あたらしい政党をつくるための条件

このQ&Aのポイント
  • インタムライズムを志向した政党をつくるための条件について考えます。
  • 政党は市民社会や共同自治を重視し、ムラムラの共同自治を促進する必要があります。
  • 地域主権や住民自治の重要性を認識しながら、お二階まで足を運ぶ考え方も必要です。
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あたらしい政党 どういうものをつくりたいですか?

 みなさんのお持ちのお考えをのべてください。  質問者としては 志向性の問題として インタムラ(村)イズムです。インタナショナルなインタムライズムです。  徹底的に 市民社会――ムラ(市町村)としての共同生活および共同自治――をおもんじる理念に立つのが基本です。あとは その時代その局面におけるじっさいの動きとして 政策等を考えて行きます。  ムラムラの共同自治を互いに重んじ これを相互に活かし着実にいとなんで行く成り立ちです。  そんなに地域主権・住民自治が重要なら いわゆるお二階の公民圏にまで足を運ばなくてもよいではないか? という場合には 基本的に現在の情況・現在の現実にはたらきかけるには 《権力を回避せよということではない》という考え方に立ち お二階まで足をはこぶことがあり得ます。  ほんとうは このお上ともいうべきお二階さんたちに さらに一階へと大政奉還しなさいと言いたいところです。こればかりは インタナショナルなかたちが必須の条件になるかと考えられます。  みなさんは どうでしょうか?  いま現在としては コーヒーブレイクのようなものですが 気軽にどうぞ。

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回答No.1

早い話、コミュニタリアンなわけでしょ? いいんじゃないの? でも、日本人・日本社会に「市民」意識を前提にする”市民社会論”を基底にした政治思想が支持を得られるとは思えないんだよねぇ ただの封建社会への回帰になりかねない人智社会というオチが想定されるけどね で、それはそれでヴィジョンとしては良いのだが、それを政党という政治組織として政治活動させるに具体的な手法が判然としないんだが?

