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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人は 論理思考をそなえている。)

日本人の論理思考と社会秩序

このQ&Aのポイント
  • 日本人は論理思考によって時制の一致を発達させた。
  • 日本人のおとなしさは社会に論理的な秩序を求めるため。
  • 和の心は市民の交通思想から生まれ、国家形成に影響を与えた。

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  • freulein
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回答No.6

bragelonne様は「論理的であることが素敵だ」とのお考えを強くお持ちのようです。しかし論理的であることが「素敵である理由を論理的に示す」ことは多分困難ではないでしょうか。「論理的であることは好都合である場合に限る」のだと小生は考えます。いっそう好都合であるならば論理的でなくても構わない傾向もあるかも知れませんね。この趣旨から小生の考えをお示しします。的外れかもしれませんがお許し下さい。 言葉・文章が厳密であることが望ましい社会とは、リーダーの命令とその聞き取り易さがその群れ全体の行動・利害を大きく決定する社会、すなわち狩猟・遊牧民社会でありましょう。そのような歴史を持つ国々の言葉は格変化・時制などにうるさい傾向が認められます。一方土着農耕民社会では日常的に重要なテーマ指導者の命令よりも太陽・水であり、租税・徴用など指導者からの命令や指導者への報告はむしろ論理的に扱わないことが有利となる局面が多そうです。このような社会では同音異議語・時制の不確かさ・活用の多様な方言化などが発達するのではないでしょうか。 旧日本軍では通常の日本語が軍事に不向きであることに気付いており、「軍隊日本語」なるものを兵士に使わせることに腐心したそうです。戦記物などの軍人用語のあれです。また今日でも日本語教育は「感情の豊かな表現」が主眼であるらしく「論理や事実の明瞭な表現」には大きな力が払われていないようです。テレビでも「第一グループは○○○・・・・です」など主語と述語の間に地名を30も入れて平気です。主語・述語を先に述べてから地名を入れる工夫をする積りは全くないようです。言い落しのない文章が言い訳として大切であり、聞き取り易い文章であることを捨てているようです。自然科学系の論文などではおおいに明瞭な文章に出会えます。日本人とか日本語のせいではなさそうです。論理使用の厳密さは一階住民の産業構造で大きく定まってきたということになりましょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ふろいらいんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづ  ★ bragelonne様は「論理的であることが素敵だ」とのお考えを強くお持ちのようです。  ☆ にかんしてですが ちょうどいま【Q:信仰は どんな得があるか?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6596814.html  という質問をあげています。コギト(われ考える)の思考――そこでは 一般に論理思考が骨格となる――よりも ヒラメキ(直感および直観)のほうが言わば次元が高くて大事だという話を取り上げています。たとえば 次のような図式でそのことを捉えています。  ○ (ヒラメキとは 身と心のどういう動きか)~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の場):カミ   _______________________   インスピレーション=ロゴス(β):異言(いげん)      中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ             インスピレーション=ロゴス(γ):預言(よげん)      本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ(理性)=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性に拠る論理  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このようにたぶん前提としてのご指摘じたいは 的外れだと思いますが それは揶揄した物言いではなく 本文はまじめなご回答だと受け取りましたので しっかりとお応えしてまいります。    と言っても けっきょく見解は互いに一致していると言っていいほどではあります。  ★ 自然科学系の論文などではおおいに明瞭な文章に出会えます。日本人とか日本語のせいではなさそうです。論理使用の厳密さは一階住民の産業構造で大きく定まってきたということになりましょうか。  ☆ つまりはその素地が――潜在的な表現の能力が―― もとからあった。そのことをちょっと想い起こし頭の隅においておくとよいがなぁと思ったものですから この質問を挙げました。  もっと細かく言いますと 《時制の一致》が日本文にはないという質問がいまほかに挙げられていたものですから それにちなんで あぁ見落としてはいけない事実があったなぁと想い起こしたのでさっそく設問したという次第です。  ですからあとは わたくしも 日常の生活が互いに見慣れた顔ばかりのところでは 論理を追い求める表現はあまり要らなくなったのではないかと趣旨説明で触れましたように  ★ 一方土着農耕民社会では日常的に重要なテーマ指導者の命令よりも太陽・水であり、租税・徴用など指導者からの命令や指導者への報告はむしろ論理的に扱わないことが有利となる局面が多そうです。このような社会では同音異義語・時制の不確かさ・活用の多様な方言化などが発達するのではないでしょうか。  ☆ といったところではないかとやはり思われます。  ただ少し思ったことは 次のご指摘では いわば情感の共同性が自然に養われて来るのでは必ずしもなく 人為的におしえるようになったのか でした。  ★ また今日でも日本語教育は「感情の豊かな表現」が主眼であるらしく「論理や事実の明瞭な表現」には大きな力が払われていないようです。  ☆ ですから わたしなりに結論めいたことをしるせば もし《ヒラメキ(直感および直観)》がイメージないし情感・感性やそして言葉としても互いに大事にされ理解されているのならば あとは さらにその内容をいかに論理的にほかの言語を母語とするような誰にも分かる表現に置きかえるか その度合いは 情況などに応じて必要なだけ対処すればよい。  あぁ やってはいけない《自分の田んぼへの水の引き過ぎ》をやらかしました。とふり返って思ったのですが 生来の厚顔無恥から書き直しはしないことにしました。あしからず。  でもこれに懲りずまたご回答をお寄せくださいませ。

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その他の回答 (103)

