• ベストアンサー

隠密同心について

畑山 隆志(@deltalon)の回答

回答No.4

 追加になりますが。  お庭番には大きく二つの任務がありました。江戸周辺のいわば関八州で、日常生活を装いながら幕府の評判(風評)を聞いて報告するものと、もう一つは遠国(おんごく)めぐりで、日本全国を旅します。まず指示を受けると、大店の奥のアジトで打ち合わせをしました。その店の主は、侍の身分を落として商人になった者が仕切り、運営していますが、同時にさまざまな旅装束などの関連資材も保管しています。  さらに打ち合わせに基づいて、指令を受けた武士(つまりお庭番筋の侍)の手足となる部下も密かに集まり、打ち合わせの後出発します。その際に符牒を決めておいて、街道沿いや宿場町の旅館でこっそり集まっては、情報交換などをして、最後に江戸へ戻って報告します。  この時の報告書は、縦書きですので右下に名前を書いたあと提出し、取り次ぎの家老が名前の部分をカットして、殿様の手文庫に入れておきます。  なお、遠国出発前に、近所にいる引退した同じく、お庭番筋の親類に出発の報告と同時にアドバイスをもらいます。それと、旅装束は、当時は階級別に言葉が違っているくらい立ち振る舞いの違いが分かるので、武士はあまり変装せずに、部下がいろいろな姿に身をやつしたようです。ちなみに、関所を通りやすい、芸人(将棋さし)やおもちゃの行商姿(でんでん太鼓を売る)が多かったらしい。  調べるのでしたら、時代考証をやっている人たちの本を探されるとよろしいかと思います。

kaedeunder
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございます。自分はまったくの歴史素人ですので、本当に助かります。色々エピソードがありますね。

関連するQ&A

  • 同心の仕事って変わるんでしょうか?

    最近時代劇が好きになりました。 町奉行所の同心は実際には世襲制であったこと、出世するということはとんどなかったこと、など書いてある本などを読みました。 ここで疑問になったんですが、町奉行所の同心にもいろいろな仕事があったとあります。その中での人事異動のようなものはあったのでしょうか? ある小説にはそういう人事異動はほとんどなく、担当の仕事も世襲だったとありましたが、そうすると、定町回りの同心の子供は定町回りですよね?跡をついで見習いに出るのも定町回りとしてなんでしょうか? 別の本には、定町回りは年期をつんだ同心がなる、若造はいないとあったので、なんだか矛盾してるなあと思いました。 なんだか見習いに出たばかりの若い人につとまるような仕事じゃないという印象も受けます。 実際はどうだったのでしょうか。 こんな疑問に答えてくれる本などもあったら教えてください。

  • 江戸時代の町方などの与力・同心

    江戸時代の町奉行所などの与力や同心について教えてください。 同心よりも与力の方が地位は上ですが、どちらも世襲制ですか? 私が聞いたことがあるのは、どちらか忘れたのですが、どちらかが株で売買できるというもので、 どちらかが世襲制だというのですが、どうなのでしょうか? また、世襲制であれば、与力は若い人であっても与力として経験豊かな中年以上の同心よりも 高い役職であったということですか? ※支離滅裂な文章で申しわけありません。 ご指摘いただければ、補足いたします。

  • 目明し、十手持ちについて

    江戸時代の時代劇捕物帖などで目明しが出て来ます。町奉行所同心の手先として働いていたようですが、幕府天領の代官所配下にも目明しがいたんでしょうか。ご存じの方、教えて下さい。

  • 何で八丁堀なんですか?

    本当につまらない質問ですみません。歴史通の方には常識かも知れないんですが・・・・。 よく時代劇で奉行所の与力とか同心を「八丁堀」ってあだ名しますよね。中村主水とか。あれはどうしてですか? 今でも東京に八丁堀って駅がありますが、あの場所に与力、同心の集合住宅でもあったんでしょうか?それとも、あそこ辺りが奉行所とか? どなたか、教えて頂けないでしょうか。宜しくお願いします。

  • 町奉行所について

    江戸時代で町奉行所に勤める与力、同心は不浄役人・サンピンとか不評だったのに奉行は好評(人にもよるが)で同じ町奉行所勤めでも旗本となると評判もまっ逆様になってたのですか?

  • 古い時代劇の南町同心の俳優

    ある俳優さんを探しています。 かなり曖昧ではありますが、思い出せる特徴や情報を一覧にしたので、 もしも思い当たる俳優さんをご存知でしたらご回答お願い致します。 ・年齢は現在恐らく60代~70代くらい ・時代劇(遠山の金さんだったような気がします)の南町同心役 ・垂れ目のまぬけっぽい顔 ・「やってTRY」のナレーションに声がそっくり ・ドラマなど数々の番組に多数出演 以上です。

  • 江戸時代の吉原の治安管轄は?

    江戸時代中期、特に明和から安永の頃、吉原遊郭の治安はどのようになっていたのでしょうか。南、北の町奉行所の管轄だったとしたら、どの部署だったのでしょうか?例えば吉原で傷害や殺人事件などが生じたさいに、実際に探索や吟味を行うのは誰なのでしょう?また、町奉行所の定町廻り同心がパトロールする範囲なども教えていただければ有難いです。

  • 江戸時代の町奉行に訴えた記録の資料は残っていますか?

    江戸時代の町奉行に訴えた記録の資料は残っていますか? 寛政年間に町奉行に訴えた古文書があり、 これが正式に幕府に受理され、どう判定されたかを知りたいのですが、 そのような記録は残っていますか?

  • 江戸時代の厳罰主義について

    このカテでいいかどうか分からないのですが、質問させて頂きます。 江戸時代の警視庁、すなわち南北の両奉行に勤める与力は50騎、同心でもわずか250人の人数で、当時の100万都市の治安を担っていたと聞きます。 今では、警視庁の警察官の数も4万5000人に上るそうです。 江戸時代の100倍以上ですね。 当時と比べて人口は10倍にしかならないのに、それでも検挙率が落ちているとの報道があります。 なぜ江戸の町奉行がそんな少人数で治安を保つ事ができたか、その理由は、厳罰主義に徹底していたからと聞きます。 10両の金を盗めば打ち首とはよく言われていますよね。 その他にも、真犯人に間違いないが物的証拠に欠ける時は拷問にかけて白状させる事が許されていました。  入獄すればしたで、釈免されるまで地獄のような毎日をおくっていた事と思います。 一方、極刑が言い渡されれば、市中引き回しや、はりつけ、獄門など、犯罪者にはとても厳しい時代だったと思います。 現在、厳罰主義を訴えると必ずと言っていいほど 「人権蹂躙、警察による管理社会の再来、自由に物が言えない暗黒社会」 と言って、いわゆる人権派団体から大反対されるのがオチです。  つまり 「厳罰主義 = 悪」 という考え方なのですが、それでは当時の江戸市民は実際どのような生活をおくっていたのでしょうか? 結構、江戸文化が花開いた時代だったように思うのですが、やはり人権派の人たちが言うように暗黒社会だったのでしょうか?  一般市民でも与力や同心に監視や圧迫を受けていたのでしょうか? 警視庁と東京都民、町奉行と江戸市民、この二つの関係に決定的な違いは何かあるのでしょうか?

  • 岡っ引き、目明しについて

    時代劇捕物帖に出て来る岡っ引きは町奉行所同心の手先として働いていたようですが、幕府直轄地天領の代官所にもこのような岡っ引きがいたんでしょうか。ご存じの方教えて下さい。