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ボードレールの魅力?

cyototuの回答

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.80

雨合羽さんからの反応があって嬉しいです。 デコード、エンコードと言うと私にはコンピューター屋さんの使い方しか知りませんが、それを物理屋流に解釈してみるのも面白いかも知れませんね。前にも言ったかもしれませんが、私は物理屋とはこの宇宙に統一原理が存在してるという、未だ誰も確認できていないことを信じ、それだけに生きている物理教の信者だと思っています。その統一原理のことをコードとでも言うと、 >デコードに命を賭けるべくコードを信じなければならず、そんな信念から本当にコードが世界に存在してくるという様態を生きているんじゃないかなと思うことがあります。 という言葉とぴったり重なりますね。 また、コンピューター絡みのコードという言葉で思い付いた別の意味は、コードとは数学による論理展開という側面もありそうです。勿論、これは上で言う統一原理とは全く違う意味ですが。 私が何かの現象に興味を持つのは、その現象が自分のやっている物理学のある特殊な側面を通して、もしかしたらその現象が物理学の第一原理に直接繋がっているかもしれないと思える場合です。しかし、勿論そう思えるだけで、未だそれが正しい見方だとは解ってない。だから、自分で使っている言葉の意味も解っていない。要するに、興味は持ったが、自分では何に引きつけられたのか、そして自分で何を言っているのか解らない。そんな状況で役に立つのが日常の言葉なんですね。私の場合にはときどき英語で考えることもないわけではないですが、その言葉は主に日本語です。だから、私は日本語で考える。そして、自分の経験に照らして、自分の心に浮かんだ直感を頼りに、その日本語を数学の言葉に翻訳しようとします。この過程を、エンコードとでも言えるかも知れません。 ところが、自分で何に興味を持ち、何を言っているのか解らない状況ですから、そんな物を数式で表現しても、とんでもない頓珍漢な表現している可能性がある。だから、その先を数学の論理に頼って何か導き出しても、そんな物全く意味をなさないことがいくらでもあります。 また、自分の直感と日常言語で展開する論理的な帰結と、それを数学にエンコードして出て来る結論が、まるで違っているなんてこともいくらでもあります。多分、自分の直感と日常言語で論理を展開する過程のことを雨合羽さんは「デコード・オン・デコード」とでも表現しているのでしょうか。 で、そのような自分の直感に基づいた結論と、数学的論理を使って得られた結論が互いに矛盾していた場合にはどうするか。直感を信用するのか、それとも数学と言うコードの方を信用するのか。それには、少なくとも私にはきちっとした方法論が確立しています。まだ自分で何を言っているのか何を問題にしているのかが解らない初期の段階では、数学を信用することは私には出来ません。自分の直感を頼りに、自分の直感に整合するように数学的な定義を修正して行くのです。そうすると、段々自分で何を言っているのかが解って来る。要するに、デコード・オン・デコードで日本語を頼りに先に進むのです。そして、それをまたエンコードして数学的な論理を展開してみる。そうすると、段々と数学的な定義が曖昧さなしに解ってくる。だから、この段階では、物理屋は数学を使いながら途中でどんどん定義を変えて行ってしまいます。面白いことに、この部分で数学屋さんは物理屋に着いて行けなくなるようです。数学屋さんは、一度定義をした物を途中で変えてしまったら、そんなもの数学ではないと激怒します。でも物理屋ははじめから自分で何を言っているのか解っていないので、都合が悪くなったら途中でどんどん定義を変えてしまいます。 そうこうしているうちにやっと、定義がしっかりして来る。その段階が来たら、私は前と180度ひっくり返った判断基準を採用し始めます。最早、自分の直感も日常言語による論理展開も信用しない。この段階でもし数学の論理から出て来た結論と自分の直感が矛盾していたら、自分の直感を修正します。すなわちこの段階では、雨合羽さんの言葉では、コード・オン・コードで先に進みます。そして、最後にそれをデコードして、世界が日常言語でも表現可能になる。それが出来たときに、コードが仕組み上がったと確信が持てるようになる。だから、この最後のデコードに到達した段階でコードの存在が確信できると言う転倒した世界が現れる。 そのことを、雨合羽さんは >触れられないコードにデコードをかける、デコードが出来たときにコードが仕組み上がる、という転倒した世界に浸かっているのではないかしらと。 と纏め上げてみせたのかしら。工学屋さんははじめから世界をどう見るかに付いては自分の研究の中心テーマでは在りませんので、多分この見方は物理屋特有の見方なのかも知れません。

noname#130919
質問者

お礼

猪突先生の説明、いつもながらクリアーですね。コードの話ではあるが、数学者が物理学者に激怒する理由が角度を変えて、よくわかりました。数学者は一度定義したことは変化させず、シェーマなりを選んだら変えてはならないわけですね。物理学者は定義そのものを模索しているのであって、変化させても構わないという風に言えそうです。 文学研究も大家が打ち出した定説というのはあっても、決定的なシェーマというのはありません。だからインスピレーションがあって、それを形にして練り上げて行くというのは、文学研究も同じだろうと思います。 最初は直感的にパースペクティヴを決めて、それに沿って資料を読んでいくわけです。しかし読んで行くうちに、何かが違うなと思えば、最初の案はやめて、資料にあわせて、パースペクティヴの方を次々と修正して行きます。修正する中で、主要な文献の揃いが変わってきて、それが一揃いした後に参考文献一覧を作ります。そこで一端整理し直して、自分の問題的とは何だったのだろうと考え直し、枝葉を斬って捨てます。 最初からすべてを見切って議論できるのとは違います。そうできる人もいるかもしれませんが、それは既に蓄積がある大家が研究しているとか、まぁやっつけ仕事でいいかという時のように思います。ただ蓄積があると「おそらく~~辺りに目当ての資料があるはずだ」という感は働くので有利ですし、指導教官にパースペクティヴを最初は決めてもらった方がいいと私は思っているのです。何も知らない中で局所的に注目して、「ボードレールは~~だ」といっても、実は同時代の他の作家を見回したら、それは当たり前だったんじゃないの?ということは発生してしまうわけです。 ――逆に数学はそれが可能な学問なのですね。いや、それはすさまじいものだと思います。私はその点を味わうほどに数学を学びませんでしたが。

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