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隠密同心について

川原 文月(@bungetsu)の回答

回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>江戸時代の隠密同心について色々調べているのですが、資料がみつからなくて困っています。 秘密捜査員 隠密同心たちが、変装、潜入、囮など様々な手段を駆使しながら探索、事件の裏にはびこる江戸の悪を斬り捨てていく痛快時代劇。隠密同心とは松平定信が極秘に作った組織で、彼の命を受けた幕臣が、隠密支配となって統括している。その正体は、町方に町人として職を持ち、町人と同じ暮らしをしているが、町内の地蔵の合図を元に集結して、指令を受ける。メンバーは皆、隠密支配から承った証の懐剣を所持している。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%8D%9C%E6%9F%BB%E7%B6%B2 これは、日活映画が製作した「大江戸捜査網」という架空の登場人物です。 では、まったくの「架空」?? いえいえ、モデルはちゃんとありました。 それは「お庭番」です。 八代将軍吉宗が紀州から江戸城へ入ったとき、供をしてきた者の内17名が将軍じきじきの命令で働く役目を仰せつかった。普段は平凡な武士の姿で(八丁堀には住まず)、誰が「お庭番」かは見分けがつかないようにした。他の役人とはいっさい交際を禁じられており、世襲制で結婚も同じお庭番同士の家柄で結ばれた。将軍より指令を受けると、帰宅せずにそのまま大丸呉服店の奥の一室で指令の内容に応じた変装をして出発した。そして、半年も一年も帰らないことがあったという。もちろん、忍術の心得を持っていた。また、旅先で死んだり怪我をするようなことがあっても、ご公儀からは何の保護も与えられなかった。いわば、使い捨てということらしい。さらには、時には旗本連中の陰口などを直接公方さまに上申したりもしたので、旗本連中も 「あの男はお庭番に違いない、滅多なことは口にすまいぞ、それ来た、油断するでない」 と敬遠したという。 この「お庭番」の町民バージョンが「大江戸捜査網」の「隠密同心」です。

kaedeunder
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございます。お庭版のエピソード、すごくありがたいです!呉服屋の一室で変装していたんですね。なんとも興味深いです。

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