bragelonne
質問者

お礼

 末尾のご発言――おっと ご回答をありがとうございます――:  ★ で、それはそれでヴィジョンとしては良いのだが、それを政党という政治組織として政治活動させるに具体的な手法が判然としないんだが?  ☆ については ショウジキ 《コーヒーブレイク》での談話として始めますというところで ゆるく取り扱って欲しいなぁとは思います。甘えていますか?  というより 実際には みなさんからの声をお聞きしたいというのが これもほんとうのところです。どうでしょうか。  ★ 早い話、コミュニタリアンなわけでしょ?  ☆ コミュニタリアンについてよく承知していなかったので しらべました。:  ▲ (コトバンク:コミュニタリアニズム) ~~~~~~~~~  https://kotobank.jp/word/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0-269535  コミュニタリアニズム【communitarianism】大辞林 第三版の解説  現代の政治思想の一つ。リベラリズムやリバタリアニズムが個人を優先するのに対し,歴史的に形成されてきた共同体の伝統の中でこそ個人は人間として完成され,生きていけるとする。共同体主義。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この解説ですと インタムライズムは 別です。  (あ) 個人を優先します。すなわち 《個人を・すなわち特に市民――アマテラス公民に対してスサノヲ市民と言います――としての人間を 主権在民という公理にもとづき 無条件でとうとびます》。  (い) インタムライズムすなわちムラ(市町村)におけるおよびそれらの連携にもとづく共同自治〔が主導して お二階としてのクニイヘ(国家)を事務係りとして仕えさせるところ〕の方式を 前項の《スサノヲイズム=市民主義》を実現するためのひとつの手段として用いる。です。  (う) 大昔からの共同体としての助け合いなどの伝統を――自然にのっとり合理的に人間的にそして改革的にも――まもることは かさなります。  (え) 《歴史的に形成されてきた共同体の伝統の中でこそ個人は人間として完成され,生きていけるとする》というときの一般的な言い方としての《人間の人間化》については ひとり共同体としての社会生活こそが決定的な要因だとは見ません。むしろ 《人間化》は その人の家族や身の周りの人びとあるいは国家や国際関係といった社会環境を ひとつだけとしてえらぶことはせず 無条件自由という姿勢にあると見ます。  (お) 以上のような意味で――特には 個人としてのスサノヲ市民が無条件に優先されるという意味合いで―― 《共同体主義》という表現には抵抗があります。  (か) 次の解説による場合にも いまの抵抗感が同じく持たれます。:  ▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~   日本大百科全書(ニッポニカ)の解説  主体性の生産における共同体の構成的な役割を重視するという特徴を共有している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    (き) 《主体性の生産》とは 先ほどの《人間の人間化》と同じだと捉えます。そのために《共同体としての生活や自治》を《重視》することに問題ないはずですが その要因をひとつだけ優先させることは インタムライズムとしては 考えません。  (く) ムラの共同自治はこれを スサノヲ市民が互いに自由に主体的につくり合って行きます。たとえば――考え方として―― ムラヲサ(市町村長)は自由市民の当番制とするといった仕組みです。  ▲(承前) コミュニタリアニズムの論者たちは、個人は個別の共同体に属することで、つまり特定の共同体のなかで生まれ育ち、その共同体に特有の価値を身につけることによってはじめて主体になると主張した。  ☆(け) ここは ずるい考え方を提出します。   (i) ひとは 孤独である。どうしようもなく孤独である。いかにゆたかな心の持ち主であっても 他人の心の内面深くに分け入って孤独を癒すことはできない。   (ii) しかも人間の孤独は よくそのありのままを見つめてやると 孤独関係でしかない。生まれつき孤独関係として存在する(存在し合う)孤独の中にある。   (iii) このとき――つまりこのような自然本性として生まれて来た人間であるとき―― ひとは 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である。   (iv) 独立性と関係性とをまったく同時に一体としてのごとく持ち合わせている。独立性の保証は 自由意志である。関係性には 互いの合意という条件がある。   (v) 《関係の絶対性》をまぬかれないところの《自由意志を駆使する独立性》として 人間は人間と成る。  (こ) ▲(承前) 「選択の自由」を保障する最低限のルール(「正義」)に従うという条件  ☆ 《選択の自由》とは 個人の意志自由のことです。そして 意志による自由選択を保証するのは じつにこの個人一人ひとりの自由意志〔の自由な自己表現〕です。  (さ) 互いの自由な自己表現とは 話し合いであり それとしての民主制です。その上で ナラハシ(慣習法)や人定法としての取り決めが 必要に応じて持たれ利用されます。  (し) 《正義》という言葉は 死語だと見ます。あるいはつまり 主観です。つまりは それぞれの自由な自己表現の内容のことです。   (す)▲(承前) 社会の成員はどのような信条を持ち、いかに振る舞おうとも社会によって干渉されないとするリベラリズム  ☆ 自由な自己表現に対して自由な自己表現がみとめられる限りで 他人の――信教・良心の自由という内面から外に出かけた場合における――信条・思想・発言に対して自由に《干渉》します。干渉し合います。表現の自由は 自己の表現した内容についての説明責任を絶対的に帯びますし 批判の自由を互いに認め合わざるを得ません。  (せ)▲(承前) さらに、異なる価値を掲げる複数の共同体を比較し、その序列を決定することが可能であるとする点  ☆ これは阿呆な考えだと思います。主観の自由ですが 《〔比較し序列を〕決定する》のも 主観内部の問題にとどまります。それの共同主観化が成っても 無効でしょう。《異なる価値》は 全部が全部でなくても 主観内面としての信教・良心の自由の問題だからです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   でも、日本人・日本社会に「市民」意識を前提にする”市民社会論”を基底にした政治思想が支持を得られるとは思えないんだよねぇ  ただの封建社会への回帰になりかねない人智社会というオチが想定されるけどね  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (そ) 日本教=クウキ教が おおむね世の中を支配しています。ゆえに スサノヲ市民であることの自覚は 言わば《密教》になっています。  (た) 第一階であるスサノヲ市民社会は 隠れているだけです。歴史的にもお上意識がつよくお二階さんに対する言わばアマテラス公民の予備軍であるかのごとき骨抜き市民が ウワベではあふれています。  (ち) おそらく いづれの時にか どんでん返しが起きます。お二階さんたちは あのバツグンに優秀な人間にしても もはや自分たちの統治が立ち行かずチカラ尽きたと思い知るときが来て みづから浮かれて踊り出すでしょう。  (つ) それとも《すでに世の中の自分の位置づけが決まっていて何も考えずに生活するかのような身分社会》へのアコガレが止まず 《封建社会への回帰になりかねない》でしょうか どうでしょうか?