回答No.94

バラバラの句が動的に纏まる仕組みの御蔭で、 『特定の個人による「本歌取り」に留まらず、 本歌取り元の作品の歌人による直接的な介入もが、 「連歌」によって許されています』ので、 其の時には、『関係詞の「叙述用法」』と違い、 『「時制の一致」への更に連鎖的な一致の反芻』を警戒せずに済んでいる筈です。 『「時制」を知り<せ>ば、連ねざら<まし>を…』 と古来の方々は考えていなかったでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  わたしが神秘的という言葉を使うのは ひとつにですが 文章を読んで分からない けれどもわたしの見落としやら理解不足があるように感じるということを言おうとする場合です。  今回理解がとどかないと思うところは:  ★ ~~~  『特定の個人による「本歌取り」に留まらず、  本歌取り元の作品の歌人による直接的な介入もが、  「連歌」によって許されています』  ~~~~~  ☆ この内容がうまく把握できません。  ★ バラバラの句が動的に纏まる仕組み  ☆ というのは あくまでひとりの話し手(作者)による文についてわたしは言っています。  ★ 「本歌取り」に留まらず・・・直接的な介入・・・連歌  ☆ という場合には 一人の作者ではなくなっているのではないですか?   本歌取りのその歌だけに絞れば 一人の作者です。それ以外の場合には 構文としての主題からははづれます。論理思考うんぬんは 一つひとつの文から始まります。ひとまとまりの思想についてももちろん言っているのですが いまは言語の使用規則としてのような文法――今は構文――についてのそれです。  連歌という表現のかたちは 問題が別と考えるのですが どこか見落としていますか?  ★ 『「時制」を知り<せ>ば、連ねざら<まし>を…』 / と古来の方々は考えていなかったでしょう。  ☆ つまり 文法にこだわらずに(文法ということをまだ知らずに) 表出および自己表現をおこなって行ったということだとわたしも思います。  今回はよく分かりません。

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回答No.93

因みに、次の様な説明もが可能だ、と思われますので、 夜分に畏れ入りますが、追記を致します。 そもそも、『関係詞の「叙述用法」』は直前の単語を参照していますので、恰も「連歌」に似ている様にも見えるのですが、その「叙述用法」にも、「時制の一致」の仕組みが適用されますので、『「大過去」よりも前の更に「昔」』という様な配慮を盛り込み続けられないせいで、関係詞節の中の単語を先行詞に選んで別の関係詞節を連ねられないでしょう。 それに対しまして、最後で自然に纏まってくれ得る展開に期待する「成り行き任せ」の発想の下では、優先順位制御による拘束力が比較的に弱い御蔭で、「本歌取り」の際にも、 『「引用先の文章の時制との一致」への配慮』が求められませんね。 つまり、松尾芭蕉翁が残された御意見の通りに、 『「造化」に従ひ「造化」に帰』りましたら、自ずから展開が進んでいく、 という見方が、日本では古来から受け継がれてきたのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 次の文を分析してみます。  ★ ~~~~~  【 d 】 そもそも、  【 E 】 『関係詞の「叙述用法」』‐ハ  【 F 】 【 f-1 】 直前の単語を参照しています‐ノデ、【 f-2 】 恰も「連歌」に似ている様にも見えるのです‐ガ、  【 G 】 【 g-1 】 その「叙述用法」にも、「時制の一致」の仕組みが適用されます‐ノデ、 【 g-2 】 『「大過去」よりも前の更に「昔」』という様な配慮を盛り込み続けられない‐セイデ、【 g-3 】 関係詞節の中の単語を先行詞に選んで別の関係詞節を連ねられないでしょう。  ~~~~~~~~  ☆ いろんなふうに分析できる。というのが 非線形の構文の特徴だと考えます。  (1) A-ハ B-ガ C-ナリ/ C―スル。の構文として見るなら:    【 E 】‐ハ 【 F 】‐ガ 【 G 】‐ナリ。  というかたちである。【 F 】‐ガのガは 逆説の接続詞だと言われるわけですが そういう見方に限られるとは限らないわけです。  (2) 【 E 】‐ハのハ格活用は みづからがみちびき提示する主題である【 E 】をこの文の中心となる第一の主題として取り立てる役目を担っている。(話し手がそう担わせた)。  したがって 一応の効力としては 文の最後までその【 E 】の中心主題性が有効である。その意味は この文で論述が来るとその論述としての答えに対応する問いが 主題としてこの【 E 】でありつづけることを示している。  すなわち【 E 】‐ハは 【 f-1 】の《参照しています》や【 f-2 】の《見えるのです》とに対応するだけではなく その【 F 】のふたつの論述を乗りこえてさらに【 G 】の論述である《別の関係詞節を連ねられない〔ものである〕でしょう》とも対応する力を持っている。  これは 日本語の構文が 柔構造であることを物語る。我がままであるというほどに自由である。  (3) ちなみにという見方になりますが そのように柔構造でありながら しかも論理的な仕組みを形作っていないとも限らない。   すなわち 【 f-1 】+【 f-2 】としての従属文である【 F 】は そして【 G 】節の中の【 g-1 】+【 g-2 】のひとまとまりの従属文は ともにそれぞれあたかも【 E 】を先行詞とする関係節であるかに捉えても不思議ではない。英文の which や that といった関係代名詞が省かれているだけである。  (4) ノデ / セイデ は そして時には ガも 一般に接続詞とされる《文条件》(文と文とを条件づける条件詞)である。  ソモソモは あたかも文の外から話し手によって評言を与えるというかたちである。これは 一般に間投詞と呼ばれる《超文条件》である。文の外から文の中身を条件づけるゆえ。  ★ 松尾芭蕉翁が残された御意見:『「造化」に従ひ「造化」に帰れ』  ☆ これは いろんな条件を必要としませんか?  (5) 《造化》と言ってしまえば 《創造主》という装置で話が行なわれていると言わねばなりません。《絶対》観が問われるでしょう。  (6) 初めの造化は 被造物のことを言うのでしょうか? あとの造化は むしろ創造主ないし非経験=非思考の場を指し示していると言うべきでしょうか?  作られたもの・見えるもののありさまを見て知って それに従いつつ しかもその奥の何ものかについて 為し得れば畏れを持って 臨めと。  (7) さらにただし そのように造化に従い造化に帰るというとき そのように行なうのは人間であり その人間は自然に従うのであるにもかかわらず むしろおのれの意志によって努めてそうするという要素が どうしても 抜けきらない。ここでも人為(文化)と自然(非文化)の問題が横たわっていると見られます。  どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  すでに参考資料としてかかげたものの中から 次を引きます。日本語が文として生成するその初めのあり様を想像したものです。  ★ 最後で自然に纏まってくれ得る展開に期待する「成り行き任せ」の発想  ☆ とは微妙に違うということを示したい。前回のお応えに述べたとおり 話し手の意志による文の統括という側面にも思いを致すべきだと考えます。成り行き任せというのは おのれの主観の中から その思いに任せて主題を次から次へと表わし出して来るその側面に当てはまるでしょうね。  ☆☆(【Q:日本語とはどういう言語か。】趣旨説明) ~~~   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6422669.html  奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが    HA.....  と声を発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。   HA.....SI。  というふうにさらに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態をみづから 取り立てようとしたことになる。   HASI . / はし。  こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。   ――愛(は)し。  つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相の子音/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で    ’u = う。     ’u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。  と作って これを添えれば    うる‐はし。(心愛し・麗しい)  とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。  ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。  そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを合成すれば 《やま‐と》のかたちにつくった。  文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり    やまと(山‐処)‐は うるはし。  人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。    やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。  と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて   やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。  と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。  ~~~~~~~~~~  ☆ 《うるはし》という初めに提示されていた主題は けっきょく文と成った姿においては 論述――論述も 主題であることに変わりない――を担うことになった。  いづれにしても 心の思いを無造作に一つひとつ主題として提示していくおしゃべり方式から成ったものであろう。  しかもこのとき ことばによる表現が 自己表現として文である限りでは 何らかの思想(意志表示)が伴なわれており それによって文を締めくくるというのが 原則である。  上の文例は うるはしの《し》が 存続法(終止形)において断定法をになっている。動態用言(動詞)とともに論述をになう・この場合は 状態用言(形容詞)であり その存続法に活用している。活用させているのは もちろん話し手である。  最初から終わりまで《成り行き任せ》なのではないということ。これを問うています。  ちなみに 語彙の選択あるいは いわゆる修辞法(レトリック)によって文表現を飾ることなどなども 話し手の意志による表現の方法論であり技術であると言えるかも知れません。  ★ 『「造化」に従ひ「造化」に帰』りましたら、自ずから展開が進んでいく  ☆ という命題には 人間の主観における自然という側面とその基礎の上に人為的文化的に意志行為をおこなうという側面と ふたつの要因があると見ておかねばならないと考えます。

