• ベストアンサー

江戸時代の統治制度が上手く機能した理由?

fumkumの回答

  • ベストアンサー
  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.2

戦国時代の農民と比較して考えると、 1、農民の自治組織であった惣の組織を統治の末端として利用した。下は他の質問に私が回答した内容ですが、趣旨はおなじなので。 『江戸時代の農村には基本的に武士はおらず、村役人と呼ばれる庄屋・肝煎・百姓代が行政の末端に位置付けられ、訴訟・戸籍(寺請)・納税(村請)などの業務をしており、彼らを中心とした本百姓の自治的側面が強い。これは中世の惣の組織に由来し、戦国時代から織豊時代にかけて解体されるのではなくて、組織を換骨奪胎され、支配のための組織になっていった。年貢についても村請により、村全体が年貢納入の連帯責任を負う体制と言う、武士に都合の良い形態になっていった。武士は本来農村より出てきたもので、惣の中にも多くの武士(土豪等)層がおり、指導的立場にあることも多かったが、戦国時代を通じて、ある者は戦国大名などの家臣化して(戦国大名になった者もいるが)農村を離れ、ある者はそのまま農村に留まり帰農化と二分化していった。この傾向を決定的にしたのが豊臣政権下の一連の身分統制令で、武士と農民が分離され、武士は完全に農村を離れて城下に集住するようになった。(島津氏などの中世以来の伝統を持つ大名領では不徹底ではあるが)そのために農村に武士はいないという状況が出現した。百姓の支配と言うと難しいが、代官―村役人―農民と言う構図が一般的なはずです。これは幕府及び各藩共に変わらないはずです。』 2、年貢が相対的に安くなった。 戦国時代でも関東の北条氏は戦国大名の農民統治の完成形といわれていますが、4公6民程度の年貢率だったと言われています。これは例外で、多くは6割以上の年貢率だったようです。収穫物を3つの山に分け、そのうちの2つは領主が、1つを農民が取ると書かれていますから、7割近い高率だったようです。江戸時代前期の開発時代は、河川の付け替え、用水の整備、新田開発などに多額の資金がかかることもあって高率の年貢率だったようですが(その結果が農民の生活を潤したこともあります)、開発が一段落すると年貢率は下がり、幕領では4割どころか3割を切るような状態になります。しかし、大名・旗本・武士の生活が苦しくなり、年貢率が上昇すると農民一揆が頻発するようになりますから、年貢は重要なファクターだったと思います。 以上、参考程度に。

関連するQ&A

  • 江戸時代 身分

    江戸時代の身分制度について興味があります。 しかし全く詳しくありません。 士農工商とよくいいますが、本当に農民は上から2番目の扱いをされていたんですか? えた・ひにんとはどのような身分ですか? また、江戸の身分制度の在り方や意味についても意見をお聞きしたいです。

  • 江戸時代 天下泰平の270年とは何だったの?

    江戸時代には政治において様々な政策がとられました。鎖国、身分制度(士農工商と呼ばれる階級制)、武家諸法度、参勤交代等々挙げればきりがありません。 僕が疑問に思うのが、上記の政策は日本人の視点から日本を治めるものではないのでは?ということです。 まあ、鎖国は「出島で交流してたよね」という観点からではなく、「専守防衛」という解釈でお願いします。 身分制度により国民の力を分散させ、参勤交代によって(国内の)大名がある水準以上の力を蓄えることを制限し、鎖国により専守防衛を宣言する。 さて、質問なのですが、江戸時代とは日本が西洋による植民地と化した最初の時代ではないのですか? どなたか教えて下さい。

  • 江戸時代の士農工商の人口比率は?

    江戸時代を通じで人口は一定であったという話を聞きました。 では士農工商の身分の違いによる比率はどうだったのでしょうか? 人口全体に占める武士階級がどれくらいであったのか? またその比率が江戸時代を通じてどう変化していったのかが知りたいところです。 江戸の初期は、藩の取り潰しなどで武士は一時的に減りますが、農民よりも経済的に恵まれていたので、徐々に増え続けていったのではないかと想像しています。 それからこれはうろ覚えなのですが、江戸では武士が人口の50パーセントを占めていたという話を聞いたことがあります。 今おもうと、江戸中武士だらけになってしまい不自然だとおもうのですが、真実はどうなったのでしょう。

  • 江戸時代の人口比率

    江戸時代は「士農工商」と身分分けされていましたが、それぞれの人口比率%はどのくらいだったのでしょう? また武家に勤めるいわゆる使用人(下僕・下女・中間・足軽・腰元女中などなど)はどのカテゴリーに入るのでしょうか? そして、江戸は他の城下町に比べて特別武家人口が多かったのではと思われますが、どのくらいの比率だったのでしょう。

  • 江戸時代のキリスト教信者についてです

    江戸時代にキリスト教信者の数が急激に増加しましたよね。 この時代は、士農工商の身分制度により、身分に差をつけられ、慶安の御触書などで農民が厳 しく支配されていました。 彼らが、人は全て平等であるというキリスト教の教えに救われ、信者になったからだと考えられます。 質問なのですが、このとき増加した信者のうち、農民や町人などの身分別内訳はどうなっていたのでしょうか? 苦しんできた農民が多かったのでは、と予想したのですが、グラフや表など、何か数字で身分別内訳を表しているものをご存じでしたら教えていただきたいです。また、だいたいこのくらいの割合という風に教えてくださってもありがたいです。 急な質問で申し訳ありませんが、ぜひお力を貸してください。

  • 士農工商の”農工商”に差はあるの?

    江戸時代の身分制度として有名な士農工商。 時代劇を見ていても、武士に頭を下げる町人や農民が出てきますし、武士は苗字帯刀など特権があったことは有名です。 しかしその下、農工商に違いがあるような話は聞きません。大工が農民に頭を下げたり、商人が職人に遠慮したりする描写は見たことありません。農工商の間には何か違いがあったのでしょうか?

  • 士農工商の実際

    江戸時代の身分制度の士農工商について質問いたします。この身分制度によって、実際にどうゆう優遇措置 あるいは特権が発生していたのでしょうか。武士はともかく例えば、 農民はその下の職人、商人よりもどのような面で特権があったのか、など何でもけっこうです。

  • 江戸時代の身分制度について。

    こんにちは(*゜ー゜*) 江戸時代に出来た身分制度 「士・農・工・商・えた・ひにん」 の「えた・ひにん」の意味と区別がわかりません。というか、学校で習った記憶があるのですがすっかり忘れてしまいました。教えて下さい。 また、今は小中学校では教えてないという文章を見たことがあるんですが本当なんでしょうか。

  • 江戸時代、えた・ひにんの人ははどうやって選ばれたのか?

    江戸時代に士・農・工・商・えた・ひにんなどの身分制度が出来ましたが、このえた・ひにんに該当する人たちは、どうやって決定されたのでしょうか? 中学校では「時の権力者が世の混乱を治めるために低い身分の人を作って不満のはけ口にした」などと習った気がします。しかし、この"低い身分"の人たちはどのようにして選ばれたのでしょうか?貧しい農民をこの身分に割り当てたのでしょうか?私の思いつきでは前科のある人やその家族などをこの身分にしたのではないかと思ったのですが、実際はどうなのでしょうか?

  • 武士とは何をしてたの?

    江戸時代に士農工商の身分制度があったことは小学生の時に習いました。農民、工作人、商人などは読んで字のごとくでどんな仕事をしていたのか良く分かりますが、武士とは具体的にどんな仕事をしていたのですか?刀を差して道を闊歩するだけで何に対してお金を得ていたのですか?