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  • Nakay702
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回答No.7

再度の「お礼コメント」をありがとうございました。 「コーヒーブレイク、気軽にどうぞ」とのお誘いに乗って、昔風に言う井戸端会議のような感覚で遊んでいます。真面目そうに言いますが、ほとんどおちょくり気分です。つまり、斜に構えています。どうぞ、悪しからず。 >1. 内閣総理大臣は 立法府から選ばれますが 行政府の長に成るのでは? 委員会等で立法府から・つまり同じ与党からも 質問を受けるのでは? ⇒総理大臣が一人で「複数の長の権能を兼ねること」が問題なんです。 >2. 議院内閣制と大統領制とは 一長一短があるのでは? ⇒はい、仰せのとおり、それぞれ一長一短があると思います。しかし、私の提唱したいのは、大統領制というより「3府の長をそれぞれ国民投票で選ぶ」というものです。 >3. 司法府は それでも独自の判定をくだす場合もあるのでは? ⇒もちろん、独自の判定をくだすのは当然です。私の言いたいのは、「任命権を国民の手に委ねるべし」、ということです。 >4. 三権一体ではないかという批判は 通俗的に言えば 自分の政党がよき政治家を出して多数派を形成すればよいだけではないか?という問い返しを受けるものと思います。 ⇒「制度上の不備」があるのではないか、と言いたいのです。仕組みそのものに欠点があることを指摘しているのであって、何かの主張を通したいと思っているわけではありません。 >5. そして 対案を出せという応答が出されるものと思います。 ⇒上記が対案です。つまり、行政府の長や司法府の長を「立法府の長(総理大臣)が兼ねたり任命したりするのでなく、国民投票で選ぶ制度にする」、という提案です。 & …ああ、とはいえ、言うだけ虚しい気分。なぜって、依然、古典古代の「支配者が正義の何たるかを決める」(トラシュマコス)のとほとんど変わらない状況が続いているんですから、取り付きようもない…。 & 現下の「安保法案」も、これだけ反対が多いのだから、もっと議論すべきだと思いますよ。そこで、一句:「安保法 保安のアベコベ 少数決」。→「万機公論に決すべし」! & 消費税の引き上げを決めたときも、一緒に「議員数削減もセット」にして決めました。民主党の野田総理が念を押していた場面をはっきり覚えています。なのに、消費税引き上げだけはさっさと決まって実行に移される一方、議員数削減は話題にもされない。違憲を指摘された「一票の格差」のみについて最低限の是正「5増5減」はやるようですが。 & …と、縷々言いましたが、期待はしないことにします。せめて、日本が「ギリシャの二の舞」にならないことを祈りますわ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  単純に反応する形に成るかも分かりませんが。:  ★ 1. ⇒総理大臣が一人で「複数の長の権能を兼ねること」が問題なんです。  ☆ いや。衆議院から選出されるのですが 内閣を形成したなら 立法府から行政府の人間へと移籍するのでは?  ★ 2. ⇒しかし、私の提唱したいのは、大統領制というより「3府の長をそれぞれ国民投票で選ぶ」というものです。  ☆ たぶん司法府の長つまり最高裁長官を国民投票でえらぶというのは 実際問題としてはむつかしいのでは? 国民には誰がよいのか分かりませんから。  立法府の長というのは 衆議院および参議院の議長なのでしょうか。別にいまの制度でかまわないのでは?  行政府の長については 議員内閣制と大統領制とのあいだの選択でしょうか。  ★ 3. ⇒私の言いたいのは、「〔司法府の長の〕任命権を国民の手に委ねるべし」、ということです。  ☆ 国会議員が 国民のえらぶところなのですから 間接的にはそうなっているのでは?  ★ 4. 三権一体ではないかという批判は ⇒「制度上の不備」があるのではないか、と言いたいのです。  ☆ 具体的にはどういうことでしょう? つまり すでに成された議論の蒸し返しではなくわたしの言いたいのは 仕組みをマチガイの起きないようにつくるだけでは やはり不備なのではないか? です。どんな制度のもとでもワルはワルをやります。  ★ 5. ⇒上記が対案です。つまり、行政府の長や司法府の長を「立法府の長(総理大臣)が兼ねたり任命したりするのでなく、国民投票で選ぶ制度にする」、という提案です。  ☆ すでに互いに触れ得たところもあるかと思います。そして その上でどうか? となると具体的には 申し訳ありません つかみ得ませんでした。  ★ & 現下の「安保法案」も、これだけ反対が多いのだから、もっと議論すべきだと思いますよ。  ☆ 行政府の長となれば その決断は ほかの職務の人たちとは 違うと考えます。  理論的にただしいかどうかとか現実の認識および措置の内容が いかに反対が多くても 信念にのっとって実行を決断すべしとか言うのではなく 特に安全保障の問題をめぐっては 大きくはわたしは自然史過程にあって偶然をも容れた全体的な自然史過程としてものごとが決まると考えています。  どっちにころぶか? 人間には分からない。という見方です。  分かりやすく敢えて言うならば 違憲のおそれのある内容の法律であっても そうだと思えば 通そうとするであろう。という意味です。  いや ここまでのご議論については けっきょく選挙民としての国民がわるい。という結論に落ち着くのではないかとは思っています。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9728/12102)
回答No.6