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回答No.92

有り難う御座います。更に面白みが増して参りました。 前回の内容への御指摘を踏まえまして申し上げます。 其処で私が申し上げたのは「人間の振る舞い」の事では御座いません。 集合の動向が纏まる際に、前提条件の枠組みの確保が必要になっていない、 という典型的な事例を御覧になって頂きたい、と願いまして、 私はそれ等のURLを紹介させて頂きました。 つまり、たとえ頑丈な鞄の様な「部品群」が先に準備されていませんでしても、 「名詞+助詞」やら「連体形・連用形の活用」やらによって、 後方の直ぐ近くに有る単語(敢えて直後とは申しませんでした。)との繋がりが維持されていましたら、必ずしも意味が崩れはせず、風呂敷が柔らかく変形してくれる様に、文末で纏まっていくのです。 確かに鳥の群れの事例への御意見には食い違いが含まれていましたので、 両方を並べての紹介を迷いましたが、 不都合な事例を省く卑怯な遣り方を避けたい、と思いまして、 それ等の両者を並べてみました。 (但し、勿論乍ら、魚群の挙動の方に重要なポイントが御座いまして、 善悪の評価を抜きにして申しますと、「会衆」の様相に似ている、と言えましょう。)

bragelonne
質問者

お礼

 そうして主題を提示する格活用のほうは 初めにはたとえばハ格が中心主題を提示しますという役目を持って言い出されたのが 今度は線形論理においてはほかの主題との意味連関を――この場合は おのづと と言ってもよいでしょうが――持つようになる。結果的にそうなる。  あるいはまた 主題どうしのそのような連絡が出来上がるのは むろん論述における一般に用言の語との意味連関からです。論述の用言の意味に それぞれの主題の意味は収れんしていきます。     〔論述の用言の〕意味‐ニ→ 収れんして行く。   〔それぞれの主題の〕意味‐ハ→ 収れんして行く。  まとめると:   格活用: 文においてそれぞれの主題に添えられる主題提示格        ・ハ格:その文の中心主題として提示しますよという気分。        ・ガ格:中心主題にかかわる主題を取り出しましたという気分。        ・ヲ格:提示したい主題と何かが 全面的に・立体的に対峙         していることを表わしたい気分。        ・ニ格:ヲ格の内 その主題を一点のもとに捉えた形に表わし         たい気分。広く奥深いものであってもそれをまとまった一つ         のものごととして捉えるかたち。        * (例)大空ヲ行く雲。/ 大空ニ浮かぶ雲。   法活用: 論述に用いられる用言をどういう気分(=法)で話し手が表わすか        ・その用言(動詞)を話し手がその表わすべき気分の不定のままに        示す活用形⇒不定法(未然形)(英語の不定詞)。        ・その用言を概念として扱う気分のときには⇒概念法(連用形)。        ・話し手がその主観を表明するということの限りで その主観の        内容を 聞き手に要請する気分の場合⇒命令法(命令形)。        ・・・  すなわち  ☆☆ ~~~~    ☆ 基本的に言って 自由意志を持つ人間の場合には その思想の表明が   ★ 文末で纏まっていくのです。   ☆ ではなくて    ○ 文末で〔もしくは文の論述において〕話し手がその思想を纏めるのです。   ☆ となります。  ~~~~~~~  ★ 〔必ずしも意味が崩れはせず、〕風呂敷が柔らかく変形してくれる様に、〔文末で纏まっていくのです〕。  ☆ 《風呂敷》は ですから主題に添えられる格活用と論述の用言をいじくって形作る法活用とによってその役目は担われていると言ってよいはずです。つまり風呂敷を 話し手がしかるべき形に変形させ活用するということになります。その結果 意味連絡をも文末で(もしくは論述において)話し手がまとめるということです。  文が文として成り立つということは 話し手がその構文(文を構えること)を人為的に意志によって成り立たせるということを意味します。これが 文化です。言葉としての《文》化であり そこからさまざまな文化――あたまを耕す(田返す)こととその成果――が生成し発展します。  《さかなの群れ》とは わけが違います。  * 《格 case 》とは 箱( case )というから《風呂敷》に譬えられるかも知れませんが もともとは 《そこに落ちた。落ち込むかたち》のことです。文の中で主題どうしのつながりを格子に譬えると その格子のつなぎ目の一つひとつに《落ち込んだ》そのかたちを言います。《中心主題として ほかの主題たちとつながって行きますよ》というその落ち込みが ハ格です。話し手が 落ち込ませたものなわけです。  

