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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:宗教の本質 十ヶ条)

宗教の本質 十ヶ条

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.7

 再び失礼します。 >>なのでここでは数百万年前の原人の時代にまで遡る必要はなく、およそ人間の文化が歴史的に認められるようになった時期(おそらくは数千~数万年前)をもって”人類の誕生”とします。  なるほど、人類の誕生をそのように定義していらっしゃるんですね。  確かに進化論学的にも「現生人類」という言葉も、おおきく二つに分かれています。一つは「解剖学的な現生人類」、もう一つは「現代人的行動を具えた現生人類」ということです。前者は1987年に行なわれたミトコンドリアDNAの解析によって20万年前頃に現れたと言うことで落ち着いています。後者は20世紀末までは5~4万年前に一遍に現れたと言われていましたが、これはヨーロッパ的な差別観より生まれた説と言われています。これについては、考古学者サリー・マクブレアティ氏とアリソン・ブルックス氏は現代人的な行動は一遍に現れたものではなく時間的に幅をもって現れたとして、14万年~10万年頃に現代人的行動を具えた現生人類となったと言われます。私もこのような説により、「宗教的心情」や「呪術」といった宗教の前段階から脱した、現代的な「宗教」と呼べるものはこの頃に成立したのではないかと考えています。ただ、私にしてみれば「宗教的心情」をもった時点で「宗教」という定義で考えていますのでもっと前の段階に興味がありますが、g3452sgpさんはその辺は興味お持ちでないようなのでこの辺にしておきましょう。  ただg3452sgpさんの、数千数~数万年前が人類の誕生としていらっしゃるのは、どのようなことを論拠としていらっしゃるのでしょうか?? >>ここでの論点は宗教は人類の誕生とほぼ同時期に、そして地球上のどの場所でも例外なく発生した、つまり宗教は人類の誕生と共に自然発生したという事実です。  つまりここで言う人類の誕生とほぼ同時に宗教が発生したと言うのは「人類の文化が歴史的に認められる時とほぼ同時に宗教は誕生した」と言うことですね。 >>1+1=2を含めあらゆる認識と学習の全て、物理、化学、数学、社会学、経済学、建築学、音楽、・・・・つまり人間が学ぶことの全てが宗教となります。  これは誤解です。人間の認知機能は物理学専用、化学専用、数学専用等々に分かれているわけではなく、全ては複合的に組み合わせによって認知しています。つまり、宗教だけが特別な認知機能から生まれているわけではないということです。だから、宗教も他のものと同様に「人間の認知機能」と「その対象」の表象であるということです。 >>100ある宗教のうち99までが悩み、苦しみからの逃避手段として利用されたとしても、それは宗教の本質ではないといえるだろうか。 >>100ある宗教のうち99までが統治の道具として利用されたとしても、それは宗教の本質ではないといえるだろうか。  「書体」の本質は「支配」ですか??  『ヘルベチカ ~世界を魅了する書』の中でマイケル・ビェルート氏は「何か1つ書体を選び、継続的に使用することで、そこに支配力が生まれる」と述べておられます。  例えば、アップル社はGaramond系の細いセリフ書体を使っていましたが、現在はMyriad系のサンセリフ書体に変わっています。それから、この書体を前面に打ち出してブランドイメージを確立し、現在のようにiPadやiPhoneなどの商品を爆発的人気を世に送り出している。この書体を変えると言う転機が、今のアップル社の人気を作り出したともいえます。だからこそ、企業やブランドは自社のロゴマークなどの「書体」を考えるのに時間を割くのです。このように、書体は人間を支配できるわけです。  100ある書体のうち99までが、人を支配するために利用されたとしても、それは書体の本質ではないのだろうか??  私に言わせれば違うのですが、g3452sgpさんいかがですか?? >>世にある宗教の多くは肥大化することを第一目標にしており、このため、 >>信者集め → 高額なお布施料、葬儀料 → 巨大神殿建造 → 国政参加  >>と邁進するものです。  これは、いわゆる「世界宗教」の持ち得る特徴ではないでしょうかね。まず、目標を「肥大化すること」をおいていらっしゃいますが、「民族宗教」はこのような特徴には当てはまりませんよ。特に「民族宗教」の特徴としては信徒の範囲が特定の民族・地域に限定されていて、それ以上広がり続けると言う特徴は有していません。より範囲を狭めれば「部族宗教」と呼ばれ、その部族から外に伝播することはありません。世界的歴史で見れば民族宗教・部族宗教もかなりの数になりますよ。  文字数がなくなってまいりましたのでこの辺で。急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。  合掌 南無阿弥陀仏

g3452sgp
質問者

お礼

ここで宗教の本質について考える理由について述べなければなりません。 一つには現在の宗教界の荒れ果てた姿です。 これについては衆目の知るところであります。 仏教界は文化財保護と宗教歩人法を盾に、布施料、戒名料の要求ばかりしか考えず、これを仏教界にのみ認可された独占業務であると勘違いしているという状態にあります。 要するに宗教をビジネスとしか考えていないのです。 2つ目は、歴史を振り返ったときに見えてくる宗教界の姿です。 キリスト教に支配された長い長い中世ヨーロッパの暗黒時代。 日本でも仏教界が権力を握った時代がありました。 信長の時代、比叡山が権力闘争に明け暮れていた時代、そいて焼き討ちの裁き。 3つ目は身近にみる宗教オタクたちの哀れな末路であります この乱世の世の中最後に信じるべきは宗教ではなく自分自身であるということを悟る姿です。

g3452sgp
質問者

補足

  浄土真宗のお坊さんがGaramond系の細いセリフ書体とかMyriad系のサンセリフ書体、あるいはiPadやiPhoneの話を持ち出すとは意外でした。 ほんとに世の中変わったんだな~、と思いました。    

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