「お礼コメント」をありがとうございました。 とりあえず1つだけお答えします。 > ☆ すみません。またまたこの《「三権分立」していないこと》というのが よく分からないのです。 > 強行採決するなら 行政府がつよい。ただし それは与党が 立法府において多数ゆえ。――こういったことなどでしょうか。 ⇒ご存知のように、「三権」とは司法権・律法権・行政権ですね。ところで、日本の場合、総理大臣は立法府の長ですが、同時に事実上行政府の長も兼務している格好になっています。そして、また同時に司法府の長(最高裁判所・判事長)の任命権まで握っているとなれば、これはもう、「三位一体」ならぬ「三権一体」じゃないですか。 つまり、民主政治の根幹とも言える「三権分立」がてんで体を成しておらず、まるで「独裁制」と変わりがないような権力集中状況を呈しているわけです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  必ずしもご見解を捉え得たかが分からないのですが 断片的に これこれはどうなのだろう?と思った点をあげてみます。  1. 内閣総理大臣は 立法府から選ばれますが 行政府の長に成るのでは? 委員会等で立法府から・つまり同じ与党からも 質問を受けるのでは?  2. 議院内閣制と大統領制とは 一長一短があるのでは?  3. 司法府は それでも独自の判定をくだす場合もあるのでは?  4. 三権一体ではないかという批判は 通俗的に言えば 自分の政党がよき政治家を出して多数派を形成すればよいだけではないか? という問い返しを受けるものと思います。  5. そして 対案を出せという応答が出されるものと思います。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9728/12102)
回答No.5

