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「魂」なんてあるかしら?

amlethの回答

  • amleth
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回答No.16

「魂」があるかとの あなたの質問を讀み 成る程「魂」はあるものだと確信いたしました といふ答へでは 如何でせうか. だつて 考へても御覧なさい.この世の木石が こんな疑問を抱きませうか.「魂」が あるか だなどと.  しかも 同じやうな疑問が今までも 擇山[たくさん]あつたではあらうと「推測」をして 己を初心者と「評價」までする.かうした事は 木石にとれば 空前絶後 前代未聞の大々椿事でありませう.といふより 金々金輪際 在り得ぬ事です. それを あなたは いとも簡單に やつてのける.更には 己が肉體[たい]に指令して キー・ボードを巧みに操り 文章にして 投稿までする.全く 驚くべき事では ありませんか.これで尚も あなたに向ひ 「魂」が無い などといふ奴がありましたら この私が 張り倒して差し上げませう. 「魂」あるいは「もともとの自分」なるものは これほどに 他人の目からは その「存在」が明らかなものなのです.まあ 名稱[しよう]は どうであれ.ただし 己が己を見る時 どうにも中身が空であるとしか 考へられない.いくら綿密に 檢討してみても 手應[ごた]へのあるものが見出せない.フランスの作家 カミュなんぞも その「手帖」の冒頭附近に 「他人は誰でも 皆しつかりとした存在に見える」てな意味の事を 書いてゐましたな. これは まあ 致し方の無い事で 己の事蹟を振り返る事は出來ませうが 己を見詰める己自身を 更に見詰めるなんぞといふ 化け物みたいな藝當[げいたう]を 出來る者などありはしないのです.そこで何か 手應へのあるものを見附けたなどと 口走る輩[やから]があれば それこそ「キ印」で とてもとても 附き合へたものでは無い.あなた自身が あなたの中[うち]に 「魂」や「もともとの自分」を發見出來無かつた事は あなた自身の「魂」が 間違ひも無く眞面[まとも]であるといふ 證據[しようこ]です.そして 現在 あなたのをられる地點こそ No.11の jume さんの 述べてをられるデカルトの 「われ思ふ ゆゑに われ在り」の 世界の入口に 他なりません. さて この言葉の意味に關しては jume さんと重複をいたしませうが 念の爲. デカルトは 見るもの聞くもの感ずる處[ところ]を 總て疑ひ 實在[じつざい]すると「感ぜられる」ものは 實の處 さうした感情に惑はされてゐるだけで 本當[たう]には存在せぬものかも知れぬでは無いかと 總てを捨て去つて後 螻蛄[をけら]となつた己の姿を 眺めたのです. いやいや 眺めたとは 良い言葉です.まさに 魂の働きそのもの.物事は 眺める事が 大切なのです.デカルトも 方法叙説で 己の人生を 繪のやうに描かうと 書いてゐます.讀者が自分なりの判斷を 下せるやうにと.眞理 あるいは「魂」は まさに 暗喩あるいは隠喩(メタファー)の中にこそ あるのです.科學はそれを 見詰めに見詰めて 手に取らうとする.そして 魂を アドレナリンだのホルモンの働きだの 近頃は DNA だのに「還元」をして 悦に入る.しかし それでゐて どれ程の事が判るわけでは無い. いや さて.かくして「無一物」となつたデカルトは それでも 眞理を手に入れやうと 思ひ巡らすおのれの存在は もの思ふ働きのある以上 疑ひも無く この世に存在してゐるとの結論に 到達するのです.それだけは 疑ひ得ぬと. これが まさに 己と言ふ 「魂」の存在の 證明と言ふものです.デカルトは此れを 哲學の第一原理と呼び 物事を考へる方法の基礎としました. ここで大事な事は 己の存在の確実性を 「感じた」のではなく さうとしか「考へ」られぬ と確信をしたといふ點です.つまり 己そのものを 「感ずる」ことは 誰にとつても不可能な事なのです.そして 更には 不要なことであり 時に有害であるといふ意味の事まで デカルトは述べてをります. さて 「魂」の存在について デカルトを思ひ浮かべたところ迄は 先ほどの jume さんと私は 似てはをりますが  >あらかじめ与えられ、自立した「もともとの自分」(つまりデカルト的な自分)のようなものは存在せず、ただ人やものとの関係の中で、その都度、その都度、一回的に生起するものだと、僕は考えています。 との意見には 賛成出來かねる點があります. まあ しかし 「あらかじめ」といふ事になりますと この議論をする爲には デカルトが 神の存在をどのやうに「考へ」てゐたかといふ事を 問題にしなければならなくなりますし 「あらかじめ」の意味する處も 問題となりませう.まあ ここは 簡単に. 「その都度、その都度、一回的に生起するもの」との事は 現象的もしくは感覺的な觀點からは 理解出來ますが 「魂」の問題としては 「僕は考えています。」と書いてをられる點が 重要ではないでせうか.つまり jume さんの御考へは 決して 「一回的」では無い筈だからであります.私は 其處に jume さんの「魂」を 見るのですが. 追伸  下記の URL は プロジェクト杉田玄白 で公開されてゐる「もろもろの學問分野で、正しく理詰めで眞理を探究するための方法についての考察 」すなはち「方法叙説」のものです.とても讀み易い飜譯[ほんやく]であると思ひます.「あらかじめ」の問題なども 勿論ありますので 是非 御一讀を.

参考URL:
http://www.genpaku.org/dcart01/DCART10j.html
sowow
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 [方法叙説]も読みました。 大変面白かったです。 とくにデカルトさんが自分の思考環境をいかに自由に保つかに、苦心してる様は自分のことのように共感しました。 「一時的な道徳コード」などは、自分のやり方とほぼ同じだったのには魂消ました。この方法のおかげで普通の生活や幸せも捨てることなく、頭の中は、ほぼ自分の望む事だけで満たすことができる出来るわけです。 ただ恐ろしいのは、こんなに頭のいい人がここまでしても、間違えるときは間違いなく間違えるとゆうことですね、、。

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