bragelonne
質問者

補足

 ご回答をありがとうございます。  ですが 次の表明はいったい それではいまの主題をどういう条件(情況?)のもとに捉えて考えようとしているのか? これが分からなくなります。  ★ 其処で私が申し上げたのは「人間の振る舞い」の事では御座いません。  けれども  ★ 集合の動向が纏まる際に、前提条件の枠組みの確保が必要になっていない、 / という典型的な事例  ☆ これが自然界のことがらだとしても そこに見られるという法則のようなものを 人間とその社会にも当てはめて捉えようとしているのではないのですか?  ★ 勿論乍ら、魚群の挙動の方に重要なポイントが御座いまして、 / 善悪の評価を抜きにして申しますと、「会衆」の様相に似ている、と言えましょう。  ☆ この《会衆》とは どういう意味でしょう? 人間の ではないのですか?  それとも 人間のではあるが 個々の人間の振る舞いではなく 一定の集団をひとまとめにして飽くまでそのひとまとまりとしての動きを問題にしているのだ。――こういうことですか?  それは おかしい。一人ひとりの人間の行動があって集団の動きも成り立つものです。魚と人間とでは わけが違う。本能によって行動する動物は その行動にほとんど選択の余地がないはずです。人間の場合は たとえ選択の余地を――社会力学の関係から 上司やお二階さんの意向(つまり空気)に従わざるを得ないかたちにおいて――無くされていたとしても それは あぁ選択肢もない状態にされている この自由の封鎖は何なんだと考えるほうの余地をつねに残しています。  つまり  ★( a ) ~~~~~~~  つまり、たとえ頑丈な鞄の様な「部品群」が先に準備されていませんでしても、  「名詞+助詞」やら「連体形・連用形の活用」やらによって、  後方の直ぐ近くに有る単語(敢えて直後とは申しませんでした。)との繋がりが維持されていましたら、必ずしも意味が崩れはせず、風呂敷が柔らかく変形してくれる様に、文末で纏まっていくのです。  ~~~~~~~~~  ☆ 基本的に言って 自由意志を持つ人間の場合には   ★ 文末で纏まっていくのです。  ☆ ではなくて   ○ 文末で〔もしくは 文における論述において〕話し手はその思想を纏めるのです。  ☆ となります。連歌のように その百句なら百句の全体としてたとえ作品だと言っていても必ずしもそこにまとまった思想は無いし 無くてもよいという場合であってさえ 文であるならその論述においてつねに話し手は その意志のもとに 思想をまとめるものです。  それ以外には たとえば自動筆記があったとしても 自動筆記をおこなっているという前提のもとに 論述のまとめを捉えるでしょう。その論述のまとめが 或る種の仕方で夢遊病のごとくであるからまとまっていなくても 自動筆記をおこなったのだという話し手の意志のもとに《まとまらなくてもよいという思想》をまとめたと見なすことになります。  これが 人間とそのおこないです。  ★ 其処で私が申し上げたのは「人間の振る舞い」の事では御座いません。  ☆ というのは ほんとうにそうなのでしょうか? もしそうなら何故上の( a )のような説明がなされるのでしょう?  ★ たとえ頑丈な鞄の様な「部品群」が先に準備されていませんでしても、  ☆ 部品は 語としてどの言語においても同じ性格のものです。《頑丈な鞄》かどうかは 語については 関係ないと見ますが どうでしょう? 《語》としてなら どの言語でも 条件は同じです。語彙がすくない場合があるとしても それとして準備されています。  ★ 「名詞+助詞」やら「連体形・連用形の活用」やらによって、 / 後方の直ぐ近くに有る単語(敢えて直後とは申しませんでした。)との繋がりが維持されていましたら、  ☆ これも 《文における論述において話し手がまとめる》ということと同じです。主題をどのように提示するかということを表わす格活用としてのハ格ガ格などの助詞 あるいは 用言(動詞・形容詞など)を話し手のどのような気分(思想)のもとに表わすのかというそのかたちである法活用としての未然形(不定法)や連用形(概念法)や終止形(存続法)などなど これらの格活用および法活用といったその活用を あくまで話し手がえらんで用います。《用います》は 存続法(終止形)の用法のひとつとして断定法に活用させています。そういう気分( mood =法)を表わすかたちを取ります。  そのように論述において一般に法活用が――最後の最後としての――思想のまとめ方を担うのは どの言語でもまったく同じです。  