「お礼コメント」をありがとうございました。 ひと時の、よいコーヒーブレイクを感謝します。 たまにはこういうのがなくっちゃ、息が詰まります。 >かんばしからぬ当選者はただちにリコールすればよい のではないでしょうか。 ⇒ですが、そのリコールの方法がないじゃありませんか? 一度当選させたら最後、鬼の首を取ったように、破廉恥に、傍若無人に、横暴に振舞う政治屋の何と多いことか! 因みに、政治家と政治屋は違うんだそうで。 政治家=「次の時代」を考える。 政治屋=「次の選挙」を考える。 >具体的にどういう《意味づけ》が考えられるか。どうなんでしょう。 ⇒その意味づけとしては、例えば次のようなことがあり得ます。 「選挙制度に異義あり」 「選びたい候補者なし」 「立候補の条件について再検討を求める」 などなど。 私はこれを、選挙本部などでなく司法府(裁判所)に訴えたいのです。そういう筋道を設定しておいて欲しいです。 >しっかりとした野党を・批判勢力を育てるといったことにつながっていましょうか。 ⇒そうですね。それも必要なことだと思います。そして、理想的には、「2大政党」的な仕組みです。 ただ、ここで私の発議した「複頭制」の主眼は、「時の与党内部」での、いわば「自己規制的な効果」を狙っての提案でした。 >☆ 方向・志向性にじゅうぶん共感がありますが もうちょっと具体化した絵図をお聞きしてみたいとは思いました。といったところでしょうか。 ⇒まずは、共感してくださり、ありがとうございます。 そうですね。確かに具体的に述べていません。そもそも考えがありません。 私の意図は、「政治家の資質を問題視する、そういう方向・風潮・潮流に誘導したい」だけで、具体的な詳細は心ある方にお任せします(お迎えがそう遠くない!?と思いますので)。 ともあれ、日本の政治の諸悪の根源は、「三権分立」していないことです。立法府だけが飛びぬけて強大で、すべてを支配している。これが根源的な問題でしょうね。「考歴党ガンバロー!」 以上、お礼と雑感的返信まで。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。たのしくまいりましょう。  ★ 一度当選させたら最後、鬼の首を取ったように、破廉恥に、傍若無人に、横暴に振舞う政治屋の何と多いことか!  ☆ まぁ そうですね。職にはしっかりと しがみついています。そのしつこさは見習うべきところがあるくらいです。  ★ 政治屋=「次の選挙」を考える。  ☆ ふうーむ。だとすると これは選挙民のほうが問題ですな。と言ってはダメですか?  《選挙における棄権⇒ 白票の意味づけ》をめぐって  ★ 私はこれを、選挙本部などでなく司法府(裁判所)に訴えたいのです。そういう筋道を設定しておいて欲しいです。  ☆ これは 現実に立脚した考えですが ううーん 込み入ってしまってまだるっこしくないですか? それに だとしたら リコールのような制度として感じられて来ます。  つまりたとえば  ★ 「選びたい候補者なし」  ☆ が意味づけされたそのあと 国会議員は空席になるのでしょうか? そのへんのところがよく分からなかったと言えば そうなります。  ★ ただ、ここで私の発議した「複頭制」の主眼は、「時の与党内部」での、いわば「自己規制的な効果」を狙っての提案でした。  ☆ なるほど。そうですね。安倍政権は そうではないようですが もともと批判勢力ないしお目付け役は 各政党にいたようには思います。ただし 制度や規定としてはなかったかも知れません。  ★ 私の意図は、「政治家の資質を問題視する、そういう方向・風潮・潮流に誘導したい」だけで、具体的な詳細は心ある方にお任せします。  ☆ このご意図は 誰が受け取ってもそう同じように思うと思いますよ。政治屋の人でも 同じくそう言葉では言うでしょう。  ううーむ。だとしたら 世界の全般にわたること つまり現実と思想とのあらゆる事柄をめぐっていまこのようにみなさんが考えるところを出し合って一つひとつの主題についてそのつど共通の了解事項を 成し得るものならば 得られるようにして一歩一歩すすむ。という歩みでしょうか それが 基本であると見てよいのでしょうか。    ★ ともあれ、日本の政治の諸悪の根源は、「三権分立」していないことです。立法府だけが飛びぬけて強大で、すべてを支配している。これが根源的な問題でしょうね。「考歴党ガンバロー!」  ☆ すみません。またまた この《「三権分立」していないこと》というのが よく分からないのです。  強行採決するなら 行政府がつよい。ただし それは与党が 立法府において多数ゆえ。――こういったことなどでしょうか。  採決という腹を決めたときには もう数の問題になるでしょうね。     ということは 普段からの――基本的な理論を問い求めつつその基礎に立った――時論を広く絶えず 参加者の水かさを増しつつ 推し進めて行くこと これが のぞまれます。  (それにしては この質疑応答において 自由な批判がとぼしいように思われます。あるいはつまり 互いに議論をかみ合わせての対話が とぼしい。)。

