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これは宗教ですか?

身内や友人など親しい人が亡くなったとします。 ただその人の事を想う。 これは宗教心というのですか? 人は草木や獣ではありませんから、親しい人が亡くなったらそれはそれは悲しく寂しい事でしょう。 そして、来る日も来る日もその人の事を想う日々が続くと想います。 心の中のその人に向かって話しかけたり、一日が終わって寝る前に一言声を掛けたり、写真を見て涙したり話しかけたり、などなどをする人もいらっしゃるでしょう。 しかし以下のような考えでも、亡くなった方を想うというのは宗教心の表れなのでしょうか。 ●亡くなった人が、(例えば)天国、地獄、霊界、冥界等々、別の世界に行ってしまった、という概念を持たない。 ●数珠、仏壇、聖書、十字架等々は持たない。 ただし、写真や亡くなった人に縁のある物品等を肌身離さず持ったり、話しかけたりする行為は別。 ●手を合わせて拝んだり、十字を切ったりしない。  宗教の現れだ、という場合は、何教になるのでしょうか。  よろしくお願いいたします。

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回答No.6

宗教は”もとの教え”と読みます、本来生きている人間のために、人間として、人生をいかに生きるべきかを教えたものが宗教です、その教えを信じて行ずる心を信仰心といいます、とかく宗教というと現代社会では、人の死とつなげたものを宗教であるかのような錯覚をしがちです、これは宗教界の側にも責任があることと私は思います、仏教に限っていえば、僧侶が葬式をしなければ、死者が成仏しないなどということは、どの経典にも書かれていません、亡くなられた方を思う気持ちというのは、人間の持つ情の現われで、宗教心や信仰心とは、本質的に違うものであると思います、人の死=宗教という概念は、数百年以上にわたって日本の宗教文化が、宗教そのものを神秘化し、一般の人たちに、死=宗教、宗教=死という概念が出来上がってしまった結果であると思います。

oshiete7
質問者

お礼

葬式って不思議ですよね。 亡くなった方が主たる立場ですが、お金を払って戒名、法名を付けるか等々その他全てを決めるのは遺族、、、いざ自分が主人公となる場合は、自分はもういないから自分では何も決められないですし。 もちろん生前に遺言で全てを決める事も出来るでしょうが、実際その様な用意をされてる方沢山いるのでしょうか。  死はいつ来るか解りませんし、若くして遺書を用意している方も珍しいのでは。 とても解りやすいご回答ありがとうございました。

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  • Wendy02
  • ベストアンサー率57% (3570/6232)
回答No.10

こんにちは。 丸一日掛けて考えてみました。 >身内や友人など親しい人が亡くなったとします。 >ただその人の事を想う。 これは、きっかけにはなるけれども、宗教心ではないと思います。宗教心というのは、人の心の中に共通する哀しみに気が付くことだと思います。 イエス・キリストも、釈迦も、人の心の底にある、どうしようもない苦しみや哀しみをどのようにして癒すか、ということから始まり、教えが広がっていったのだと思います。 でも、 >日本人の場合宗教に無関心でいても実際には仏教です それは、日本教であって、日本仏教は、洗練されシステム化させた鎮魂の儀式の1つだと思います。日本人は、総じて、迷信は信じても、はっきりした宗教意識をもった人は少ないと思います。 生まれながらの宗教はあっても、宗教として信じなおすようなことはほとんどないし、また、そうした教育機関や施設も、新興宗教以外はありません。生まれながらの宗教しかない、というのは、日本もインドも同じですが、それをやめることは、家族や地域を捨てることで、死ぬことすら思いのままにならないことだと分り、まさか、そのような重いものだとは夢にも思いませんでした。子供の時から、そうやって教わっていれば、驚かなかったと思います。それを知った時に、私は、とても寂しく哀しかったです。

oshiete7
質問者

お礼

>丸一日掛けて考えてみました。 私のクダラナイ質問のせいで貴重な一日を潰してしまったようで、、、。 >生まれながらの宗教しかない・・・(中略)・・・それを知った時に、私は、とても寂しく哀しかったです。 なかなか意味しんなご意見ですね。 まだ熱で頭がボーっとした状態なので、深く理解する事ができませんが、とても参考になる意見ですね。  ありがとうございました。

