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《公地公民制》とは 民主制への道程か?
oosimaneedの回答
- oosimaneed
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土地や建物を万人が所有=私有することができる社会のことを民主制と仮に定義すれば、仰るとおり公地公民制とは、現代の民主制に繋がっていく制度だったと思います。 「全ての土地と人民は天皇に帰属する」とありますが、実際は、それまでの有力な地方豪族や、共同体として所有していた土地が国に奪われ、一旦国土を収奪した上で、いくつかの土地に分割し、有力な貴族や寺社が実質所有するとう形態に変わっていきます。そのことにより、一般の農民レベルは開墾や水路をつくることはできなくなってしまいます。 従って、公地公民制とは、それまでの共同体や共同体に近い地方豪族達から土地を奪い、私的に所有することができる権利を天皇の名の下に正当化した制度です。これらは時の権力者による既存勢力の基盤解体という意図で行なわれたものだと推測できます。 正当化とは、その当時は有力な貴族や寺社にとって都合の良いという意味ですが、近代以降は誰もが私有権を獲得できることが保障される社会へと変ってきます。つまり、日本では弥生以降、一貫して私権を獲得できる主体が、共同体の解体を契機に広まってきたと考えることができます。
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