回答No.4

議会制という、民意を反映するには鈍重な制度を廃し、 国策へのネット投票による直接民主制を指向する政党。 それが衆愚政治に堕す事のないよう、庶民の参政意識を 高め、自律的に社会行動をとる社会生命的意識の普及。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9728/12102)
回答No.3

幾分それますが、コーヒーブレイクということで、勘弁してください。 「政治家の資質がお粗末過ぎる」というのが昨今の実感です。低劣な発言、差別的発言、蔑視、ごまかし、隠蔽、無教養ぶり…等々、例を挙げるまでもなく、お粗末も甚だしい! じゃあないですか。 そこで私は提言したいです。 (1)立候補資格の設定を 家資格の1つに司法試験がありますが、「3権(司法・律法・行政)試験」というのはありませんね。この試験制度を設置して、衆参選挙はじめあらゆる公務員選挙に立候補するのに、「3権試験合格者」という制限を設ける、というのはどうでしょう。 特に、代議士には我々の生命や未来を付託するわけですから、それに応え得るだけの資質を持つことを計る目安にしたいと思います。 もっとほかにいい方法があれば、それでもいいのですが、何かありませんかねえ。 (2)白紙投票に意味づけを 「選挙で国民としての権利を行使できる」と言われても、「選びたい人がいない」からといって白票を出せば、それは死票扱いになります。それで、「白票も何らかの意思表示」と位置づける検討をしてもらいたいです。 (3)「行政大臣」、大統領制? 総理大臣とは別に、「行政大臣」の職位を設ける案はいかがでしょう。総理大臣(=立法府の長)は国会議員が選びますが、「行政大臣」(行政の長)は国民の直接投票で選ぶ。 アメリカなどの大統領制と似た形になりますが、「複頭制」ということで、むしろ古代ローマに学ぶ方式かも知れません。ディクタトル(大統領)とプラエトル(小統領)がいて、互に掣肘しあっていた。 この「複頭制」のいいところは、お互いに相手の暴走を規制することができる、という点です。 以上のアジェンダを掲げる政党、「歴史に学んで政治の本質を考える政党」(縮めて、「考歴党」とでもしますか)の提案とさせていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ええ コーヒーブレイクです。ご回答をありがとうございます。(あちらの質問で 義理を欠いた振る舞いをしました。じつは 確信犯です。質問者への当てこすりでした)。  ★ (1)立候補資格の設定を  ☆ これは どうなんでしょう。  つまり 単純に簡単に反応しますが かんばしからぬ当選者はただちにリコールすればよい のではないでしょうか。  というのも 《資格》試験で淘汰しても ワルはワルをやると思えるからです。  ★ (2)白紙投票に意味づけを  ☆ これは あり得ると感じましたが ただし 具体的にどういう《意味づけ》が考えられるか。どうなんでしょう。  ★ (3)「行政大臣」、大統領制?  ☆ けっきょく首相を 国民投票で決めるということになるかと思うのですが これは 一般にフリーハンドで選択肢にあるのかと思います。  実現性の問題なのか。中曽根が言っていたようにも思い出しますが 昨今は下火ですね。  これは ちょっと実態がどうであるのか よくは分からないのですが さて どうなんでしょう。  あるいは   ★ 「複頭制」のいいところ  ☆ をめぐっては しっかりとした野党を・批判勢力を育てるといったことにつながっていましょうか。  ★ 以上のアジェンダを掲げる政党、「歴史に学んで政治の本質を考える政党」(縮めて、「考歴党」とでもしますか)の提案とさせていただきます。  ☆ 方向・志向性にじゅうぶん共感がありますが もうちょっと具体化した絵図をお聞きしてみたいとは思いました。といったところでしょうか。

