないくらい、 鈍感になっているのとちがいますか。 本当に分からないまましゃべっているので、 マチガイがあれば直してください。 大衆は、たぶん、 ステアヱイの真ん中でお互いに怪我をする準備、 ぐらいはできていると思います。 わたしには言葉が足りませんが。 というのも言い訳ですが。 声が出たかったのでとりあえずしゃべりました。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。(ちょっと考えるところがあって 名前を呼ばないほうがよいのかと思案しています。名前を呼ぶのはマが濃いと感じるひともいるようです)。   いま三つの質問をしていますが ひどっちさんともう一人の方を除けばあとの四人の投稿いただいている方はみな女性です。ブラジュロンヌという名は どうも疫病神か何かだという風評が出回っているのではないかと思われます。肩書きやら噂を重視する人は 男に多いようです。と推測してみました。  それにこの質問と来ています。さすが自由のにゅうとらるさんも  ★ 正直なところ、大政奉還は、 / 難しいのではないでしょうか。  ☆ と結論づけられたようですね。もっとも理由を示しておられます。もう二階と一階とのコミュニケーションは破綻しているのではないか。ここに帰着するでしょうか。  ただし書きもありますね。  ★ ~~~~~~~~  大衆は、たぶん、  ステアヱイの真ん中でお互いに怪我をする準備、  ぐらいはできていると思います。  ~~~~~~~~~~  ☆ ひどっちさんが 中二階という分析の視点を出してくれましたが 《非の打ちどころのないアマテラス人格語》を使いこなして お二階さんも一階もコミュニケーションが破たんしているにしても 互いに歩み寄りの姿勢は見せているというところでしょうか。スーツの下に鎧を着つつ歩み寄るというところでしょうか。その段階に到るまでは 一階のみんなもアマテラス人格語を使いこなすようになっているのかも知れません。  ★ ~~~~~~~~~~  こうして、お上も、大衆も、  無駄に重い槍......もとい......思いやりもどきを、  担いでいるような空気になりっ放しなのではないですか。  そうして、お上も、大衆も、  このように責任放棄ができてしまっていませんか。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ どうも人格語を流暢に使いこなす能力は 責任放棄いや責任逃れいや責任外しもうまいというところでしょうか。あるいは ここまで努力したんだからというアリバイ作りがうまいと言うべきでしょうか。ひょっとして敵どうしで そのあたりのマ(間合い)を測ってお互いが傷つかないようにとうまくやるすべを身につけたのでしょうか。     たしかにこの言葉のやり取りとしての運河は きわめてたくみに作られているように思われます。  その一番のコツは こうです。いけにえの羊を 《最小不幸――菅さんへのあてこすりではなくですが――の結果》を求めて ひとり作り上げる。その犠牲を出すことで・そして犠牲はその一人にのみとどめることで あとは敵どうしも《協力》してその場を取り繕い一件落着の状態を演出する。  《第三項排除の理論》 これは今村仁司という人が言っています。この世の知恵だというわけです。お金で結着をつけるというのも お金が第三項だという見方です。つまりお金が犠牲者になるというかたちであり それで済めば万々歳だということでしょうし これも人間の知恵だということになるそうです。  いぢめのお話は もし煮詰まっていると思いましたら 出来ればわたしも応答してまいります。  いつか触れておられたダブルバインドでもないのですね?

  • heartmind
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回答No.6

地域主権という話から、日本列島改造論は外せないと思います。 地域の資産価値をどうあげるかという話ですが、 高速鉄道のランニングコストは保守コストが人間作業に頼るところが 大きいですから、今後もエネルギーコスト分ぐらいしか縮小できない 気がします。ということは、やはり普通の庶民のサラリーマンが通勤 に利用することは難しいということだと思います。 リニアの方がエネルギーコストがランニングコストの占める割合が高 いですから、もしかしたら将来的にエネルギー開発が進めば、可能性 があるかもしれません。 しかし現代の時代に「日本列島改造論」という発想が本当にマッチす るのかという疑問はあります。モノの流通コストは縮小され、ネット 社会によりネット会議が可能になり、働く場所もより分散化が可能で す。 高速という価値より、より確実に目的地にオートマチックに人間が 移動または、ものが届くシステムの方が求められている気がするの です。合理的システムと人間との安全なすみ分けも、合理的にかつ、 自然の景観を損なわない様にしなければ資産価値が下がってしまいま すのでその点のインフラをどうするかということもあります。 具体的にはまた、日を改めてご回答させてもらいます。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ☆☆ (No.5お礼欄) ~~~~~~~   わたしたちの基礎は この大地に足をつけた日々の生活 ここにあって ここにしかありません。むつかしいことは一切つけ加えておりません。互いにけんかをし合うくらいに仲好く 異者を受け容れ合おう。これが ひとつの目指すところです。  これならやって行けると思うのですがねぇ。インタムライズム。あるいはインタスサノヲイズム。と名づけています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであります。  ★ 地域の資産価値をどうあげるかという話ですが、  ☆ は そのまま当てはまりますが  ★ 地域主権という話から、日本列島改造論は外せないと思います。  ☆ は みなで考え話し合って決めることです。何も決まっていません。  改造すべきは改造し 必要がなければしない――こう決まっています。  ★ インフラをどうするかということもあります。  ☆ そうなのですが まったくそうなのですが――なぜなら 安定成長を果たして生活を成り立たせて行かなければ何にもなりませんから そうなのですが―― まづはゆるいかたちで共同の考えを築くことが大事だと考えます。上に掲げた基礎の考え方でよいかどうかです。  そのあとさらに具体的にみんなで地域ごとに・そしてインタムライズムとしても互いに連絡を取り合って 知恵を集めて行く。こんな大雑把な――いまは――考えです。どうでしょう?