  • geihoku
  • ベストアンサー率20% (20/98)
回答No.9

人類が、猿人から進化する途中で、人間と認められる痕跡として墓を作ったことであるそうです。 死を意識することにより人間となるならば、宗教とは原初的なものでしょう。なぜならそこには死後の世界に想いを馳せるという心があると思うからです。 何教になるかですが、その人それぞれ人生で出会って心に残っている宗教になると思います。

oshiete7
質問者

お礼

お墓を作るという事と、死後の世界(要するに宗教?)という概念とは同じという事なのですか。  >その人それぞれ人生で出会って心に残っている宗教になると思います    今現在、国公立の学校では特定の宗教の教義を教える事はないと思いますから、特定の宗教の中身を見るには、自分から門をたたくか、勧誘に来た宗教に入るか、というあたりでしょうか。 今の世の中、“真”の宗教との「出会い」自体が少なくなってきているのかな、と思うこのごろです。 亡くなった親類等の葬儀や法事などで、一応宗教を体験?する方も沢山いらっしゃると思いますが、双方がほぼ義務的に行っているだけの所も多いでしょうし、それらも心に残る「出会い」となるかは多少疑問なのですが、、、。苦笑 逆に、「汝、殺すなかれ」とか、「目には目を、歯には、、」などの方が有名なのでは?(これは国公立でも習いませんでした? 苦笑 「ハムラビ法典」は宗教とは違うかも、、、 ) 学術的側面からのご回答ありがとうございました。 とても参考になりました。

oshiete7
質問者

補足

この場をお借りしての補足ですが、No 8、9、10、11の回答者さんへのお礼は、風邪を引いて高熱中に書きましたので(この補足も)、多少支離滅裂な事も書いているかもしれませんが、そこら辺はあしからず。 すみません。(それ以前から支離滅裂である、という事は置いといて。。。汗)

noname#117439
noname#117439
回答No.8

日本人の場合宗教に無関心でいても実際には仏教です。 「人間」という言葉を「仏」という言葉の現代語訳だと思えば話はかんたんです。 同じ不完全な人間同士が支えあう心、調和を尊ぶ和の精神、これらは聖徳太子の時代から日本に根付いた仏教文化の恩恵です。 宗教的儀式に無関心でいても仏教に対する敬意だけ持っていれば日本人は十分です。

oshiete7
質問者

お礼

>日本人の場合宗教に無関心でいても実際には仏教です そうですね。  昔、「無宗教」と自称する人は研究に研究を重ね、結果「~であるからして“神”などいない。」と論理的に説明出来るうる人だけだ、と誰かが言ってました。(誰かは覚えてないですが)   今の日本人は多くの人が自称「無宗教」を唱えていますが(私も)、しかしその多くの人が無意識的に「なにか」にすがりたい気持ちも同時に持っているのではないかな、とも思います。 しかし既存の宗教がそれに答える懐をもっておらず、その結果「カルト教団」なるものにすがる人が思ったよりも多いのではないかなと安易に想像してしまいます。  とても参考になりました。 ご回答ありがとうございました。

  • yenen
  • ベストアンサー率27% (16/59)
回答No.7

去年父親を亡くしまして、春に一周忌を迎えます。 喪主として精一杯の葬儀を行いました。 菩提寺である曹洞宗の御住職にお願いし、戒名もつけていただきました。 私自身、宗教心があるとは思いませんが、そうしないと葬儀というシステムが成立たず、 お世話になった方々にお礼の言葉を伝える機会がありません。 一緒に仕事をしていたので、いつもこんなとき親父だったらどうするだろうと考えます。 親父が乗っていたのと同じ車とすれ違うときは平常心ではいられません。 私は故人が別の世界に逝ってしまったとは思いません。 もう会うことができない、一緒に酒を飲めないと思うだけです。 葬儀に参列するとき数珠は持ちますが、信仰心からではなく喪服を着るのと同じ気持ちで持ちます。 故人に対して感謝を込めて手を合わせますが、神葬祭なら二礼拍手します。 もし、その宗教の葬儀が太鼓を叩くのがしきたりなら叩きます。 私が父を想う気持ちは宗教とは関係がないと思っています。 宗教とは誰がが作った指標なんだと思います。 私は自分が経験したり、見たものでないと信じることが難しいので、 誰かの作ったものはなかなか信じられません。 宗教の勧誘を受けると時間を作って話を聞くようにしています。 勉強になる話はたくさんありますが、まだ、宗教を信じようと思ったことはありません。 人は草木や獣ではありませんが、 私がこんなにも想う父の命と、今気づかずに踏み潰した蟻の命と地球にとって同じ重さだと思います。 参考になるかわかりませんが、私はそんな風に考えながら、社会人として生活しています。

