危険思想者?イジメと反撃の物語

このQ&Aのポイント
  • 大学文芸部で執筆した作品は高く評価されたが、一部の人からは思想の暴力性を指摘される。主人公のキメ台詞に込められた思いとは?
  • イジメ被害者がクラス全員を味方につけて反撃するストーリー。自己防衛の欲求を描いた作品が心理的なゾッと感を生む。
  • 主人公が自身の経験をもとに執筆した作品は、被害者の立場からの正義を追求する形で展開する。この作品が持つメッセージとは?
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僕は危険思想者なのでしょうか?

僕は危険思想者なのでしょうか? 何よりを話を書いたり考えたりするのが好きです。 大学では文芸部をやっていたのですがその時の話です。 親友をイジメで失った主人公(女)が、クラス全員味方につけてイジメっ子に報復する話を書きました。 幸い作品自体は簡潔性やストーリーのインパクトが評価されて、在学中の僕の作品の中では最高の評価を頂きとても嬉しかったです。 しかし1部の人には「先輩、思想が暴力的すぎますよ」って言われました。笑いながらですけどね。 確かにゾッとはしますけど、虐げられた者からすれば当然の心理だと思ってその話を書きました。主人公が間違っているとは思っていません。デスノートの夜神月だって正直正義だと思っています。下記は主人公のキメ台詞の数々です。 僕は危険な考えの持ち主なのでしょうか? ※別に僕自身にはいじめられた経験とかありませんよ 「私はあいつらに自分がやったことを思い知らせてるだけよ。」 「やられた分だけやり返したら自由にしてあげるわ。まあ大抵耐え切れずに自殺しちゃうんだけどね。世の中って本当にうまくできてるわ。」 「こんなに苦しいとは思わなかった? だから自分のやったこと棚に上げて許してくれっていうの? アハハハハ、通らない通らない。」 「強い者は弱い者の全てを決めていい。あんた達が言ってたことじゃない。だったら黙って受け入れなさいよ。」 「私、昔飼い犬を殴り殺したことがあるの。私のことナメててどんなに優しくしても噛み付いたり暴れたりするばかりだったわ・・。その犬はある日私の大切にしえたオウムを殺した。私はバットで殴りかかったわ。最後の瞬間、その犬は哀れな目でこっちを見ていた。許してやろうかとも思った。でも『こいつが嘆いているのは自分の悪行じゃなく、私なんかに出会ってしまった自分の不幸』こんな考えが頭をよぎった瞬間私はバットを振り下ろしていた・・。 ・・今、ちょうどそんな気分よ!!」

質問者が選んだベストアンサー

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  • aymhfgy
  • ベストアンサー率43% (1472/3372)
回答No.5

架空のおはなしを書いておられるだけで、危険でも何でもありません。ごく普通の若い人の平凡な心理状態を書かれているだけで暴力的でも何でもなく実に健康的で明るい、普通の感受性の青年の質問者さまと思います。 現実の人間の心理というものは複雑でもっともっと底が深く、恐ろしいものだと思われます。

keikei22
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 同感です。 現実の争い・妬み・人間関係・・。そういったものは、もっとドロドロしてて重いものだと思います。

その他の回答 (5)

  • hikarucou
  • ベストアンサー率28% (268/955)
回答No.6

危険思想じゃないですよ。よくありがち。 でも作品として無理がある。 リアルとしてはあることだなと思えるけど、小説にするとこれだけではただ復讐するだけの話になるから意味はあまりないです。 作品としてラストまで書くなら、復讐をした主人公もまた復讐された人の関係者に復讐されないといけない。それが延々続くのが人間というものだから。 どんなに嫌なことをされたって、泣き寝入りしないでお返ししてもいいけど、自分もされることをわかっていないとね。されないで終わるのは都合がよすぎるよ。 なんにだってそうだけど対価はいるから。 そういう意味で、いじめってむなしいだけなんだと、読み手に教えないと、ただの復讐物語になり得るものはなんにもない。だからつまんないですね。

keikei22
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 うーん、確かにその観点は抜けていました。 いじめへの怒り・悲しみ・復讐心。そういったものを出すだけで終わっちゃいましたからねえ。 おそらく僕は心の内では「いじめはやったらやりっぱなし」だと思っていたんでしょうね。 だから戻ってくるという発想がなかった。でも主人公はどこかで苦しい目を見ることになるでしょうね。