  • heartmind
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回答No.5

私たちは、普通に暮らしているだけでは自分の生活と関係のない ことを含めたマクロ的な視点をもつことは少し困難です。 様々な書籍やインターネットの情報やメディアがそれを補って くれています。 だからこそやはり、いつもメディアを批判的に見る目は失っては いけないんじゃないかと思います。その立場にあるのはやはり大衆 だと思います。 昨今では、大衆の個人主義化を正当化して批判する報道や、あまりに も説教臭さが鼻につくコンセプチュアルアートにかたむきすぎる作品 は、人間をしらけさせ、マーケットをさらに冷やしてしまいます。 大衆しか大衆の目で批判できないのです。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 大衆しか大衆の目で批判できないのです。  ☆ たぶんそういうことだと思います。  ですから アマアガリした(お二階へと出世した)人が そういう一階の大衆の目を持ち続けることが出来ればいいでしょうし おうおう忘れがちになる(もしくは 持っていては 仕事がつとまらなくなる。なぜなら威厳がないと示しがつかないと考えられている)ということだと思われます。  そのアマテラスお二階さんとしての目は もはや大衆の目とは離れて行っています。《無謬性》を着なければならないとは たいそう大変なことだとも思われます。そうなると マ違っても間違ったとは言わなくなります。一階の民衆に対して行は 往々にして切り捨て御免というような慣行がはびこります。  だとしたら その目は すでに逆立ちしています。色眼鏡に成り変わっています。  これをエポケーせねばなりません。《洗濯》しなければなりません。  たぶん洗濯できたら 人びとはその影響を受けて若い人たちが 中央官僚を目指すだけではなくむしろ地域ごとの共同自治体においてはたらこうと考えるようになると思います。中央政府などは二の次になると考えます。例によってまだしばらくは 安全保障の問題が――これとしては 国家としてのまとまりが必要であるようですから――つづいて重くのしかかっているようですが。  芸術は広く自由に表現してあたらしい人間と社会とその心を模索して行って欲しいところですね。  たぶんメディアは ふるいところが残るかも知れませんね。中央政府と討ち死にする覚悟でさえいることかも知れません。  企業は 変わり身が早いのではないでしょうか。ムラ(市町村)も柔軟にあたらしい考え方を身につけて行くでしょう。  いつも言っているのですが あたらしい思潮に同感するのが三分の一 次の三分の一が共感(浮動層) 残りは反感という情況でよいのではないでしょうか。それであたらしい舵取りが出来て行くのではないでしょうか。  あとは 外国との話し合いです。ほかの国々のムラとの連帯・連携の取りつけです。《大衆の目》を持った人びととのきづなを 嫌と言うほど 作り上げて行かねばならないでしょう。それには お二階さんが あたかも国々のあいだで協力して妨げになるかも知れません。  わたしたちの基礎は この大地に足をつけた日々の生活 ここにあって ここにしかありません。むつかしいことは一切つけ加えておりません。互いにけんかをし合うくらいに仲好く 異者を受け容れ合おう。これが ひとつの目指すところです。  これならやって行けると思うのですがねぇ。インタムライズム。あるいはインタスサノヲイズム。と名づけています。