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回答No.91

たとえ枠組みやら中枢やらが備わっていませんでしても、 下記のページの事例でも紹介されています通りに、 集合は動的に纏まり得ます。 http://www.geocities.jp/heartland_ayame_4533/complex/fish.html http://www.nature-sugoi.net/topics/t4/page3.html http://blog.goo.ne.jp/show_ito/e/250b530404cd0586dad4c49b85e6a6d2 http://www.cs.tsukuba.ac.jp/H18Syuron/200430163.pdf http://www.cs.tsukuba.ac.jp/H14Syuron/015381.pdf 従いまして、それ等の内容からも窺われます通りに、 必ずしも、枠組み作りやら中心構成やらを、 集合化の過程の途上で優先させなければいけない訳では御座いませんでして、CGによるシュミレーションが明らかにしてくれ得た様な特殊な科学的原理に則っているのだ、と言えましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  素朴に疑問を掲げます。  1. 人間は 鳥や魚と同じ行動をするのか? 人間の社会と 鳥や魚の群れとを同じ現象と見てよいのか?  2. リーダーは 魚にはいないと言っているが 鳥にもいないという説( a )と鳥にはいるという説( b )がある。  ( a ) ▲ (人工生命(1)=第一の資料) ~~~  インスピレーションーー鳥の群は、驚くほど統制の取れた振る舞いをするが、しかし≫一羽一羽の行動はあくまで分散的で、近くの鳥の行動にしか反応していない≪。個々の鳥たちの行動に、近くの鳥の行動に反応する簡単な規則を与えてやれば、鳥の群全体が自然なふるまいを引き起こすのではないか。    『群知能』・・・のメカニズムはまだ解明されていない。  ( b )▼ (浅草文庫亭=第三の資料)~~~  空を飛ぶ≫鳥の群れにはリーダーがいて≪、他の鳥たちは「リーダーについていこう」というプログラムで飛んでいるので群れが成り立っている。  一方、場合によっては何万匹にも及ぶ魚群。そっちにはリーダーがいないんだって。  ~~~~~~~~~~~~  3. では 人間は人間どうしで何故殺し合いをするのか?   4. リーダーがいる・いないを別として どうも《自己組織化》のことを言っているようだ(第四・第五の資料)。   4‐1. それには 生物物理化学の現象と 人間の社会現象との異同を明らかにして話を始めなければならないのではないか? ひとつには 自由意志の問題である。   4‐2. もしたとえ自然の現象に見られる法則が 人間とその社会の現象に当てはまると見た場合 その場合でも では何故 人と人とのあいだに《まなざしをあたかも上からそそぐ側とあたかも下にあってそそがれる側とがある》のか? これを解明しなければ話は始まらないのではないか?   これは ボスザルがいるという行動様式の問題でもあると考えられるかも知れない。(いまこのように動物行動から人間を見るというので 例に出したまでであって そのように動物と人間とを一緒くたに見る見方にわたしは関心がないのですが)。  (聞いた話では ミシェル・フーコの言う《権力現象》とは このまなざしをめぐる上下関係のことであるようですが どうですかね)。   4‐3. もし自己組織化ということが 人間の身体にも当てはまるのであれば おそらくその《組織化》が言うなれば《和》の問題につながっているとは考えられるはずである。そしてその場合にも おそらく社会という構造現象にあっては この和ないし自己組織化という〔まづ取り上げるところの〕心性に 中には さからう向きも出て来るということ そういう問題ではないのか?  これが――もしそうだとしたら―― 社会が一階と二階との二層構造になったという《アマアガリ傾向》の問題だと見られないか?      4‐4. だが この一階から二階へ上がりたがるという心性および現実の行動は 問題の深さを示しているように考えられる。一階のふつうの人間たちのあいだで 《和》を乱す心性および行動があったから それを一段上から治めようという考えが現われたのか それとも 一階〔だけの社会であったときにそ〕の自己組織化の和を どこかのへそ曲がりが わざと壊してやれと思って 壊しつつ上から束ねてやるからだいじょうぶだぜと言って アマアガリをついにモノにしたのか?   4‐5. このアマアガリ・シンドロームは 江上波夫によれば 世界広しと言えども 農耕民からは現われなかった。遊牧騎馬民から出た。と言う。――という問題提起もある。ただしたとえそうだとしても 農耕民もすでに世界史の過程では そのシンドロームに罹ってアマアガリの真似をして来ている。国家を作り上げている。   4‐6. 言いかえると 国家のなかった時代に 人びとは戦争をやらかしたのかどうか。所有という概念の発生 つまり 所有物の多寡ないしそれによる格差はおのづと発生したと考えられるが それによってあたかも自動的にちょっとのへそ曲がりによって 争い・戦いは起こるに到ったか?   4‐7. でもそのけんかは 社会が一階のみであったときには それこそ自己組織化がはたらいて おさまることはおさまったのか? つまり 全体を一段高いところから束ねるという発想(アマアガリ心性)は 農耕民のあいだでは現われなかったのかどうか。  ☆ 以上のような疑問と問いかけに答えることが  ★ 必ずしも、枠組み作りやら中心構成やらを、 / 集合化の過程の途上で優先させなければいけない訳では御座いませんでして、  ☆ の見解には 伴なわれていてしかるべきである。こう考えますが いかがでしょう?  

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回答No.90

「ハ格」を冒頭に据える表現「は」一部の事例であって、 たとえ直接目的語やら間接目的語やらが主語の前に据えられていましょうとも、それが倒置だとは見做されませんよね。 そもそも、日本語の語順の優先順位が固定化されていない理由は、 時制等の階層構造の為の枠組みを拵え得る単語(S+V)の不在です。 特に「連歌」の流れは何処の句の「境目」で区切られましょうとも、 其処からをスタートにする事が可能になっていまして、 リズムが崩れない範囲の裡で、スピンオフの連鎖の様に、枠からはみ出させ得るのです。 因みに、かつて、或る銀行の役員の方が、 欧米語の文章構成の方式を『「鞄」の中に荷物を詰め込む遣り方』に譬え、 そして、日本語の文章構成の方式を、 『荷物群に「風呂敷」の形状を合わせさせる遣り方」に譬えていらっしゃいました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  1. ことばによる表現は 一つひとつの文から成る。  2. 文が おのれの思想ないし意思表示を担う最小の単位である。  3. 文は 主題とそれについての論述とから成る。問いと答えである。  4. この文が集まってさらに一定の思想が表わされた場合そのひとまとまりを 文章という。文章は さらにその中で段落ごとに部分的な思想を形作るが 大きくそれとしての主題とそして論述が述べられるものである。  5. 文章としての主題と論述が明らかに表わされているのであれば 一つひとつの文における主題と論述は 必ずしもそれとして形に成っていなくても かまわない。と見られるに到ったであろう。  6. 求愛という主題をめぐって 一文ごとにそれでも主題を提示する構文(α)があり そうではない文型(ω)も形成されるに到った。   (α) 〔わたし‐ハ〕 きみ‐ガ 好きだ。   (ω) I love you.  7. 《求愛》という主題が 《鞄》であるでしょう。すなわち  ★ 欧米語の文章構成の方式を『「鞄」の中に荷物を詰め込む遣り方』に譬え  ☆ た。《荷物》とは 線形論理で表わされるような意味連絡がそのまま明らかな文成分でしょう。《詰め込み方》が S-V-O の文型です。  8. (α)文例について  ★ 日本語の文章構成の方式を、 / 『荷物群に「風呂敷」の形状を合わせさせる遣り方』に譬えていらっしゃいました。  ☆ という評言をどう当てはめるか迷いますが 大胆にわたしの考えをそのまま述べますと:  (あ) ハ格によって―― 一般に最初に――提示する主題(《わたし‐ハ》)で自己表現を始めます。あるいはつまり 自己表現をこれから始めますという挨拶をも兼ねています。  (い) A-ハ B-ガ C-ナリ/ C-スル。の構文は そのハ格でみちびく中心主題に〔そのときの主観内容として〕関係する第二主題を ガ格でみちびきつつ 提示します:《きみ‐ガ》。  (う) あとは 副次主題を省けば(あるいは もしそれらがなければ) 論述という主題が来ます:《好きだ》。  (え) さらにそのあと 線形論理として伝える(つまり聞き手が把握する)意味連絡を捉えることが起こります。    (α‐1) わたしが好きなの‐ハ 〔それ‐ガ〕 きみだ。    (α‐2) 〔わたし‐ハ〕 わたし‐ガ きみ‐ヲ 好く(愛する)。  (お) 言いかえると 英文例(ω)は (α‐2)の 主題提示の部分(=〔わたし‐ハ〕)を すでにその二人がそこにいるという文脈(情況)にゆだねてしまって表現としては行なわずに あとの残りの部分(=《わたし‐ガ きみ‐ヲ 好く(愛する)。》)だけで文表現をおこなうに到ったかたちである。  (か) ちなみに 二つの基本主題(ハ格とガ格)から ほかの主題格をになう活用格が派生します。ヲ格・ニ格・ノ格 / カラ格・ヘ格・デ(ニテ)格・・・  9. 連歌は その一つひとつの句は 一般に文ではありません。文として完結させていない場合が多いはず。それぞれの未完結の文表現を一つづつ部分的に要素どうしのつながりを持たせながらかたち作りづくって行く。そしてつなげられた一まとまりをひとつの完結した作品とする場合だと見なされる。  それでもそこで一文づつに区切れば 一文ごとには何らかの思想が表わされたと見なすことになる。全体としては おそらくまとまった思想はむしろない。  したがいまして  ★ ~~~~  特に「連歌」の流れは何処の句の「境目」で区切られましょうとも、  其処からをスタートにする事が可能になっていまして、  リズムが崩れない範囲の裡で、スピンオフの連鎖の様に、枠からはみ出させ得るのです。  ~~~~~~  ☆ この評言は 構文ないし文型のもんだいではないと考えられます。別の主題になります。文および文章の表現をつうじて交通するときの場の整備のほうに関わって来ると見ます。  こんなところではないでしょうか。

