- 締切済み
学生運動について教えてください。
学生運動について教えてください。 昭和43年(1968年)生まれです。 昔の学生運動とそれを取り巻く社会の時代の空気のようなものに大変興味があり、本など読んだのですが、「今とは根本の常識から違うのか?」と思うような疑問がありますので、ぜひ教えてください。 最大の疑問は、「学生や一般市民が、なぜ暴力を行使することをためらったり否定しなかったのか?」です。ここで言う暴力とは、安田講堂立て篭もりのような武器力を使った抵抗から、後期のセクト間抗争での殺人まで含みます。 私はマルクスの著作は読んだことがないのですが、以前このような内容のことが書かれていると聞いたことがありました。 「革命は暴力によってのみ達成される」ということだそうです。 どういう意味なのか自分なりに考えてみました。 自分なりの解釈としては、 「暴力に因らない権威体への異議申し立てや抵抗の手段として、合法的な手続きがあるが、法の立案から執行まで全てが権威体によって掌握されているため、既存の権威体を覆すには法を超えた闘争手段が必要。 もともと人間社会の権威=序列は、自然発生的には力(暴力)の強さで決まってきたと思われる。しかし暴力による不幸を回避するために法治が生まれたのだが、権威というものが法で守られている以上、これを覆すには敢えて法治の枠外の手段(つまり暴力)以外には手段はない」 ということではないかと考えました。 この解釈で合っているでしょうか? また、素朴に当時の市民に感情移入してみると、普通の学生が角材を振り回したり火炎瓶を投げたりして警察を傷つけたり、逆に傷つけられたり、また何らかの正義感に基づいているにしても東大に入学したいと思っている無関係な受験生に迷惑をかけたりと、自分には共感できないことが非常に多いです。 市民は中期までの学生運動を支持する空気だったと読んだことがありますが、人同士が傷つけあう痛々しさや恐ろしさ、社会全体の公益性を損なう面もあることについての嫌悪感などは感じていなかったのでしょうか? 宜しくお願いいたします。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
みんなの回答
- fumiyahama
- ベストアンサー率44% (48/108)
昭和43年(1968年)生まれです。>>>>私は昭和43年4月~昭和44年3月まで、卒論研究で東大にお世話になっていました。ですから、東大紛争のその生々しい雰囲気を肌で感じこの目で見ています。 まず、質問者はマルクスの「暴力革命論」のようなものをいきなり持ちだされていますが、なんでそういう固定的な考え方になるのかなと正直思います。立て看板やアジテーターを聞いていても、『革命』というような言葉は聞いたことは私の場合まったくありません。当初の学生運動は日大紛争にしても東大紛争にしても、授業料値上げ反対とか医学制度改正反対とかでした。 私はその当時にはマルクスなんか読んだこともないノンポリ学生でしたが、その時代の子ですから、学生運動用語やセクト名とヘルメットの色とデザイン程度は理解していますが、そのようなノンポリ学生からみても違和感のない要求だったと覚えています。 確かにこの時代、現代に比べ暴力的雰囲気が無かったかと聞かれると、「あった」と躊躇なく答えます。東大紛争の一年ほど前にアルバイトを行ったことがあります。ある大学の通用口で学生証のチェックをするアルバイトでしたが、その大学では平和的な学生集会に対して建物上部から砲丸が投げ落された事件がありました。集会に反対する右派学生が怒ってやったという話でした。砲丸が当たれば致命傷になりますから、すごく暴力的でしょ、右も左も。 学生達はバリケード封鎖を行っていますが、当時の労働争議は現代と違ってかなり盛んで、工場に立てこもって一週間の長期ストなど行われていました。そのようなストライキに対して、経営者も大相撲での野球とばくで話題の「反社会的集団」などの力を借りてスト破りを普通に行っていました。そのストライキ破りに対抗してバリケードによる工場封鎖を行うという風潮になっていました。今思えば当時の学生は、右も左も大人の真似をしたのですね。 東大紛争に話を戻しますと、秋になる頃には、学生集会の人口密度がものすごく高くなってきました。東大の学生や教官の数だけであんな密集状態にはなりませんし、ヘルメットの数も増加しその色の種類も増えました。その連中は妙にジグザグ・デモも上手なんですね。見事でしたよ。共産党系の民青の集会の人数も、東大にこんなに民青がいたのかというほど大規模になりましたねぇ。東大紛争は、あの当時から、東大生や東大教官の手から離れたのでしょう。安田講堂の攻防はテレビで見ました。東大には近づくことも出来ませんでした。 私の知人にも、学生運動に参加して日大紛争ではバリケードに立て籠もって闘った人は、地方に帰って中小企業の名社長になっているし、京大闘争で石を投げていた人は、技術官僚となって良い仕事を仕上げて無事退職、民間企業に再就職しているが、東大紛争を契機に職業革命家になった等という人は聞いたこともない。あっても極めて少ないだろうし、いわんや殺人者になった連中は殆どいませんよ。当時の学生運動=新左翼運動ではなかったし、多分、新左翼の運動=マルクスではなかったと思いますよ。