noname#135843
noname#135843
回答No.3

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > 言いかえると 建て前としては《 S (主導)- A (従属)》連関という民主制が築かれました。アマテラスお二階さんは みな公僕です。  仰るとおりかと存じます。 憲法 第15条 2項 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。 憲法 第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。  公務員は、憲法により、第15条の遵守義務が課せられています。ですが、現実は、以下の文言のように思われます。 憲法 第15条(改) 2項 全体が奉仕者であつて、一部の奉仕者が認められても、国民はガマンしなくてはならない。 > そこでいま現在において見方が分かれるのは 安全保障であるようです。  国家として自己防衛するのか ムラとして(およびムラの連合体として)安全を図るのかに分かれると思います。  スイスの例を示させていただきますと、“カントン”という強固に独立した州がございます。ですが、侵略の恐れがあった際には、国民全員が兵士になる という特徴がございます。防衛上必要な戦備(イージス艦等です)は、国がした方が、金銭面上優位に働くものと考えております。 “スイスのカントン” http://www.asahi-net.or.jp/~vg5t-ngi/bunka/naiyo/schweiz.html > 多国籍企業もしくは超国籍企業のばあいは元よりですし 中小企業であっても貿易をする場合には国家を超えて ムラとムラとのつながりにかかわっているはずです。自治体と企業体との連携がそこでは成されてしかるべきだと考えられます。  連携が頓挫してしまった例を見たことはございますが、両者の関係が崩れた際には、町の活況は著しく低下したのを覚えております。 > だとすれば 中二階の企業らは こんどは一階のために・一階のムラや人びとと連帯して行動を起こすと考えて不都合はあまりないように思われます。  おそらく企業が“中二階化”しておりますのは、お二階様が一方的に押し付けてくる場合もございますが(参考)、企業にとりましては、お二階様が許認可権を持っているため、通常ならば認可等に1年ぐらい要するものを、もっと早く認可してもらいたい といったものかと推察しております。従いまして、一階の人たち(もしくは地域社会・ムラ)との連携には,企業にとりましても不都合はないものと考えております。 参考: Wikipedia ”ハートピアきつれ川” 「1994年12月に全家連理事長が厚生省に呼び出され、天下りの受け入れを強要された。条件は年収1,000万円。いったんは拒絶するが、ハートピアきつれ川の施設建設工事も始まっており、補助金10億円のこともあり、厚生省との関係を絶つわけにはいかず受け入れることになり、元役人がハートピアきつれ川の所長になった。」 > 人びとはたしかにムラ(市町村長および議会)を自分たちの意志(総意)の元に置き そこに企業をも《巻き込んで》 共同自治および経済の安定成長を図る必要があると考えます。そういったムラどうしの連携・連帯を世界的に広げて行かねばならないように考えます。  企業の誘致により、一般的には、税収、人口の増加のみならず、そして必然的に、活況が増してきます。従いまして、安定成長には必要なものと解しております。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 きびしいですね。きびしい現状ですね。――ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  むろんこのきびしい情況に向かってこそ ここでの哲学であると勇んでまいりたいと考えますが いばらの道というよりも 情況のきっかけとしてのにんげんが見当たらないというほうに――あからさまな・けっきょくは愚痴ですが――途方に暮れる壁が立ちはだかっているように思います。  困難なもんだいとして:  ★ ~~~~~~~~~~~~  公務員は、憲法により、第15条の遵守義務が課せられています。ですが、現実は、以下の文言のように思われます。   憲法 第15条(改)   2項 全体が奉仕者であつて、一部の奉仕者が認められても、国民はガマン     しなくてはならない。    ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。まづ憲法の条文で確認してもらってありがたかったです。そこで こんなことも考えてみます。  どうでしょう 《一部の奉仕者》とその奉仕を受ける者たちにじゅうぶんにこころゆくまで満足してもらいましょうか。たぶんその一回きりで 或る程度はそのあとでは自粛するようになると思うのですが どうでしょう?   みなさん 満足しましたか? とその人たちにきちんと問うておく必要があると思います。どうせわたしたちはガマンするのなら そのように全面的に甘い汁を心おきなく吸わせてやらねばならないかも知れません。その際には 情報メディアを《全体の奉仕者》として公正な報道の仕事をするように働きかけておかねばならないでしょうが。  ★ ~~~~~~~  ですが、侵略の恐れがあった際には、国民全員が兵士になる という特徴がございます。防衛上必要な戦備(イージス艦等です)は、国がした方が、金銭面上優位に働くものと考えております。  ~~~~~~~~~  ☆ トヨタ市とその周辺のトヨタ・ムラとアメリカやそのほかの国のトヨタ・ムラとの連携は 図れませんか? そういう連携をいくつも幾重にも図っていくかたわらで まだつづく国家としての動きもあるものと見ます。  そして今は一国のムラムラの連帯としてその国家の防衛があるのでしょうが 国を超えてムラムラが連携をすれば そのために或る種の防衛を考えるに到ることもあるかも知れません。そうする過程で 国際関係というものが 変質をとげて行きませんか?  とは言うものの その道はリスクが大きいと見るべきようでもあります。  ★ 連携が頓挫してしまった例を見たことはございますが、両者の関係が崩れた際には、町の活況は著しく低下したのを覚えております。  ☆ 失敗した場合には 以前よりもさらにわるい状態に落ち入るかとも思われます。民族間の関係は微妙なもので ちょっとのことで壊れるもののようです。  さあ どうしたものでしょう?  ただし 企業が中二階としてお二階さんと手を組むというよりは 一階にとどまりムラとの生活全体にわたるつながりに基礎を置くほうが うんと人間的でもあり効用も大きく経済的でもありまた共同自治の実も上がると考えてよいでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~  企業にとりましては、お二階様が許認可権を持っているため、通常ならば認可等に1年ぐらい要するものを、もっと早く認可してもらいたい といったものかと推察しております。従いまして、一階の人たち(もしくは地域社会・ムラ)との連携には,企業にとりましても不都合はないものと考えております。  ~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん公共団体としてのアマテラス行政は 市民の中には良からぬことを図るやからもいることだろうからというので目を光らせている(規制行政)ということかも分かりません。でも 業界における自主規制という手もあるでしょうから・そしてムラムラの行政に任せてもいいでしょうから(つまり ムラムラの連合体としての中央執行機関という働きは 残るかも分かりません) 《国家》としての役割はすでにおそろしいほど消えて行きつつあるのではないでしょうか? (言い過ぎと言いますか もっと緻密に資料にもとづきしゃべらねばならないでしょうが)。  ★ 参考: Wikipedia ”ハートピアきつれ川”  ☆ この事例にしても いちどはそういう甘い汁を吸いたい人たちには 思う存分吸わせてあげましょう。そのことも報道しましょう。そのご経験はいかがでしたか?としっかりとあとでたずねておきましょう。  ★ スイスのカントンの例  ☆ もいづれ参考にすることができる主題にぶつかるかと思います。  いやいや 冷や汗ものです。ごめんなさい。

  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.2

伝統をどう近代化していくか、ということが難しい問題ですが重要に なってくると思います。 日本は法治国家ですが、しばしばそれが伝統にねじまげられているの ではと思えてしまうことがあります。 お相撲さんが虐待で亡くなられた事件がありましたが、「検死の物証」 を「状況証拠」でしかないので立件が難しいのではという報道のされ方 には、はっきり言って憤りを感じました。その時は新潟大学の正義感に 助けられましたが、ジャーナリズムにはその正義感のかけらもなかった。 ジャーナリズムの目的が数字がとることではなく、正義感が核になければ 全く意味をなさないと思います。若者脆弱論ではかたずけられない問題が そこには確かにある。いつの時代でも若者のエネルギーは内に秘める正義 感にあるのですから。