oshiete7
質問者

お礼

お父上の事、御愁傷様です。 >人は草木や獣ではありませんが、私がこんなにも想う父の命と、今気づかずに踏み潰した蟻の命と地球にとって同じ重さだと思います。 もしかして質問文を誤解なさってるのかな、とは思いませんが、一応私の文の意味を申し上げますと、 草木や獣はそれらの家族、知り合い?等が死んでも、人間の様に嘆き悲しむ能力を持ち合わせていないのでは、という意味合いのつもりで書きました。 しかしそれとは別で話が脱線しますが、私はヒトと他の生物とではやはりその命の重さは異なるのでは、という考えを持っています(地球から見た場合、重さが焦点になるのかどうかの話は置いといて)。 こう言うと殆どの人が“自動的”に、命を粗末にする人とか、人以外の動植物の命などどうでもよいと考える人、と結論付けてしまうのですが、もちろんそうではありません(かといってそれについて論文になる程の理論も持っていませんが)。  ココでは質問文との趣旨が違いますのでそれについてはこれ以上書きませんが、少なくとも、人が死ねば悲しいが他の動植物が無駄に死んでも別に構わない、という考えは持っておりません。 また、ご回答はとても参考になりました。 ありがとうございました。

noname#15514
noname#15514
回答No.5

 愛する者の、形見や思い出を、いつまでも胸に抱いているうちに、遺された者は、ぬくもり、癒され、生まれ変わり、やがてそれは、人の胸のうちの永遠において、宗教的なるもの(この世ならざるもの)へと、なってゆくのではないでしょうか。    言葉でもなく、思いでもなく、形でもないものへ、只、それを繰り返してゆくうちに、どの人も、(この世ならざるもので)繋がれて行くのだと、私は深く思います。  だから生きている人は、この世でもあの世でもなく、この世とあの世の合わさる所に、生きているのでしょう。 答え。まさに宗教心(宗教的なるものへ向かう心)と、言えます。    残照に彩られた西の空 尾根に架かるあなたへの愛 死してなお変わらず 

oshiete7
質問者

お礼

なるほど。 亡くなった人を想うと言うことは、心の中だろうが何処だろうがその人を「存在」させると言うことになるのでしょうね。  そして、そこを人は例えば「あの世」と呼ぶのでしょうか。  そして、その人の事を想う間は、我々は完全にこの世にいる状態ではなく、あの世とこの世の狭間にいるのですね。 そしてそういう事などが宗教の概念の一部と考えられるのでしょうか。 詩的で美しいご回答ありがとうございました。 とても参考になりました。

  • bo-suke
  • ベストアンサー率23% (58/242)
回答No.4

そもそも宗教と言う概念が非常に家族類似的な広がりを見せているので、ここから宗教の現れ、ここから宗教じゃない、と言う区切りは不可能でしょうね。少なくともこの思いからキリスト教やシャーマニズム、以下もろもろの宗教が現れたのは明白なのですから、そういう意味では宗教でしょう。しかし現代における宗教というのは、科学と対比的に述べれば科学のような証明は不可能なものを信じる、と言う側面も確かにあります。 しかし少し考えて見ると、宗教と言うのは葬式を行なったり喪服に着替えたりして何か儀式をしていることが多いですね。これは何のためといえるでしょうか。 きっと、そうすることで何かなくなった方が助かる、あるいは亡くなった人に何かしてやれたことになる、そういう気分が得られるのではないか、と言うのが一番無難な論拠になるのではないでしょうか。 つまり、ただ死者に対して思いを寄せるのではなく、そこに儀式を加えることで、社会的に、精神的に、その両方で安定を得させる準備をしてやると言ったところではないでしょうか。つまりどちらかと言うと宗教とは死者に対してではなく死者を想う者に対しての施し、慰みということが、この観点からは言えるでしょう。 したがって、私としてはその死者への想いを「安定化させる」ことが重要な宗教のもう一つの要素だと考えます。