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回答No.89

下記のページの内容に関する情報の調査の糧の途上に留まっておりますから、 続きの文面の入力が遅延していますが、御容赦を御願い申し上げます。 http://okwave.jp/qa/q6687486.html

bragelonne
質問者

お礼

 分かりました。そういう事情にあることは分かりました。  でもすでに 見通しとしてこれこれの結論を用意してはいるのだがというふうにも示してもらって進みたいとは思います。

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回答No.88

近隣との前後関係の整合性だけが維持されていさえすれば、 語順等の優先順位の制御は、必ずしも必要になりませんね。 だからこそ、たとえ日本語の語順への制限が緩くても、 それで構わないのです。 此の見方が西田幾太郎氏の御意見と同じなのか違うのかにつきましても、現段階では触れずに留めさせて頂きます。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 近隣との前後関係の整合性だけが維持されていさえすれば、  ☆ という事態は 人びとが言語表現のおこなうための場の整備なのではないですかと尋ねています。  ★ 語順等の優先順位の制御は、必ずしも必要になりませんね。  ☆ これは 言語表現じたいにおけるその言語ごとの取り決め(文法)のもんだいです。  《連歌の席にみながそろい すでにその連歌の創作には取り決めがありこれを守る》という《場の整備》と 《そこから一人ひとりが創作をおこなうその表現》とは 別ではないですか? と尋ねています。  どちらにも論理思考はおこなわれるでしょう。  それとも 場の整備 これがいちばんの問題であり これこそがコミュニケーションの中核であり むしろこれがあれば 論理思考による思索内容の饒舌は要らない というご見解でしょうか?  【Q:日本語とはどういう言語か。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6422669.html  ☆☆ (その回答No.4お礼欄) ~~~~~   ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~   Q:《日本語》とかけて何と解く?   A:ととのいました。――しょうゆ。   Q:そのこころは?   A:お肉にかけても美味しい「万能調味料」。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   * つまり さいしょに《こんにちは》と言ってあいさつしたときに そのハ格による主題提示をとおして互いのあいだに世界が世界として 全世界・全宇宙としてマ(間合い)がひろがる。万能調味料。 all-purpose seasoning 。富士山の日本晴れ。   ● 《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》   ○ こんにち‐ハ  〔お天気‐ガ      よろしいようで〕。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この事情により  ★ だからこそ、たとえ日本語の語順への制限が緩くても、/ それで構わないのです。  ☆ と考えます。  ★ 此の見方が西田幾太郎氏の御意見と同じなのか違うのかにつきましても、現段階では触れずに留めさせて頂きます。  ☆ たたき台としてでも まづ結論をと願いたいです。

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回答No.87

冷静な読解をなさっていないので、受け入れ難いのでしょう。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1145986216 因みに、インターネットに単一の中枢が存在させなかったのが 資本主義共同体の軍事目的に起因していた、 という事情は紛れも無く「常識」でして、従来からのアナログ的な「国際電話」と違い、 インターネットへの接続を許している各国政府の機構が邪魔をする場合にもが有り得ますが、 それでも各拠点は中継の「結節点」に過ぎません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF そして、中枢が存在していない故に、それ等の結節点群(ノード)は、 「連歌」への参加の場合と同じく、隣接部位のノードとの関係性の維持だけに拘っていまして、其の円循環(?)的な連鎖の御蔭で、世界中のネットワークの統合が実現しています。 http://patent.astamuse.com/ja/published/JP/No/2009044371/%E8%A6%81%E7%B4%84 従いまして、たとえ英米語の間接話法の様な階層的枠組みを先に準備させておかなくとも、 隣接部位の論理的整合性が保たれていさえすれば、最終的に、 其の連鎖が全体の纏まりを拵えてくれ得るのです。 (無常の幽玄な趣きにつきましての説明にも触れますと、字数が増え過ぎますので、 今回には、割愛させて頂きますから、御容赦を御願いしたいです。) 尚、是が「ポリロゴス」の典型になり得るのか否かは安易に決められない、 と思われますので、論理思考の主観的な定義を避けるべく、 慎重に投稿を展開させて頂く為に、「セメイオチケ」等の話題を持ち出さずに、 論理思考の典型的な提供者(コンピュータ)達の振る舞いの様相を紹介させて頂いております。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 冷静な読解をなさっていないので、受け入れ難いのでしょう。  ☆ 《受け容れる・受け容れない》は その中身が理解できてからの話です。  《冷静な読解》をおっしゃいますが 分かっていないものは読解出来ていません。自慢ぢゃないが PC について丸っきり知りません。知ろうという気に成って来ませんでした。動けばよいというあたまです。  ですから けっきょく結論をとにかく何が何でも これこれであると示していただくのがいちばんだと考えますが どうでしょう?   結論じたいは 一般的な表現で述べるというかたちだと思います。  もしわたしがいま勝手に推し測って言うとすれば こうです。  ○ 『「連歌」的な経路選び』という通信網を成り立たせる方式がある。これによれば  ★ ~~~~  たとえ英米語の間接話法の様な階層的枠組みを先に準備させておかなくとも、  隣接部位の論理的整合性が保たれていさえすれば、最終的に、  其の連鎖が全体の纏まりを拵えてくれ得るのです。  ~~~~~~  ☆ ですから わたしの推測は 縁の下の力持ちなのではないかです。  言語交通のための場の整備ということではないか です。  連歌をつくろうというときの決まりのことを いま取り立てているのだと。  読解が進まないかも知れませんが 受け容れる・容れないの問題ではなく どういう主題でそれへの切り込み方はどうであるか そして結論は何か これらが分からなかったのです。そのつど尋ねつつ来ましたが 結論はこれだというふうには述べておられません。  ★ 論理思考の典型的な提供者(コンピュータ)達の振る舞いの様相を紹介させて頂いております。  ☆ 互いに自己表現を交わすその通信の場にかんしては これこれの論理思考が活躍しているのだということでしょうか? その場は 確実に整備されているのだと。  