bragelonne
質問者

お礼

 そして問題は おそらくお二階さんと言えば 《おほやけ》という観念が強いという側面にもあると―― 一般化して――考えられるのではないでしょうか?  おほやけ(公的・公共・公益)といった考え方の上に乗っていると ついつい権威をかさに着て何をやっても 自分がただしいと思い込み ゆるされると信じ込むことに成りがちです。  アマテラス公務員について その考えること・為すことは《無謬性》を帯びるという神話が 千五百年のあいだ 力を持っていました。いわゆるお墨付きというそれです。  (役人がまちがいを犯したということを はっきりと表明したということはなかったそうです。片山善博が鳥取県知事のときに初めてそれをおこなったとか――うろ覚えですが――聞きました)。  ですから はあとまいんどさんに恨みも辛みも何もありませんが ここでは近代化の問題とは別だという見方が必要であるように思います。言いかえると 近代化を図って行ったとしても このお二階さんの無謬性神話が活きているかぎり 《かわいがり》のならわしとその構造(つまり A - S 連関)は変わらずつづくという見方を ここでは つよく明確に推し出したいと考えます。(そのために 別の質問として立てたのでもありました)。  つまりは いぢめ構造ですね。アース役はつらいよ現象ですね。  なぜならば あたま(お二階さん)で立っているからです。逆立ちしているからです。無理しているからです。そのあたまで 近代化にしても人間化にしてもそれらを推進したところで 逆立ちは直りません。考えれば考えるほど むしろ糸は結ぼれて行きます。つまり いまは――大政奉還とまで言わなくとも―― 思考の中断つまりエポケーが必要だと考えられます。(ただし議論としては 極論をたたき台にするのが 建設的です。問い求めがすすむでしょう)。  ★ いつの時代でも若者のエネルギーは内に秘める正義感にあるのですから。  ☆ この《正義》論には一歩も踏み込まずに済まそうとしていますが この視点の取り方の微妙な違い・その角度の違いについて それについても《正義感》を発揮すればどう見えるか。これを 質問者としては 問いたいと思いますが どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 はあとまいんどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。この際ですから げんみつにまいりましょう。  ★ 伝統をどう近代化していくか、ということが難しい問題ですが重要に / なってくると思います。  ☆ これでは 問題意識があいまいであるとわたしは考えます。  ぎゃくに言いかえると 《伝統》の中で――伝統の中だけにおいて―― 〔擬似的な〕二階建て構造はないか これを見直すという作業が必要であり肝心であると考えます。近代化の以前にという意味です。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~  お相撲さんが虐待で亡くなられた事件がありましたが、「検死の物証」  を「状況証拠」でしかないので立件が難しいのではという報道のされ方  には、はっきり言って憤りを感じました。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 微妙に見方を――その角度を――変えたいと思います。二階から一階へのまなざしを――むろん一般にどちらが主導権を握るかをめぐってです――どのように注ぐか そのこと自体が問題です。近代化以前にという意味です。たとえお二階が世間のならわしとして主導権を握っていたとしても その権威や権力のふるい方によって 人と人とのあいだのマは 人間的にも非人間的にもなると考えられるからです。  相撲界では このお二階にいる者たちが一階の人間に対して揮う実力のあり方として それを《かわいがる》と言うそうです。  ▲ (ヰキぺ:かわいがる) ~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%81%84%E3%81%8C%E3%82%8B  § 指摘されている問題点  かわいがられている力士を、気合を入れるために親方や兄弟子が「竹刀や木刀で叩いた」り、「口の中に塩や土俵の砂を入れた」などの話もある。  「立合いの瞬間には、ぶちかましの威力を増すために呼吸を止めなくてはならない」、という考え方から、それを身体で覚えさせるために「稽古で息のあがった者には、口に詰め物をする」、という意味合いもある。  かわいがりが行われる時は、複数の力士が立ち会っていることから、「相撲というスポーツ・神事の特異性を言い訳にした集団暴行である」とも言われている。  ただし、通常は稽古をつけるのは上級力士一人で、他の力士達は、かわいがられている力士が土俵外に出された時に土俵内に戻す役目になっている。  また、「普通は親方が行うものではない」という指摘もある。  元関取の龍虎勢朋は、「親方自身がやれば、周囲もそれと同様のことをするため一番危険」と述べている。  §§ 龍虎勢朋の証言  2007年10月20日放送の朝まで生テレビでは、龍虎勢朋が相撲界ではリンチがあると述べている。  「相撲界には伝統的にリンチがある」  「ここ(額)は強いんですよ。だからここを(ビール瓶で)バカーンとやっても大丈夫」  「我々の時代は、リンチの場合はビール瓶でやれと(言われた)。そのリンチを耐えて伸びた一握りの人が(強くなるんです)」。  また、かわいがりについても、「土俵の上はかわいがり、リンチは土俵外!」と述べ、土俵で行うリンチがかわいがりとの認識を示した。  §§ 高砂親方(4代目朝潮太郎)の書籍  高砂親方は、その著書『親方はつらいよ』文藝春秋出版で、  ぶつかり稽古は、「ぶつかられる方も痛い」練習であり、「先輩が後輩を鍛えるために、自分も痛い練習に付き合っている」と言う面が強く、ある程度体ができた人間にやる分には許容範囲である。  しかし、ビール瓶で殴るなど、一方的に痛めつける(自分に痛みが伴わない)行動は「かわいがり」とは別物であり、行うべきではない。  と主張している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ▲ 「先輩が後輩を鍛えるために、自分も痛い練習に付き合っている」と言う面が強く とか  ▲ 「土俵の上はかわいがり、リンチは土俵外!」と述べ、土俵で行うリンチがかわいがり〔だということで 土俵の上でおこなったとしても しかしながら〕「親方自身がやれば、周囲もそれと同様のことをするため一番危険」  ☆ といった見解は 近代化と重なってはいるでしょうが それ以前の段階においても考えられる人間的なお二階さんのあり方を 人びとの知恵として語っているでしょう。