  • Tori_30
  • ベストアンサー率27% (653/2415)
回答No.4

#3です。ちょっと勘違いしてたので。 主人公は別にいじめられっ子じゃないんですね。親友を亡くした立場なんだ。 う~ん。そう考えると更にリアルって言うか、なんというか・・・。最後に挙げたセリフも俄然、筋が通ってくるよね。「既にそういう感情体験を経た子だから今回こういう事件を起こしたんだ」という納得。納得のセリフ回しっていうか。まさに#2さんが仰ってる事に合致するっていうか。(登場人物に一貫性がある) 「実際にこんな事妄想した事あったんじゃないの?正直に言ってみなさいよ。うりうりw」 って言いたくなるレベル。すごいと思う。 貴方自身は危険思想者じゃないんだろうけど、そう疑われるのも仕方がないような気がする。生々しいから。それだけ、作品のリアリティがすごいって事なんだろうね。

keikei22
質問者

お礼

色々と褒めてくださってありがとうございます! やっぱりそう言われると嬉しいですねえ。 大抵の作品は感情表現のシーンが山場になりますから、主人公の怒り悲しみの深さを盛り込んだらこうなっちゃいました。 そういった意味では「危険思想と疑われる」というのは褒め言葉ともとれますね。

  • Tori_30
  • ベストアンサー率27% (653/2415)
回答No.3

限界超えたら人間こうなっちゃうだろうな・・・って素直に感心出来た。なんていうか、きちんと心理を掘り下げてると思う。リアリティあると思う。僕自身、そういう気持ちを抱いた事がある(ここで言うのはちょっと抵抗あるけど・・・いじめられっ子でした。)からこそ共感できる心理っていうか・・・「あるある」っていうか。 多分、だからこそ「先輩、思想が暴力的すぎますよ」という感想が出たんだと思うけどね。(作者自身がそういう感情体験を経てきたとしか思えない生々しさみたいなものを感じたのかも?) ↑これってほとんど最高評価だよね。リアルという面ではこれ以上ない評価だと思う。 想像力が豊かって事なんだと思うよ。思い遣りがあるんだと思う。他人の立場にたって考える事が出来てるっていうか。苦しさに対する共感っていうか。 それか、現実主義者なんだろうね。一切の理想を入れない。(まあ、いじめられっ子が仕返しするってのが設定上のファンタジーなんだけどさ。それ以外の心理描写の部分に聖人君主みたいな理想を入れてないって事。)いじめられっ子の心理を筋道立てて想像すれば、このような描写になるのは妥当だと思うよ。 恐怖を抱くとすれば、その想像力に対して。これってホントに想像の産物ですか?と言いたくなるぐらい生々しい。特に最後に挙げたセリフなんてリアル過ぎて怖い。(セリフに筋が通ってる。その背景、心の動き、人間らしさ)自分が思ってる事なんじゃないの?という疑いが出るくらい。 まあ、他の回答者さんが仰ってるけど、世の中の小説家はみんな危険思想者になっちゃうよね。 ただ、一昔前の日本がまさにそうだったんだよね。思想犯として作家が捕まったりしてた。作家は危険思想者。言論の自由がなかった頃の時代だね。 今はそうじゃないから安心して下さい。

noname#132831
noname#132831
回答No.2

 合理的ではないけれど、人間としてありがちな思考ではあると思います。自分の機嫌が悪いのは、他人のせいであると思いやすい人というのは、自らの感情を自らコントロールできない人に多いようです。いやぁ、人のことを言える身分ではありませんが^^;    http://www.counselingservice.jp/lecture/lec167.html    http://www.h5.dion.ne.jp/~takata/10/0.html    http://yukiduke.jp/kyoizon2.html    http://www.katotaizo.com/lecture/index.html       「何が人づきあいを難しくするのか」

keikei22
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうなんですよね。 僕の書いた主人公も、感情をコントロールできずに支配的な思考を持っていました。 「あんなこと許せない。だから自分にとって正しい罰を与えてやる」って感じでしたね。 でもやっぱりなにがあっても、誰かを思い通りに操ろうとする人は不幸ですよね。

  • datchi417
  • ベストアンサー率27% (515/1904)
回答No.1

小説家がいちいちそんなことを言われてたら、作家さんなんて国家反逆罪級の人とか、成人小説ならスペシャルな変態さんがコロゴロいますよ…

keikei22
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 たしかに世の中には過激な作品ありますし、支持もされますもんねえ(笑)

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