回答No.2

 緑の党などが考えれますけど。 結局、日本の場合は自民党があっての話になると思います。 自民党をやや右的ととらえたら、政権を担える社会配分や平等などを考える政党とは何かを考えると思います。 小さな政党は自民党より右があってもいいでしょうし、地域政党や中央や左のある主張をする政党などあってもいいと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 緑の党などが考えれますけど。  ☆ なるほどと言いますか 個人的には あぁ これまで緑の路線についてはしっかりと考えて来なかったなぁとも思いました。  ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 結局、日本の場合は自民党があっての話になると思います。  ☆ と まづは当座の世の中の安定を確保するといった問題にもなるでしょうか。  ★ 自民党をやや右的ととらえたら、政権を担える社会配分や平等などを考える政党とは何かを考えると思います。  ☆ これも 現実は複雑です。つまり 保守政党もが 社会的な平等ないし再配分の問題に・つまりいわゆる福祉にじゅうぶんチカラをそそいでいるかと思います。政権の維持のためだと言っても そうであって 野党の福祉政策とそれほど変わらないかも分かりません。  つまり そういった当座の実現性を重くみるなら 政権政党の中でそういった政治活動をしたほうが早い――となるかも分かりません。  まぁ そうは言っても いまは将来を見据えて:  ★ 政権を担える社会配分や平等などを考える政党とは何かを考える  ☆ 場合をあつかいましょうか。  ★ 小さな政党は自民党より右があってもいいでしょうし、地域政党や中央や左のある主張をする政党などあってもいいと思います。  ☆ なるほど。前半は 政策の実現性つまり当座の問題にかかわった実態でしょう。  後半は たとえ自分たちが政権に就かないとしても その政策を 説得を経て自民党政権をして実現せしめるというところでしょうか。  ううーん。現実に立とうとしたものだと思いますが もうちょっとあたらしさが欲しいとも思いましたが どうでしょう。    《緑の党》のいいところなど 触れ得ませんでした。ほかのみなさんにもお願いしましょうか。

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    国家とは 幻想である。  と考える方向にすすむのが よいのではないか。  人びとは――農耕を始めてからですが―― 穫り入れのときに初穂をささげて神々を祀った。どんちゃん騒ぎをしたかどうかを別として 《まつり》である。神と人びととの共食ということ。  やがて このムラムラのまつりをその上から束ね治めようという想像力に富む優秀な人間が現われ 人びとはこの人間たちに場をゆづった。どうしても一番に成りたいと言って聞かなかったので人びとは根負けした結果 社会(やしろ)にも神棚をつくりそこにその人たちをまつり上げた。  かくて 国という家 家としての国が出来た。《まつりごと》である。世に言う二階建て構造から成る社会。  二階建ての造りによって格差(クラス=階級)が出来てはいるが 《たみ・おほやけ( publica )のこと( res ) すなわち respublica = republic 》とも言っている。だとすれば まつりごと(つまり政治)も 人びとの共同自治であることに変わりはない。  まつりごとという国家による政治は ムラそれぞれのまつりとともに暮らすたみ(市民)に 大政奉還すべきだという意見が出ているそうな。  社会の神棚に祀り上げたにしろ その神棚を力によって収奪したにしろ その第二階は まぼろしであるのではないか。仮りにおほやけのこと( res publica )をまかせてみただけなのではないか。千五百年あるいはそれ以上経て来ているようであるが そろそろ主役は 第一階の人びとに戻すときではないだろうか。  以上を問います。よろしくどうぞ。

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     アマテラスお二階さんは 一階のスサノヲ市民社会に大政奉還すべし。  いわゆる地域主権について問うものです。  ムラ=市町村 の主体性を発揮する時代へと移行しましょうか?  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずだ。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人 この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前がある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. 大政奉還のもんだいは 《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制としてのマのあり方を問う。  6-1. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイをめぐる正し方 こういった問題である。  6-2. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  6-3. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは 《 S (大政主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-4. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろ理念に合わせたものなのではないか?  6-5. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-6. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。  6-7. つまりそれが アマテラス科学語およびアマテラス人格語であるが これは アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。つまりその神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-8. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象である。  6-9. ゆえにアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。  6-10. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとする反措定に対する反措定であるから 綜合であり人間のふつうの存在(知性)の肯定であると考えてよいのではないか?   6-11. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマチガイからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公務員の無謬性なる神話がくづれた。  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。(かな?)