noname#135843
noname#135843
回答No.1

 こんばんは、Hidocchiでございます。 > 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか? 「エコポント=天下りポイント?」  エコポイントが、財団法人省エネルギーセンターの給料になります。その財団法人省エネルギーセンターという組織は、経済産業省の天下り先。つまり我々が、給料を払うしくみになっています。 (財)省エネルギーセンター http://www.aeha.or.jp/01/b.html (実質的経営者である常勤の専務理事が、天下りしていました) (財)家電製品協会家電リサイクル券センター http://www.rkc.aeha.or.jp/text/s_rule.html (代表者・理事の記述すらありません!)  確かに、この“エコポイント”制度は、今期日本経済の活性につながりましたので、ある意味、黙認(許容)できるかと思われます。  ですが、某液晶テレビ大手メーカーには、経産省から29人が天下り(2006年)。さらにまた、エコカー減税の見返りのためか自動車業界にも大量の天下りがなされているのだそうです。  そこで、問題となりますのは、メーカー側も率先して天下り(お二階様)を受け入れている状況にある ということでございます。さらに申しますと、一階の人たちが、進んでお二階の人たちをマツリ上げ(平屋に戻すことなく)、むしろそれを望んでいるということでございます。  「一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか?」  には、愚生は賛成しているのですが、現実を見ますと、それを一階の人たち(中二階の人たち?)が、それをむしろ喜んで受け入れているということでございます。  かような現実を見せ付けられますと、どうしていいのか途方にくれてしまいます。 > 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  今から、20年くらいまでならば、神通力も通用したかと思われます。ですがこの財政難、デフレ・経済政策の失敗等による長期にわたる不況を鑑みますと、経済的に立ち行かなくなった というのは誰しもが認めていることかと存じます。 > マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?
  残念ながら、上述のとおり、平屋の人たち(厳密には、中二階に人たち。ですが、相当の経済力を持っております)が、相当の給料を支払ってお二階様を持上げ・マツリ上げているのを見ますと......  暗い話になってしまい、誠に申し訳ございません。ご意見等頂戴いただければ幸いでございます。  それでは、よろしくお願い申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 そうなんですか。――ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。――むしろ一階の人間(つまりげんみつには中二階の人びと)が お二階さんたちを支えているということですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  そこで、問題となりますのは、メーカー側も率先して天下り(お二階様)を受け入れている状況にある ということでございます。さらに申しますと、一階の人たちが、進んでお二階の人たちをマツリ上げ(平屋に戻すことなく)、むしろそれを望んでいるということでございます。  「一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか?」  には、愚生は賛成しているのですが、現実を見ますと、それを一階の人たち(中二階の人たち?)が、それをむしろ喜んで受け入れているということでございます。  かような現実を見せ付けられますと、どうしていいのか途方にくれてしまいます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このエコポイント制度としては 一階も二階も仲睦まじく《天地の順行がうまく行った》事例のようですね。  ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~  三にいはく、詔[みことのり]を承[うけたまわり]りてはかならず謹[つつし]め。  君をばすなはち天[あめ]とす、臣[やつこらま]をばすなはち地[つち]とす。  天[あめ]は覆[おお]ひ地は載せて、四つの時順[したが]ひ行はれて、万[よろず]の気[しるし]、通ふことを得[う]。  地[つち]、天[あめ]を覆はんとするときは、すなはち壊[やぶ]るることを致さまくのみ。  ここをもつて、君のたまふときは臣[やつこらま]承[うけたまわ]る、上[かみ]行ふときは下[しも]靡[なび]く。  故[それ]詔[みことのり]を承りてはかならず慎め、謹[つつし]まずはおのづからに敗れなん。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただし  ★ 厳密には、中二階の人たち  ☆ もいるということのようですね。これにはあまり注意を払って来ませんでした。  この際ですから 後学のために引用しておきます。役員の一部のみですが。  ▲  (財)省エネルギーセンター ~~~~~~~~    ・理事長 *** (シャープ(株) 代表取締役 取締役社長) 非常勤    ・副理事長 ***( シャープ 取締役  専務執行役員) 非常勤    ***(ソニーマーケティング(株) 代表取締役社長) 非常勤  ・専務理事 ***(財団法人家電製品協会)常 勤 注1  ・理事 ***((株)東芝 代表執行役副社長) 非常勤     ***( 日立アプライアンス(株)) 取締役社長) 非常勤     ***(パナソニック(株) 代表取締役副社長) 非常勤   ***(三洋電機(株) 執行役員) 非常勤     ***(三菱電機(株) 代表執行役 執行役副社長) 非常勤     ***(JVC・ケンウッド・ホールディングス(株) 取締役) 非常勤   ***(ダイキン工業(株) 常務執行役員) 非常勤 注2   ***(パイオニア(株) 執行役員) 非常勤     ***(パナソニック電工(株) 上席執行役員) 非常勤     ***((株)富士通ゼネラル 経営執行役常務) 非常勤     ***(三菱重工空調システム(株) 取締役社長) 非常勤     ***(社団法人電子情報技術産業協会 専務理事) 非常勤 注3   ***・・・・・・   (平成22年10月9日 現在)   国家公務員出身役員の最終官職   注1 通商産業省大臣官房付(環境庁長官官房審議官)   注2 経済産業省大臣官房付(国土交通省大臣官房審議官)   注3 経済産業省大臣官房付(独立行政法人中小企業基盤整備機構理事)   * 理事の一部までです。評議員・賛助会員は省きました。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《天[あめ]は覆[おお]ひ地[つち]は載せて》ですとか 《上[かみ]行ふときは下[しも]靡[なび]く》という慣行が おかしくなって来た。むしろ正当にもおかしくなった。ただし お二階さんは中二階を相手としてみづからの世界に取り組むことを始めた。というよりは 中二階のごとき境遇にある一階びとが 二階びとに取り入ったのでしょうか。  ううーん。考えてまいりますが ひょっとするといわゆる大企業は 準アマテラスつまり準公務員であると自覚しているのでしょうか?  みなさんからもご見解を披露していただきたいですね。  企業や工場を誘致する市町村長および議会は これも中二階になっていましょうか? そういう位置づけをみづからがしていましょうか?

bragelonne
質問者

補足

 おぎないます。ただし中間報告です。  そもそも現在に到っては アマテラスお二階さん自体が すでに市民政府として成り立っています。言いかえると 建て前としては《 S (主導)- A (従属)》連関という民主制が築かれました。アマテラスお二階さんは みな公僕です。  この建て前をそのまま実現させて行くということに尽きると言ってもよいかと考えます。  ということは 《 S - A 》連関の全体として・つまり昔からの国家としてそれぞれのムラ(市町村)が共同しておこなうことと その必要がなくムラムラで自由におこなうこととを区別していけばよい。こう考えられます。  そこでいま現在において見方が分かれるのは 安全保障であるようです。  国家として自己防衛するのか ムラとして(およびムラの連合体として)安全を図るのかに分かれると思います。微妙な違いになるでしょうけれど 考え方はかなり違っているかとも思います。  ムラムラの連合体は おそらくすでに今の国家を超えているであろうからです。そしてそれは まさに中二階の役を演じる企業のあり方にもかかわるように思われます。  多国籍企業もしくは超国籍企業のばあいは元よりですし 中小企業であっても貿易をする場合には国家を超えて ムラとムラとのつながりにかかわっているはずです。自治体と企業体との連携がそこでは成されてしかるべきだと考えられます。  そしてそのとき 国家が介入して来なければならないという事由はあまりないように思います。  だとすれば 中二階の企業らは こんどは一階のために・一階のムラや人びとと連帯して行動を起こすと考えて不都合はあまりないように思われます。  いまお二階さんと組んでいるのは 目先の自己の利益のためでもあるでしょうが 去りゆく勢力へのささやかな心遣いの現われであるようにも思われます。  人びとはたしかにムラ(市町村長および議会)を自分たちの意志(総意)の元に置き そこに企業をも《巻き込んで》 共同自治および経済の安定成長を図る必要があると考えます。そういったムラどうしの連携・連帯を世界的に広げて行かねばならないように考えます。  例によって すっ飛びの議論です。

