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 聖書の訳について、マタイの福音書5 「心貧しき人達は幸いである~」に

 聖書の訳について、マタイの福音書5 「心貧しき人達は幸いである~」について  KJVでみると Blessed are the poor in spirit: となっていますが 私の持っていた古い聖書には Blessed are they who know their spiritual poverty, と出ています。  日本語訳は同じです。  「心貧しき人達」とはどういう意味でしょうか?  私ははじめ後者の方を先に読み、(1)精神・魂の貧困・不足を知る者=魂の渇望を覚える者=(心の内に知らずして)神を求める者 と解釈していまた。   しかし前者のpoor in spiritでは単に(2)心の貧しい=卑しい・欲のままに生きるだけの・動物並みの、 とも解せます。    改めて考え直してみたらどっちの意味だろうかと迷います。 私の英文解釈も間違っているのかもしれません。    その後で「あなた方が自分を愛するものを愛したからとて、なんの報いがあるだろうか~」 という下りも有ります。  すると(2)の卑しい人達という事なのでしょうか?  しかしそれではどうにも道理が通らない気がします。    poor in spiritとは無垢・無知・無欲という意味なら分かる気もします。    私の疑問は二つに分けられます。    I、英文について、 who know their spiritual poverty =the poor in spirit なのでしょうか? 私としては、主観的自覚と客観的状態との大きな違いが有るような気がします。 或いは宗派によって解釈が違うのでしょうか?    II 、「こころまずしき人達」とはどういう意味でしょうか?   教会には30数年、行って無いものです。  久しぶりに手元の聖書を見てふと疑問に思った次第です。  どなたか分かる方宜しくお願いします。 、

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  • kigurumi
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回答No.1

ヘブライ語に戻すといいらしいです。 ヨブのような人。 ヨブは敬虔深い義人とされましたよね。 善い人だという評判により穏やかに暮らしていた。 そこで「ヨブは人々から善い人だと思われれば穏便に暮らせるから敬虔深くふるまっているのか、最初から義人だから敬虔深いのか どっちなのか?」とサタンが神に話しかけた。 それで、すべてもものを奪っても変わりないのか試すことになった。 プラトンの義人の証明と同じパターン。 義人と称されている人から名誉を奪い (紫の衣は名誉の高い人が着る服ですから紫の衣を剥ぎ取り。)十字架に磔にし槍で突いても最後まで、良い振る舞いをした人は、名誉の関係なく根っからの義人だったということになる というプラトンの論が、紀元前400年頃に出された。 そのプラトンの哲学の影響を受けて、ヨブ作家はヨブ物語を作ったのではないかと。 で、戻ってヨブはサタンによって子供全員を殺され、家畜を全滅させられ、家を燃やされ、奥さんから「なんかとんでもないことをしたんじゃない? 死ねば」と言われ、友人からも慰めの言葉をかけられず、すべてを失い、もう何も無いから神の前に立つしかなくなったんです。 信仰しか残っていなかったので、神の前に立って「てめー このやろう ごらぁぁぁ」とは言わなかったが、「なんでこんな目に合わすのですか、私が一体何をやったというのですか 私はバカだからこういう報いを受ける理由がさっぱりわかりませんので、教えてください」って訴えたんです。 この状態が 心が貧しい者。 つまり信仰しかもう残っていない極限状態のこと。 ヨブは極限状態になり、信仰しか残っていない状態になったことによって、悟りを開いたので、極限状態になり信仰しか残っていない <心の貧しいヨブ>はその状態になってやっと悟りを開いたので幸せだってことです。

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その他の回答 (15)

noname#118696
noname#118696
回答No.6

論語読みの論語知らずだったり brageloneとOtamaHJWRは何時も笑わせてくれる さすが自称キリスト者 自称サヴァンは自分の金くれ論理展開にキリスト教を利用し始めたりして この二人は互いに違うものを求めながら同じ餓鬼の香りがするんだ まぁ キリスト教界はおおよそ実践の伴わない宗教界と認識しているから 解釈なんて何でもいいんでわ

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noname#118692
noname#118692
回答No.5

そのまま素直に読めばいいんじゃないでしょうかね 権力者、金持ちにとってこの世は住むにまさに天国なのであるが 智慧として弱きものの生のために、その心性をして”心貧しき者”と表現したのだろう 金持ちがそれに反論して それは違う。私は金持ちであるけれども心貧しくはないと主張すれば、その人はがめつくため込んだ金を"心豊か"に貧しい人に恵んでやらなくてはならなくなってくるだろう 金持ちが反論しなければしないで欲の塊の”心貧しい”者という評価を甘んじて受けなければならないということになるだろう 権力、財力などを欲しいままにするを諌める意味ですかね... 富める者、強き者が弱き者の生を助けてこその 誰もが心身共に豊かに暮らすことができる世になっていく神なりの道であるとでも言いたかったんでしょうかね...