  • われら日本人は いつまで死んだふりをするつもりか

     なぜ人と社会のことがらについて 目を覚まさないか。  目をさまして現実を見ないか。  世界への貢献は 自然科学の理論的・技術的なものごとにだけ精進せよと誰かが たとえば AKB48 たちが 心優しくさとらせてくれていたという何だか原風景のようなものが心にのこっているからだと言うのだろうか。  なぜ起き上がって 目の前に起きていることを見ないのか。  たとえばいまこれからの社会は 国家から市民社会への大政奉還という道筋しかないのではないか。  国家とテロリスト あるいは中国共産党と日本とのあいだの戦争を回避しその対立を解いてすすむには 国家がこうべを垂れて ムラムラ(市町村)それぞれの共同自治の前に膝を屈するよりほかにないのではないだろうか。  いつまで見ないふりをし死んだふりをするつもりか。  神は いかに名前が違っても 世界中どこに行っても誰にとっても 同じひとつの神であるのではないなんてことがあるはずないぢゃないですか。  死んだふりを死ぬまでつらぬくつもりなのだろうか。

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     いわゆる地域主権について問うものです。  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずです。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  このヨセ人なるアマテラス種族が 平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ市民村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。  《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており むろんその問題をあつかう。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。

  • 村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?

     それとも パロディなのか?  それは 例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品を言います。  次が そのたたき台です。歴史的な背景の説明をともなったフィギュアの心の解明です。お聞きください。     *  フィギュアをめぐる萌えと燃え。  そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか?  たしかに 現代の日本社会としての固有のあるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にその答えを解く鍵があるだろうね。  展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生のあとそこで成立したその国家の仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。  この社会の成り立ちとしては    スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民   この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして A 圏における権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。   市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A )     * アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität ):     アマテラス( amaterasu )公民ないし天皇の抽象名詞化。  アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。  そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし社会通念としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。  けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。  そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって生活しており そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。  どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで拝みに拝んで それにとうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。    スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るまでに使いこなすほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。  結論である。  要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。これが フィギュアのねらいだという読みである。  その思いを大枠として――その解決がなされなけれ人間存在の話としては何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。反抗と言っても せいぜいが 一揆ていどである。  つまりは現代としては フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくであるようなのだが―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。  むすび:  アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。  権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら その安全保障のことをも考慮しつつ 大政奉還していけばよい。  おまけ:  だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。  逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。  だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。

  • 国家のアウフヘーベンを!――いまでしょ。 

     1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人≫ この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよ その《いと高き者》に似て来たとき――きわめて人間的な人間になったとき――周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったときスサノヲらはとうとう根競べに負けて 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがムラムラでおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》連関制の完成である。くにのいへと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前とがある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. さて 大政奉還――国家のアウフヘーベン――のもんだい。  6-1. 大政奉還の問題は    《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制  としてのマのあり方を問う。  6-2. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガヒをめぐるその正し方 こういった問題である。  6-3. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか?  6-4. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは    《 S (大政主権)- A (従属)》の連関  だったものが A圏主導の《 A主導 - S 従属》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-5. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろただ理念に合わせただけのものではないか?  6-6. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-7. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。お二階へのアマアガリをおこなった。  6-8. つまりそれが アマテラス普遍語(つまり科学語および人格語)であるが これは実際には アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。クウキである。つまりそのクウキとしての神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-9. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところのダブル・スタンダード現象である。  6-10. ゆえに普遍語をよそおうところのアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。アマテラス科学語は資料等において部分的にしか表に出さない。アマテラス人格語は ウラとオモテとを使い分ける。  6-11. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとするアマテラス神話なる反措定に対するための反措定であるから 肯定的な綜合であり 人間のふつうの存在(知性)の復権(ルネサンス)であると考えてよいのではないか?   6-12. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)主導‐ S (スサノヲ)従属》連関制としてのマチガヒからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。ウラで何をやっているか分からないばかりである。そして 経済・財政的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公民の無謬性なる神話がくづれた。D.トランプ現象?  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。――かな?