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     アマテラスお二階さんは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すべし。  いわゆる地域主権について問うものです。  ムラ=市町村 の主体性を発揮する時代へと移行しましょうか?  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずだ。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人 この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前がある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. 大政奉還のもんだいは 《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制としてのマのあり方を問う。  6-1. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイをめぐる正し方 こういった問題である。  6-2. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  6-3. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは 《 S (大政主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-4. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろ理念に合わせたものなのではないか?  6-5. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-6. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。  6-7. つまりそれが アマテラス科学語およびアマテラス人格語であるが これは アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。つまりその神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-8. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象である。  6-9. ゆえにアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。  6-10. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとする反措定に対する反措定であるから 綜合であり人間のふつうの存在(知性)の肯定であると考えてよいのではないか?   6-11. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマチガイからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。(かな?)

  • ことばで権力を倒せるか?

     (あ)  昔むかしの話から始めます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままなナゾとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。  やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。    このマボロシによって人びとを感化し     世の中を束ね寄せる。    そうしてみせる。    そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり    世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。  と踏んだ。  (い)  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとうその根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。《くにのいえ》と言う。家というからには 二階建てである。  二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。  (う)  《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人にはその発言(自己表現)にもつねに 本音と建前がある。  あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  (え)  広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。  すなわちむろんこの問題をあつかうのだ。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》逆立連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。  おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  (お)  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。  問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。  ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。  つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   (か)  マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての――二階から一階への――大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。    時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。  添削をどうぞ。

  • 世界のどんでん返しは われらが日本から

     (あ)  昔むかしの話から始めます。  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見ました。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このマボロシをそのままナゾとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は マボロシに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。  やがて修行の甲斐あって いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このマボロシには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。    このマボロシによって人びとを感化し     世の中を束ね寄せる。    そうしてみせる。    そうすれば 《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり    世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。  と踏んだ。  (い)  このヨセ人なるアマテラス種族が 社会のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき スサノヲらはとうとうその根競べに負けて  《くにゆづり》をした。  イリ知性なるスサノヲ市民の村々におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス公民 ‐ スサノヲ市民》なる連関制の完成である。  《くにのいへ》と言う。家というからには 二階建てである。  二階のアマテラスなるアタマで立つなら その連関制は 逆立ちしている。  (う)  《ひかり もしくは まぼろし》と現実の大地とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言(自己表現)にもつねに 本音と建前が出て来る。  あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  (え)  広くマ(間・間合い)が 人びとそれぞれにおけるそういった心的および社会的な齟齬を容れた《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ている。  すなわち むろん この問題が問題なのだ。ここでは     《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》逆立連関制  としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方でありそこに起こるマ‐チガヒとその正し方の問題です。  おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか? トヨス? モリトモ?  (お)  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。  問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A 圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは ヨセ人なるすぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。イデアは 何ものかを指し示すための指=シルシである。  ヨセ人は 指を・指そのものを見ている。このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。テーゼは アンチテーゼに社会のイニシアティヴをゆづった。  つまりそれが アマテラス普遍語の恣意的な用法としてのアマテラス語お二階方言という言語類型でしょう。それは 普遍語として無謬性の神話に包まれているのですが その指先を見ようとしないとなれば 必然的にと言っていいと思われるごとく二枚舌現象が生じる。あやまつは 人のつねではあるのですが。・・・モリトモは どっちが方言なのか?  そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は すでに有る或る反措定に対する反措定ですから 綜合であり 人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   (か)  マチガヒからのマの回復。つまり 市民主権・住民自治の実現としての――二階から一階への――大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。    時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また経 済的にも立ち行かない情況を背負っている状態となった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは 広く大きく 国家のアウフヘーベンとして世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。ムスリムの中の一部に国家に対抗するような暴走が起きて来た。・・・うんぬん。うんぬん。  添削をどうぞ。

  • 国家のアウフヘーベンを!――いまでしょ。 

     1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人≫ この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよ その《いと高き者》に似て来たとき――きわめて人間的な人間になったとき――周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったときスサノヲらはとうとう根競べに負けて 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがムラムラでおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》連関制の完成である。くにのいへと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前とがある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. さて 大政奉還――国家のアウフヘーベン――のもんだい。  6-1. 大政奉還の問題は    《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制  としてのマのあり方を問う。  6-2. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガヒをめぐるその正し方 こういった問題である。  6-3. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか?  6-4. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは    《 S (大政主権)- A (従属)》の連関  だったものが A圏主導の《 A主導 - S 従属》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-5. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろただ理念に合わせただけのものではないか?  6-6. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-7. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。お二階へのアマアガリをおこなった。  6-8. つまりそれが アマテラス普遍語(つまり科学語および人格語)であるが これは実際には アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。クウキである。つまりそのクウキとしての神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-9. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところのダブル・スタンダード現象である。  6-10. ゆえに普遍語をよそおうところのアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。アマテラス科学語は資料等において部分的にしか表に出さない。アマテラス人格語は ウラとオモテとを使い分ける。  6-11. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとするアマテラス神話なる反措定に対するための反措定であるから 肯定的な綜合であり 人間のふつうの存在(知性)の復権(ルネサンス)であると考えてよいのではないか?   6-12. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)主導‐ S (スサノヲ)従属》連関制としてのマチガヒからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。ウラで何をやっているか分からないばかりである。そして 経済・財政的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公民の無謬性なる神話がくづれた。D.トランプ現象?  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。――かな?

