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チャールズ2世と議会派について
クロムウェルの共和制後チャールズ2世が王位につき、ブレダでの宣言において「信仰の自由」を示しましたが、 これはジェームズ1世が国教を強制しピューリタンを弾圧したことに対しての取り消しということなのでしょうか? それともカトリックも含めた信仰の自由なのでしょうか? どちらにしろチャールズ2世はカトリックを擁護してるみたいですが・・・ また、審査法は議会が出し、その内容が「非国教徒の公職就任の禁止」ですが、 これはカトリック、ピューリタンに対して禁止したのでしょうか? ピューリタン革命時に議会派はピューリタンが多数組織しているからには議会の中には非国教徒も含まれてると思われるのですが・・・
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- nacam
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>ジェームズ1世が国教を強制しピューリタンを弾圧したことに対しての取り消しということなのでしょうか? それともカトリックも含めた信仰の自由なのでしょうか? 詳細は知りませんが、基本的にはピューリタン革命前に戻す事を求めた宣言のようです。 そのため、ピューリタンへの弾圧の取り消し、革命騒ぎ中に議会派が取得した土地や権利の返却なども含まれています。 どの程度までの教派が対象となったかですが、チャールズ2世の頭の中では、国教会、長老派、会衆派、カトリックがあったと思われます。 (ピューリタンの会衆派以外の教派は頭に無かったと推測されます) 国教会側では、ピューリタン革命時に失った財産の回復のみが重要であり、むしろそれを利用し、国教会の確立こそが重要であったはずです。 それが審査法(クラレンドン法典)です。 この法律の目的は、あくまで国教会の権威確立ですから、当然カトリックも対象となり、そこに国王との対立が生まれ、名誉革命へとつながります。 >ピューリタン革命時に議会派はピューリタンが多数組織しているからには議会の中には非国教徒も含まれてると思われるのですが・・・ たしかにピューリタン革命時には、議会は非国教徒が中心でした。 しかしこれは、チャールズ1世の時代に国教会の長ロード大司教による国民弾圧政治の反感から生じた反国教会感情が最大の原因であると思われます。 また、当時の議会派は、時間の経過とともに分裂を繰り返し、王政復古の時代には、ほとんど力を無くしています。 特に会衆派と長老派との分裂は、ピューリタン革命の失敗の予兆ともいえます。 長老派を会衆派側においやったためにピューリタン革命は成功し、長老派と会衆派が分裂したためにピューリタン革命は失敗し、王制復古が起こったともいえます。 さらに、会衆派側は、独立派と平等派の対立となり、独立派の平等派への弾圧、さらにカトリックが多数派のアイルランドとの戦い、改革派中心のオランダとの戦いの中で、クロムウェルの死によって革命は失敗します。 なお、議会においては、終始長老派が多数派を形成していたようですから、会衆派弾圧においては、長老派の協力もあったと思われます。 この当時の状況を考える場合、ピューリタンという考え方ではなく、会衆派と長老派を分けて考えませんと理解できないと思います。 そういった意味で、「ピューリタン革命」という呼び名よりも「会衆派革命」のほうが状況を正しく伝えると思います。