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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文: 芥川の蜘蛛の糸)

芥川の蜘蛛の糸と世界宗教について

Self-Realiの回答

回答No.1

 小説、“蜘蛛の糸”に登場させられている釈迦というbeingは、善男善女の導きという役目での化生だと存じます。そういう意味では、つまり善男善女というものがいて、そういう人の宗教を称して世界宗教というのかもしれません。  宗教を質問者見たいに個人の問題とするならば、世界宗教っていうのは矛盾的表現で何を内包するのか分りません。  一般にはキリスト教とか仏教とか、ヒンドゥ教とか、ユダヤ教などは一応世界宗教といわれていると存じます。  ここにおける共通的世界や言語生活でのコミュニケーションということであれば、日本人の場合は不十分かも知れません。基盤的には神道の信仰態度が、ヒンドゥ教に通底する部分を持っているという見かたもあるようです。   普通の、善男善女でない人には、蜘蛛の糸の欺瞞的だという気持ちを持たせるとしても、まぁ小説ですからね。

krya1998
質問者

お礼

 ありがとう御座います。儒教や道教は、或いは老荘の思想は世界宗教には為りえないのでしょうね。  どんなに多くの方の精神の中に存在的になっても、みんなでいっしょにはぃ信仰というものではないということでは。  中国世界では儒教も道教も大衆化をしているようですが、基本根幹は大衆性ではないですね。  中国人の多くの方の精神性はやはり欧米や日本人の大衆信仰とは異なるものがあるようだし、そういう中で隠者的思考と生き方を泰然と持しおられる人もたくさんおられますが。  国際的コミュニケーションの場に立ち遅れているから、日本人は日本人であるだけにすぎなく人間以前のものだという思考とフレーズは奇抜で意表を衝いているようでありながら、そのいうところの国際性というものに「ちょいとまってくれ」といいたい。  或いは馬鹿馬鹿しいといいたい、という人も多いでしょうね。  ありがとう御座いました。第一、中傷的人間、想定的人間って居ないですよね。  日本人なら日本人としての歴史的心性を展開して、国際的に通じていく普遍性を醸成していくことですよね。  それはどの民族、国民、宗教にも、信仰や心性の言えることですよね。

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