  • アマテラス公民なるお二階さん 大政奉還しなさい

     アマテラス公民なるお二階さん 一階なる主権の存するスサノヲ市民社会に大政奉還しなさい。  こう合唱してゆくときではないか?  あのトランプも言ってたぢゃん。  世界各国についても 人類史における社会形態の〔変遷の〕歴史としてまったく同じ問題だと考えますが いかがでしょうか。

  • ヨリ・イリ・ヨセなる知性の区分からインタムライズム

     1. 世界におけるおのれの位置づけによって 仕分ける。      ヨリ(憑り):世界と未分化なる原始心性:アニミズム・シャーマニズム           前(プロト)歴史知性    イリ(入り):時間的存在なるわれを自覚して世界の内に入った:           歴史知性;《世界‐内‐存在》    ヨセ(寄せ):時間を超えたと《さとった》ととなえ世界の経営にあたろうとする:           ヨリ心性もイリ知性をも寄せてたばねる:           《超歴史知性》;《世界‐外‐存在》  2. ひとは みな あやまち得るスサノヲ人間語をしゃべるスサノヲ市民である。ヨリ原始心性もイリ歴史知性もヨセ超歴史知性も 同じくである。  3. ただし このスサノヲ人間語の内に じつは人間の普遍的な特質もやどると見られている。一般に《人間としての互いのカカハリ(関係性・社会性)》である。マジハリは無くても カカハリの絶無な人はいない。  4. スサノヲ市民が暮らす世界にあって 人と社会とその他の世界について誰もが共にそうだと見とめる事柄を人びとは捉えるようになる。これは アマテラス科学語である。ゾーオン・ポリティコン。  5. アマテラス科学語で捉えた人と人との関係についての見方は 理論と成る。人は互いにひとしく自由だ。この自由は互いにまったくひとしい。うんぬん。これは むろんやはり普遍性を表わすものとして アマテラス人格語と呼ぶ。  6. アマテラス科学語およびアマテラス人格語をまとめて アマテラス普遍語と呼ぶ。  7. 一般に――相対的な意味においてだが――あやまち得ざる普遍語として捉えられるアマテラス語は むろんあやまち得るスサノヲ人間語にもとづきそれを練りに練って得たものである。  8. もしくは アマテラス普遍語は スサノヲ市民が用いる言葉である。ぎゃくではない。アマテラス人格語は スサノヲ人間語の内におさまってこそ 活きてはたらく。  9. アマテラス人格語および科学語によって ヨセなるスーパー歴史知性は スサノヲ人間語なる《ヨリ心性およびイリ知性》をおしえたい・みちびきたい・おさめたいと願った。根負けしたスサノヲ市民らは これに《くにゆづり》した。  10. よって 社会は もとは平屋建てであったが 《くにがゆづられた》あとには スサノヲ市民社会なる第一階とそしてアマテラス第二階との二階建て構造と成った。  11. 社会にも神棚をつくって そこに神聖にして侵すべからざるアマテラス公民を住まわせ ときにはこれを祀っていた。    12. 問題は ずばりひと言で言えば こうである。:ひとの用いる言葉は けっきょく誰にとっても《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる総合的にして構造的な言語だということになる。S語だけというわけではないし A語が突出してしまうものでもない。  13. いかに普遍語と言えども 《超・人間語》はない。同じように人間知性に超・歴史知性はない。ヨセなるズーパーメンシュとしてのアマアガリもしくはアマガケリは 非現実的である。社会に 神棚も雲の上もない。  14. 《スサノヲ人間語 ‐ アマテラス普遍語》なる構造言語をしゃべる一人のひと――基本的に言って広義の スサノヲ市民―― この人間が 社会の経営については ムラオサ(市町村長)として当番制において当たるのがよい。学級委員のごとくすべての人が ムラオサの当番になる。  15. また お二階は要らない。それは ムラムラの連携のために事務処理をつかさどる公務員としてはたらくのみ。  16. このムラムラのつながりは 日本だけでやるのもよいが 世界にひろがるなら もっとよい。  このたたき台についてご教授ください。異論については質問者として食い下がりますが ご批判を歓迎します。

  • われらは如何に生きて来たか。世界はどこへ行くのか。

     たたき台をしるします。添削をどうぞ。そして見解をのべてください。              *  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム                   世界との未分化にして一体性。                   寄り憑く状態が つねなるかたち。   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。《世界‐内‐存在》。                   未分化状態を時間(生死)の自覚がやぶった。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階(メタ・イリ)から                  《ヨリ》を束ね(ファッショ) 《イリ》をも                   社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階建て構造にしてその二階から共同自治する社会経営の方式です。マツリは 一階の人びとのお祭り。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共同生活にとって互いの自由をとうとぶ。《時間的なること(存在)》をいつくしみ 限りあるものゆえに互いの意志自由を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(事実認識が 基礎である。排中律や 因果関係の把握などをまもる)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの成果を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 継続性に立つ商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉至高主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉至高主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)に負けたくないから 他人の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りが現われ 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言もが 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も あらためて言えば スサノヲ市民社会( die Susanowoschaft )とアマテラス公民圏( das Amaterasutum )との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。《家》と言うからには 二階建てである。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉至高主義なるガリ勉がさらに徹底してガリ勉至高主義となって 経済合理性のみを追求するというウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は    《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》  としての単一層なる人間像に立つゆえではないか。その思想の側から 出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単一層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。   【スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)- アマテラス公民圏(《 S = A 》人)】構造  だれもが アマテラス公民を志向するのであろうか。つまりは・だから 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては その二階A圏の住人が つねにひっくり返されるウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底志向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て ワルビレズ やってらんねえよと言ったのである。  8. わが日本の歴史にあっては 次のように見ることを仮説としています。    ヨリなる原始心性:縄文人      イリなる歴史知性:弥生人から始まって ようやくその時代の             終わり・つまりはそして古墳時代の始まりに             あたる300年ごろからを当てる。             これは やまとの三輪市政であると見る。             崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコトに始まる。    ヨセなるスーパー歴史知性:400年ごろより。             河内の応神ホムダ《ワケ》とその母・神功オキナガ             《タラシ》ヒメの登場による。             ・・・  つまり 天皇氏には イリ系とワケ系(=タラシ系)とのふたつの血筋と思想としての筋があると見られます。

