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ボードレールの魅力?

cyototuの回答

  • cyototu
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回答No.88

>ボードレール研究で、彼の詩想が、理想を掲げて高みに登り、突然、鬱へと沈みこむ様が、ブラウン運動に喩えられたことがありました。、、、こういう比喩は知識人の軽いお遊びなのでしょうが、私はブラウン運動を理解することに、むしろ気を取られてしまった記憶があります。 中々良い筋の発想ですね。実は似たような発想をした方が19世紀の後半頃にいたとプリゴジン教授から聞いたことがあります。その人の名前は忘れましたが、その人は株の浮き沈みの動きをブラウン運動としてモデル化できないかと考えたそうです。しかし、そのモデル化で実際の株を予測しても全くうまく行かず、そのモデルは破棄されたそうです。ブラウン運動の基本は、その裏にある乱雑さがガウス分布に従う完全な乱雑さであることが前提なのですが、株の動きは人間の思惑が入るので全くデタラメと言うわけではなく、適度な秩序も入って来るからです。 その後1960年頃からカオス現象が注目を浴び始めました。この現象の存在は1900年少し前にアンリ・ポアンカレというフランスの大数学者によって発見されていたのですが、丁度その頃量子力学が発見されてしまい、物理学者達はカオスどころではないと、その問題に興味を示さなかったのです。ところが、それから半世紀以上経ち、最早並の物理学者では量子力学では重要な寄与が仕辛くなっており、さらに、皆さんそろそろ量子力学に飽きて来てきたころに、コンピューターによる簡単な数値計算で、驚くべき複雑なカオスの軌跡の絵を描かせることができる。丁度コンピューターが流行って来た頃だったし、一寸した簡単な運動方程式をコンピューターで解かせて、ただ絵を描かせるだけで論文が量産できるので、そのころから、カオスに流れる物理屋さんがどっと出て来たのです。 カオスで描かれる絵を見ていると、その絵は全くデタラメでもなく、秩序がきちっとあるわけでもないその中間です。そこで1980年ごろになって、今度はカオスの理論を使って株の動きをモデル化できないかと考える方が出て来ました。その先覚者の一人は私の所属した研究所の一員の中国人の方でした。実はこの頃、数百万年に渡っての地球の気温の変動や、人間の各種の脳波に遷移する脳の動きを、カオスの理論で言うストレンジ・アトラクター上の動きであると仮定した場合、そのアトラクターは何次元の空間の中に埋め込まれるか、という発想が出て来た時でした。そして、私の研究所の人達は過去のデータをコンピューターで処理するアルゴリズムを開発して、それを次々の明らかにしました。 地球の温度の場合には確か4.5次元当たりだと出て来ました。これは重要な結論で、長期的な地球の気温の変化は高々五つの独立変数の変化で決まっていることが明らかになったのです。ただし、この分析ではその独立変数が何であるかを言い当てることは出来ません。しかし、五つだと解ったら、それは何かと言うことは他の資料から推定できないこともないから、大変な進歩ですね。 また。各種の脳波は、眠りが深い場合や、脳障害のある人ほどアトラクターの次元が低く、眠りが浅くなる場合ほどその次元が高くなり、目をさますと10何次元だった20何次元だったか忘れましたが、その次元は大分高くなるとの結論を出しました。この結果は、脳障害の判定に使えそうだと、それを見付けた人は興奮していました。 この話の数学的な面白さの一つは、ストレンジ・アトラクターが整数次元を持たずに、小数点以下が零でない実数次元を持っていることです。数学者達が次元に対するこんな拡張で遊んでいた物が現実のこの世界に在ったと言うことで、このアトラクターは随分持て囃されています。 ところが、その私の友人の中国人に、株はどうだったと聞いたら、株はどうもストレンジ・アトラクターで捉えられないらしい。詳しいデータを入れれば入れるほど次元が大きくなって、どうも次元が発散しているみたいだ。その証拠に、これが巧く行っていば俺はもう疾っくに金持ちになっているよ、って言っていました。 これもやはりプリゴジン教授から聞いたのですが、カオスの驚きは、驚くほど簡単は運動方程式が驚くほど複雑な解を持っているところにある。要するに、驚くほど簡単な原理が驚くほど複雑性を生み出すと言うことだ。ところが、人間の複雑さは、驚くほど複雑な原理が驚くほど複雑性を生み出しているのだ。だから、最近多くの連中がカオスの理論で人間の振る舞いを定式化できないかと問うているのは、人間や自然界を深く理解していない単純な頭の持ち主なんだろう、てなことでした。確かに、脳波の例でも、脳障害者と言う常人と比べて超単純な脳に関してうまく言ったようですからね。 文学者がやっていることは、驚くほど複雑な人間を驚くほど複雑な原理から理解しようと言う立場なんでしょうね。

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