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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:家制度についてお尋ねします。)

家制度とは?江戸時代と明治時代における意味とは

ohg-jiyaの回答

  • ohg-jiya
  • ベストアンサー率37% (354/940)
回答No.4

江戸時代には農民レベルで言うと、ムラ社会という生活共同体があり、五人組(五軒)とか庄屋単位などで連帯責任がありました。 江戸府中の町人も大家と店子(借家人)で連帯責任グループを構成していました。 明治以降はこのような共同体の最小単位を「家」に置き、その責任者として家長を置き、その集合体を国家という概念でくくったわけです。 現在の家族構成を「核家族」と称しますが、実は誰も核になる者のいない「非核家族」集合体です。 グループにリーダーが存在しなければ、よほどの内部合意が無い限りやがて迷走する。 江戸時代の年貢とムラ制度は、例えば年貢が納められなくてムラ単位で夜逃げするなど、かなり緊密な関係にありますが、明治以降の「家」を徴兵制度と直接関連付けて説明しようとするのはいささか苦しいと思います。

minamihako
質問者

お礼

お礼が遅くなり大変失礼しました。どうもありがとうございました。ベストアンサーは迷ったのですが、一番早く回答してくださった方にいたします。

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