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回答No.86

常識を御存知でいらっしゃらないので、 致し方が無いですから、表現を言い換えます。 インターネットでは一元管理用の中枢が必要になっていないのです。 寧ろ、若しルータが全体の状態の確認を強いられているのでしたら、 ブロードキャストパケットのせいで、直ぐに通信がパンクします。 それを支えているプロトコル群の内の1つがRIPなのですから、 何故に引用されているのかを鑑みて、 自力でも理解をしようとなさって下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 ★★ インターネットに特定の管理者がいなくした目的は、  ☆ と言うもんだから いる場合もあるのかと思ってしまって。  ★ インターネットでは一元管理用の中枢が必要になっていないのです。  ☆ なら 先生の教え方がへた。

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回答No.85

元々インターネットは軍事用の連絡の目的の為に作られていますので、RIPの仕組みが重要なのでして、是が分かりませんと、前々回の内容の意味が伝わりません。 優れた知能が備わっている筈なのに、説明が無ければ、 こういう内容が簡単に分かりませんか?

bragelonne
質問者

お礼

 次の回答にて お答えしています。

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  • 理系出身者が「ズルイ」と感じる文系独特の論理展開

    ////////////////// (目の前で悪い事をした犯罪者を捕まえようとして、 犯人から抵抗された場合、抵抗を排除するために、) 【警察官であると私人であるとを問わず】、 【社会通念に照らして必要かつ相当な】 実力行使をすることは許される。 ////////////////// 上記は、とある有名な裁判の判決文を、 分かりやすく噛み砕いて表現したものです。 なお【】内は原文のままです。 皆さまは、この文章をどう解釈するのが妥当だと思いますか? 〔A〕警察官に許される実力行使は、私人(一般市民)にも許される。 〔B〕警察官に許される実力行使が、必ずしも私人(一般市民)にも許されるとは限らない。 なお、この文章を、法律を学んでいない文系出身者に読ませると、 【社会通念に照らして必要かつ相当】とされる範囲が、 そもそも警察官と私人(一般市民)とでは違う、 つまり、警察官には許されても、私人には許されない行為がある、 と解釈する人の方が多くなります。 (例_警察官が車のガラスを割って犯人を捕まえても、一般市民には同じ事は許されない。) ところが、同じ文章を、法律を学んでいない理系出身者に読ませると、 【警察官であると私人であるとを問わず】が、 【社会通念に照らして必要かつ相当】に掛かっている以上、 「警察官」と「私人」は『並列』の関係にあり、 警察官に許される行為は、私人(一般市民)にも許される、 と解釈する人の方が多くなります。 (例_警察官が車のガラスを割って犯人を捕まえたなら、一般市民にも同じ事が許される。) さらに、多くの理系出身者にとっては、 『一文は一義』(一つの文は、一つの意味だけを持つ。)が原則で、 このような文章で、行為主体(警察官か私人か)によって、 【社会通念に照らして必要かつ相当】の中身が変わるのは、 理系学問のレポートではあり得ない「ズルイ」論理だと理系出身者は言います。 さて、あなたはどう解釈しますか??

  • 法律家の論理すり替えは元はシナ・チョウセンの文化?

    他の学問ではあり得ないような(論理破綻と言われるような) ムチャクチャな論理が法律の世界には存在します。 「現行犯人は誰でも逮捕できる」(刑訴法213)の「逮捕」は、 同じ条文で誰でも(なんぴとでも)と謳われながらも、 実は行為主体によって(一般人と警察官とで)、 「逮捕」の法的意味自体が全く変わります。 現行犯人を捕まえる際に力を行使する事は、 警察官と私人(一般市民)を問わず、 「社会通年上」必要かつ相当な範囲で許される(S50.4.3) という最高裁判例についても、 「そもそも警察官と一般人では、 “社会通念上”必要で相当な範囲は異なる」 という意味不明な判例解釈が、 法学の世界ではまかり通っています。 他の学問でそんなメチャクチャな論理あり得ないというと、 「法律は素人に理解出来るものではない」 と言います。 そういう奴らに限って、 「いぁ、行政書士・司法書士・社労士の資格くらいはある」 と言えば、 「そんなの三流資格だ」 「そんな資格、あっても三十路人間など雇わない」 などと、 意味不明で権威主義的なことを 陰でヒソヒソ言っていたりします。 (2ちゃんねらーみたいw) こういうのを「論理のすり替え」と言いますが、 とある大学の先生が率いる勉強会は、 「論理のすり替えはシナ・チョウセンの文化」 とハッキリ定義しています。 皆様はこの定義に賛成ですか?反対ですか? この2国の民族は論理のすり替えのプロでしょうか?