  • われわれは どこへ行くか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                    時間的存在の自覚。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                 《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                  社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て やってらんねえよと言った。

  • われわれは どこへ行くのか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。              *  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム                   世界との未分化なる一体性。   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                   時間的存在の自覚。                   《世界‐内‐存在》。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:世界の第二階から                  《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                   社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階建て構造にしてその二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが共生生活にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉至高主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉至高主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も あらためて言えば スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉至高主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉至高主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て ワルビレズ やってらんねえよと言った。  8. わが日本の歴史にあっては 次のように見ることを仮説としています。    ヨリなる原始心性:縄文人      イリなる歴史知性:弥生人から始まって ようやくその時代の              終わり・つまりはそして古墳時代の始まりに              あたる300年ごろからを当てる。                これは やまとの三輪市政であると見る。              崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコトに始まる。    ヨセなるスーパー歴史知性:400年ごろより。              河内の応神ホムダワケとその母・神功オキナガ              タラシヒメの登場による。              ・・・

  • 世界はわれわれが どこへ行こうとしているのか?

     世界についての展望を問います。  これまでの経過のみによって表わそうとした文章ですが それを たたき台とします。  添削をどうぞ。              *  1. 《知性》のあり方についての分類から始めます。    -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:世界への寄り。                  アニミスム&シャーマニスム                  世界との未分化なる一体性。   0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界の内への入り。                  時間的存在の自覚。 《世界‐内‐存在》。   +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:二階から世界を寄せる。                  《ヨリ》を束ね 《イリ》をも                   社会力学上(政治的に) 寄せる。    2. なぜ 最後にヨセが出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言います)。これは 宗教(まつりごと)の始まりです。  2-1. マツリゴトとは 平屋建てだった市民の社会を二階建て構造にしてその二階から共同自治する社会経営の方式です。  3. イリなる歴史知性は 世界にあってわが生活すなわちわれらが生活共同にとって互いの自由をとうとぶ。そのときには 互いの意志疎通を重んじる。民主制である。  3-1. それには 《経験合理性》がそれとして とうとばれる。(排中律や 因果関係の把握など)。  3-2. 特に経済生活では たとえば少ない費用で多くの収益を得ることを目指す。これは 勤勉と呼ばれる。  3-3. 経済活動にあたっても 勤勉なるイリ歴史知性は 倫理の側面を重んじる。ふつうにまじめに生きようとしており いわゆる人格の陶冶につとめ 商業道徳をおもんじるようになる。  4. ヨセなるスーパー歴史知性は イリ歴史知性と同じくこの勤勉志向を やはり経済的にも倫理的にも問い求め さらには言わば徹底して目指すようになる。かんたんに言って ガリ勉である。勤勉至高主義となる。  4-1. もともと優秀であって さらに優秀であることに価値を置く生き方なのであると思われる。    5. ちなみにここで 人びとのふつうの勤勉にもとづく生活においては あやまちうるスサノヲ人間語をしゃべると言える。その基礎において 合理性を問い求めている。  5-1. 他方 勤勉至高主義を志向するガリ勉知性にあっては あたかもあやまち得ない普遍性を問い求めて行く。たぶん 他人(ひと)の上に立ちたいからだと思われる。  5-2. これを 科学および倫理にかんするアマテラス普遍語として獲得するようになる。アマテラス科学語とアマテラス人格語と。  5-3. 学力優秀で品行方正なる優れた人間が出て アマテラス普遍語をよく駆使するようになるなら 自分からか周りの工作によってか すでに神のごとくいかなるものの下にも立つまいと誓うようになるらしい。  その存在じたいが 侵すべからざる神聖さを帯びたと見なされるように自分をも周りをもそして人びとをも寄せつつ おしえ導くようになる。  6. 人びとのしゃべるコトバは スサノヲ人間語とアマテラス普遍語との二重構造になった。(やがては アマテラス普遍語にも 片寄りがあり 都合のよい部分で普遍的な内容を示すだけのアマテラス方言も 使われるようになった)。  6-1. そうして社会も あらためて言えば スサノヲ市民社会とアマテラス公民圏との二階建て構造を採った。国家と呼ばれる。    6-2. もっとも現代ではすでに 主権在民とうたわれており アマテラス公民は 公僕であり スサノヲ市民のために社会を経営する。  7. さらにひとつの問題は 世界の経済活動において 勤勉至高主義なるガリ勉が さらに徹底してガリ勉至高主義となって 経済合理性のみを追求するウゴキである。  7-1. たぶんそれは 人間観として 個人は《スサノヲ( S )市民=アマテラス( A )公民》としての単層なる人間像に立つ人びとの側から 初めには出て来たものと思われる。日本人は 《 S - A 二層連関構造》なる個人ではないかと考えられる。  7-2. 言いかえると 《 S = A なる単層》としての人間観に立つ人びと・つまりは一般に欧米の人びとの社会は 次のような二階建て構造なのだと考えられる。  [スサノヲ市民社会(《 S = A 》人)-アマテラス公民圏(《 S = A 》人)]  つまりは 《 S 圏 ‐ A 圏》の二階建ては つねにひっくり返るウゴキ( revolution )を秘めている。ひとりの個人が《イリ歴史知性=ヨセ超歴史知性》なる心的現象を示す人間像であるように見られる。《万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnis.》。  7-3. そこで特には経済基礎において ガリ勉主義としての論理徹底指向なる合理性がグローバリズムとなって世界の隅々をも席巻しつつある。  7-4. ニートは このようなメーキャップをした世界の顔を見て ワルビレズ やってらんねえよと言った。  8. なおわが日本の歴史にあっては 次のように見ることを仮説としています。    ヨリなる原始心性:縄文人      イリなる歴史知性:弥生人から始まって ようやくその時代の              終わり・つまりはそして古墳時代の始まりに              あたる300年ごろからを当てる。                これは やまとの三輪市政であると見る。              崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコトに始まる。    ヨセなるスーパー歴史知性:400年ごろより。              河内の応神ホムダワケとその母・神功オキナガ              タラシヒメの登場による。              ・・・