oshiete7
質問者

お礼

>科学と対比的に述べれば科学のような証明は不可能なものを信じる、と言う側面も確かにあります。     人が亡くなり悲しむ、と言うのはある意味科学で証明できるのかもしれませんね。 だとすると、宗教的側面は薄いと見てみるべきなのでしょうか。    人が亡くなれば悲しい、その必然的でマイナスな心の要素を少しでも取り除こうとする事が顕在化された形が宗教の範囲内に関連していると言う事でしょうか。  親しい人が亡くなった悲しみは大抵時と共に和らいでいくと思いますが、既存の宗教の教えに基づいた行為を行うことが、その悲しみを和らげる早道、といったところなのでしょうか。   やはり難しいです。  とても参考になるご回答ありがとうございました。

回答No.3

あなたが書いておられる、 亡くなった人を思いつづけるということは 宗教の現れとは思えません。 私は宗教とは絶対的な存在を信じ崇拝する ことだと考えます。 例えば古代の人が、嵐にあって村の住居を すべて壊されてからは、もう二度とそんなことを 起こさないように天に向かって祈るようになったら そんなのが宗教の始まりではないでしょうか。

oshiete7
質問者

お礼

なるほど、宗教ではない、と考えてもよいというご意見ですね。  大変参考になるご意見ありがとうございました。

  • sensei0
  • ベストアンサー率36% (27/73)
回答No.2

宗教は 親しい方が亡くなったときばかりではなく 生活をより豊かに、社会を安定するために 存在するのだと思います。 私は無宗教ですから、宗教とは人間が 知恵と創意でつくった「モラルのお手本」だと思っています。 旧来からある日本の武士道やサムライという考え方も、人の模範になるという意味では宗教に似ていますね。 あなたの友人の死別というケースでは、 1悲しんでいるショックをより小さくして元気にさせる(「実は魂で生きてるんだよ」ということですから) 2亡くなったかたの軌跡を大切にし、後世のお手本として残す(歴史に学んで過ちをさせない社会を つくるためにですね) 3生きている間は命を粗末にしちゃダメ(死んだらあとでちゃんと精算の機会が待っているから覚悟しなくちゃと思わせる) などの、「愛情ある考え方への道筋」を示してくれる、ケア道具(こういう書き方は宗教家の方に怒られますが)だと思います。 ご質問の内容で、 三つの考え方を突き通して、なお亡くなった方を想う というのであれば、それは宗教を必要とはしない と想います。(三つとも私と同じ考え方です) 強いて言えば「自然崇拝」とでもいうのでしょうか? 自然に起こることを、自然に受け入れているようですからね。 ●「自分教」という名前をつけて、信じて生きてください。 しかし、この考え方で将来限界が見えてきた場合は、 現存の宗教的教義に触れて、こころのケアをしたら いかがでしょう。大きなアクシデントが起こらないとも限りませんし、年齢と共に行動範囲や思考視野が 大きくなりますからね。

oshiete7
質問者

お礼

なるほど、しいて分類するなら“自然崇拝”ともいえるのですね。  そして“自分教”という宗教、ともとれると。   やはり、宗教ってとても難しいですね。  ご回答ありがとうございました。 大変参考になります。

回答No.1

個人的には宗教とか信仰心とは、言い切れないと思います。 むしろ、本能=【欲】なのではないでしょうか? 今まで満たされていたモノを失った為の感情の変化だと思います。 宗教は、現世に生きる人が平和に生きる為の道筋を説いたモノであって、【死】については、あまり関係ないと思って良いのでは?

oshiete7
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。   なるほど、本能を源泉としたところから来るものなのですね。 そしてあまり宗教等とは関係が薄いと。。。 とても参考になります。 ありがとうございました。

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