  • われらが《繊細の精神》なる情況にても論理的なのだ

     《繊細の精神》が幾何学の精神にくらべて優勢なる情況 すなわちわれらが《情感の共同性》なる社会にあっても 必要なときには 論理的に考え振る舞うのだ。――これを問います。  ▲ (パスカル:幾何学の精神と繊細の精神) ~~~~~~  http://james.3zoku.com/kojintekina.com/pascal/pascal001.html  第一章 精神と文体とに関する思想  1  幾何学の精神と繊細の精神との違い。  前者においては、原理は手でさわれるように明らかであるが、しかし通常の使用から離れている。 したがってそのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへ あたまを向ければ、原理はくまなく見える。  それで歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり、みのがす ことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて、推理を誤ることはない。  ところが繊細の精神においては、原理は通常使用されており、皆の目の前にある。あたまを向ける までもないし、無理をする必要もない。  ただ問題は、よい目を持つことであり、そのかわり、これこそは よくなければならない。というのは、このほうの原理はきわめて微妙であり、多数なので、何も見のがさない とうことがほとんど不可能なくらいだからである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    (1) これは 短絡して捉えるなら 理性の崇拝 と 象徴による権威づけ とではないのか?  (2) けれども どちらも論理的なのである。  後者の――すなわち 繊細の精神の優勢な社会にあっての――《クウキ教》であっても そこに伝えられることは 表面化はしないとしてもけっきょく言葉で表現された内容であるにほかならない。以心伝心される内容は 言葉で表現されているのだ。それなりに論理をとおして説得力を持たせているはずなのである。  (3) 何が違うか? どちらも理性とその論理に従うというとき 人びとが従うときのその方式にある。  (4) 幾何学の精神が優勢な人間関係にあっては――すなわち欧米人の社会を想定しているだけれど そこでは―― 是が非でも 論理で人を丸め込む。(買収や脅しなどについては いまそう為し得るかぎりで取り上げないこととする)。  (5) 繊細の精神にうったえる社会では その論理を象徴とその伝播としてのクウキなる権威に関係づけて人を丸め込む。でもやはり 論理なのである。  (6) われわれ日本人も じゅうぶんに論理的に考えている。  もっぱらのアマテラス公民(お二階のえらい人びと)にあってはそれが得意中の得意であるかも知れないし スサノヲ市民が国の内外にわたる問題に対処するときにはやはりアマテラス公民として――アマテラス普遍語(科学語および人格語)を用いてこそ――思惟し行動するのである。普段は あやまちうるスサノヲ人間語をもっぱらしゃべっていたとしてもである。  どうでしょう。

  • 人類はどのような歴史過程を経て、及び、どのような論理構成によって、近代

    人類はどのような歴史過程を経て、及び、どのような論理構成によって、近代国家の民主政治に至ったか。 市民革命や君主処刑、権利宣言の世界史上有名な具体例を挙げつつ、以下の言葉を使って説明せよ。 《旧体制/絶対王政/身分制/家産国家/朕は国家なり/市民革命/regicide/ 社会契約/身分制の解体/自由且つ平等な諸個人/republic/君主主権/ 被治者の自由な選択によって成立した国家/権利宣言や憲法の制定/自然状態/ reign but not rule/王権神授説/万人の万人に対する闘争/e pluribus unum》 これは政治と法に関する問題であり、自分で解いたのに納得のいかなかったものです。 参考にしたいのでお手本、お願いします。

  • 日本社会は 対話型か? なら話し合いを!

     社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや 生活態度としての思想がかなりの程度において規定される。こう考えます。  市民圏= 第一階: S 圏: 市民 S  公民圏= 第二階: A 圏: 公民 A  これら互いの力学関係: A ‐ S 連関制・・・(α)  こういう用語で説明します。  日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特別な神棚をこしらえてやりもっぱらその空中庭園に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。  優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将型であったことだ。  市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処とさせた。檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。  市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。  このお二階さん志向――そして 別様に言えば お上意識――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。  簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いと 両面が見られることになる。  ちなみに西欧の市民は そして公民も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ症候群)を持つ。すなわち A = S としての市民 S であり この市民がおそらく誰もが 同じく A = S としての公民 A となる傾向を有する。と推し測られる。  (ω) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制  相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。  言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり。 / 万人の万人に対するたたかい》という市民( A = S なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。意識の対立とその弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?  日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば それに対して欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。  土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。  日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。いちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。  ただしそのアマアガリ・シンドローム(末は博士か大臣かの出世症候群)の感染具合いに応じて 波風も立つこともある。  ちなみに 別様の A - S 連関制がありうる。  《アフリカ的段階》と呼ばれるもので 市民らに絶対主権があるようなかたちである。  (κ) アフリカ型:S (=じつは A ) ∽ A 連関制  ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~   http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de9.html  マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。  ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王(* A )がいる。  ( b ) しかし、民衆(* ――《〈じつは A 〉なる S 》――)は豊穣と生活の保障と引き換えに王(* 権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。  ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。  ( d ) 民衆(個人 S と共同性)と王(権力と象徴= amaterasity アマテラシテ)は等価なのだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このアフリカ型(κ)は 民衆暴君型である。日本は対話型(α) 西欧は競争型(ω)であろうか。    *     *     *  Q1: 対話型なら もっと話し合いをすすめることが出来るはずではないか?   Q2: 口を開けば 権力者の悪口である。ぼろくそに言うのもいいが 中身がどうなのか?   Q3: それとも 例のアマアガリ・シンドロームが それほど酷くわれわれのこころを腐らせていようか。仲間どうし・同等の相手どうしとして 対等に自由に話し合える間柄であったはずが 何かと顔を合わせば 互いの悪口である。足の引っ張り合いが絶えないというのは やはり アマテラス志向・お上意識なるアマアガリ症候群にひどく手足を縛られてしまっていようか。気がついているのか いないのか。  Q4: スサノヲ( S )市民の心意気は いったいどこへ行ってしまったのか。 欧米型の革命志向はそのかけらも――たぶんさいわいなことに――見られないとすれば ひょっとしてアフリカ型の破れかぶれ症候群が 隠然と深く静かに潜行しているのか。  Q5: まさか そんなことはないと信じるけれど とにもかくにも ひとびとは もはや互いに話し合いが出来なくなっているのか?  Q6: それとも もとから――《対話型》は 理念の上だけであって―― 隠微なけんかと互いを不幸のどん底へ落としやり合うという生活が消えることはなかったのか?  Q7: あるいは 上の歴史および社会にかんする分析が おかしいか。

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     いわゆる地域主権について問うものです。  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずです。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  このヨセ人なるアマテラス種族が 平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ市民村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。  《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており むろんその問題をあつかう。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。