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近代初期のイギリスの歴史で質問です。

近代初期のイギリスの歴史で質問です。 イギリスのピューリタン革命の時は、王様が国教を強制して専制政治を したことが革命の要因の1つだったと思いますが、 名誉革命の時は、王様がカトリックを優先して、それが革命の要因の1つに なったと思います。 何でこんな事になったのでしょうか?まるっきり逆になってしまったので よく分かりません。 ご存知の方、宜しくお願いいたします。

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  • tanuki4u
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回答No.1

つまり宗教なんて関係なかったということです 国王のスタンスで言えば、自分を認める集団が良い集団。 1604年にイングランドの国教会や清教徒など宗教界の代表者たちを招いて会議を行った。この中で、ジェームズ1世はカトリックと清教徒の両極を排除することを宣言した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA1%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B) より引用 スコットランドでは、長老派は「聖職者の任命は国王ではなく」と主張。 国教会はその名の通り、ボスはイギリス国王 名誉革命の時は、王はカソリック(=フランス)と結ぼうとしていた。 イギリスでは長らく カソリックとは背後にカソリック国である スペイン フランス 神聖ローマ帝国のどこかの影響が出てくると認識されていた。カソリック排除ではなくカソリック国の影響排除です。

hostsmania
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど!国王からすれば結局、自分が一番偉いというスタンス なのですかね。 カトリック国の影響排除という考えは非常に新鮮でした。 鋭いですね、勉強になります。