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  • cxe28284
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回答No.4

私も質問者さんの(1)の説と同様長年信じてきました。 そうでないと、後の天の国はその人たちにものであると接続して、 一つの文章としての意味をなすことが出来ません。 今日のゾーリンゲンお役にたつかどうか分かりませんが、入れておきます。 2010年9月30日 あなた方は、自由を得るために召しだされたのです。愛によって互いにつかえなさい。 ガラテヤの信徒への手紙5章13節 マリーヒュウジング ディアコニッセにて働く 主なるキリスト あなたの善なる霊の内に生かすために、私に自由を与えてくださいました事に 感謝します。 私があなたのために、出来ることは、常に新しく示された信仰の道をたどり、私の生き方を あなたに合わせることです。忠実なるものであるための力を与えてください。 そして困難の中にあっても毅然としていることが出来るように助けてください。 自分を愛してくれる人を愛するとは、動物でも可愛がってくれる人になつくじゃないですか、 相手に悪気がなくても、自分が被害者になることがあります。 そんな時自分が冷静であることが出来るか、?私は神にその答えを求め祈るしかないと思っています。 教会ではいろんな方の信仰の軌跡から教えられることも沢山あります。

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回答No.3

 こんにちは。  特にどうという問題はありません。  《貧しい》でも《心の貧しい》でもどちらでもかまいません。  元気づけています。  その言葉を聞いて元気づけられればそれでよいのだと考えます。  元気が出るのは ふつうその場限りのことです。わるく言えば 気休めです。  ですが 言葉に引かれるのか あるいはその言葉をとおして心にひびくものが感じられたかで のちのちまでその影響が分かれてあるはずです。  その言葉をあるいは声を聞いてすでにたましいがむすばれたのなら あとは生涯をかけてその羊飼いについていくことでしょう。  なまの声でなくても ゆすぶられたのなら そこには何かちからづよいはたらきがあるのかも知れません。  なぞでしょう。分かりません。

DellHnako
質問者

お礼

 ご回答有難うございます。  信者の方でしょうか?  私は昔親に無理やり連れて行かれた位しか、教会に行った事が無いし、別に信者だとも思っていません。   しかし昔、踏み絵に臨んで磔を選んだ殉教者達の話とかを聞かされた覚えが有ります。     その上で申し上げるのですが、昔の人達は今と違って純朴だったとしてもご回答の様な程度の認識で自分の命を差し出すでしょうか?     ご回答を頂いた方に逆にこの様な事を申し上げるのは失礼とは存じますが、もう少し深く考えなくては折角の信仰も蟷螂の斧になってしまいます。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

「心貧しき人達は幸いである~」 山上の垂訓の一節ですが「字づら」や表現方からでは解釈は難しいでしょうね。 まず「心が貧しい」とはどういうことかですね。それさえわかれば少しは理解できるでしょう。 「心貧しい」という意味は「愛が欲しい、愛が欲しい」と心が愛を渇望していることですね。 仏教ではこれを「渇愛=タンハー」といいますが、キリスト教では「心が貧しい」と表現しているのですね。 地上には愛を欲する者と愛を与える者の2種類の生き物が存在しているわけですがほとんどは愛を欲する者ですね。あの時代も、現代も愛を与える者は非常に少ない状況ですね。そういう状況でいつも愛の神が出現するのですね。 山上の垂訓では、愛の神イエスが存在しているのですから「心貧しき人達は幸いである~」となるわけです。「欲せよさらば与えられん」、我は愛(を与える)の神なり。といっているわけです。 とはいえ、イエスの話を聞いた者のほとんどは高尚過ぎて理解できなかったかも知れませんね。 そこでイエスは「心清きものは幸いである。あなた方は神を見るであろう。」といったのですね。 でもこれも少し消極的表現ですね。本当に言いたかったのは「生きて神(我)を見るは幸いである。永遠の王冠があなたの頭上を飾るだろう。」だったのでしょうね。 例え聞いている者に全く理解されなくともそのように垂訓は残しておくべきだったのでしょうね。 あの時代の者、いや現代の者にさえイエスの教えは高尚過ぎたのかもしれませんがそれほどイエスは高尚な神なのですね。

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