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「勘」について質問です。
「勘」について質問です。 恋愛などでも相手の態度から少なくとも好印象なのかどうかは分かるといった「勘」が働くと思います。 こういった「勘」はどういった仕組みで感じているのでしょうか? 「勘」では5感の内では視覚が重要だと思います。ただ、視覚による部分は3割程で残りは知識や経験によって瞬時に脳が判断しているのでしょうか?恋愛に限らず第六感といった類についての質問と考えてもらって結構です。ご意見ご感想よろしくお願い致します。
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「勘」というものを科学的に説明するなら、「直感的で統計的な分析」というものになるでしょう。 ようするに、人が人に好意を抱く場合にどんな反応を見せるのかを経験上、知っていることが前提で、目にした相手の行動の中から、経験との類似点を観察することによって、ああ、そうなんだと判断できるという理屈です。 だから経験が豊富で、人間の性格パターン、行動パターンを知り尽くしているほど、正確に判断できますし、観察眼が鋭いほど正確に判断できることも言うまでもありません。 ただ視覚的な反応だけでなく、言葉の内容や口調といった聴覚、あと体が接触したときの皮膚感覚なんかも、判断の材料になるでしょうけどね。甘い言葉、いとしげな抱擁とか。 ですから、感覚が三割で残りが知識や経験、というのではなく、十割の感覚的情報でもって十割の知識が働いているんですよ。 車の運転だって、盲目じゃ運転できませんし、かといって練習なしにいきなり上手に運転するのは困難でしょう。 「知覚」と「経験に基づく判断力」はどちらも欠くことのできない不可欠の要素で、どちらが重要と決められないものですよ。 なお勘というのは論理的な判断というより直感的判断なので、第六巻などと言われたりもしますが、これは明らかに五感と脳の働きで判断しているものです。 直感的に、統計的なデータで推理、判断をしているだけですが、これも一種の科学的判断なんですよ。 それと追加要素として、「本能的な判断」も「勘」には含まれるでしょう。 統計的な経験など一切なくても、たとえば異性に無邪気に抱きつかれたりしたら、好かれてるという事実はおおむね本能的に察知できますしね(笑)。 敏感な人ならもっと判りにくい僅かな好意的態度も、経験なしに本能だけで察知できるかもしれません。 「好き」という感情は理屈より本能によって生じる部分が大きいでしょう。 ですから目の前にいる相手の「好き」という感情を察知する場合、感知する側も、本能的な働きでもってその「意味を感じる」ことも重要ではないかと思いますね。 だから生物的な本能のないロボットは、将来的にいくら知能が高くなっても、恋愛を実感として理解しにくいかもしれません。 知識として理解したり知覚することは可能だとしても、です。
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- tumaritou1
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是は、分かり難い事ですが、人間には二つの意識、或いは人格が存在しているためです。だいぶ前になりますが、分離脳の研究の成果で分かった事です。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。” この成果である『二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っている事』と言う事が鍵を握っていると思います。自我意識は「左脳」の意識です。顕在意識です。右脳の意識は『無意識の意識、或いは潜在意識の意識、或いは生命を働かせている意識』と言う言い方が適していると思います。 処が自意識は、このもう一つの意識を確かには実感できません、何故ならば、同時に出会うことが殆どないからです。ですが実際には人間には意識は二つ在ります。二つの意識は交代制になっています。人間の日常が正常に、又大変有効に繰り返されてゆく時は二つの意識が『互いにうまく連係プレーが取れているためです』 勘や直感と言う閃きをもたらせている働きも右脳の意識のお陰です。この意識は自我意識と同じ物を見て、全く行動を共にしています。一人の人に会うときにも、こちらの左脳と右脳の人格が対峙しています。見た目には立派そうな人でも『何か胡散臭い』と言う感じがあるならそのように自意識に伝えています。 二人で話をする時には、実際には4人の人格が話をしている事になります。恋愛している時などにも言えます。この人と結婚をしても良いのかどうか?と言った決断をする時などは、自意識に『言葉によらない情報で』伝えています。余り気が乗らないと言う場合にも、大変気に入っていると感じるのも実は『感じさせる者』の指示に従っているということが言えます。 人間には『苦悩』が付きまとう場合があります。或いは精神疾患や、神経症や、自律神経失調症や、悩みなどが付きまとっていますが、これらも全て当てはまります。これ等に共通する事が在ると言う事です。その共通点とは『心の矛盾や対立や分裂』と言う言い方が適当かと思います。この矛盾すると言う事から推し量ると、やっぱり心が二つ在ることが分かります。 右脳の意識には自我意識が意識の根底に降りて言った場合に出会う事があります。自我意識と、無意識が分かれる瞬間の事です。特に苦悩が最高点に達した時の事です。漠然とした不安、意識の根底からの不安が『意識の根底から』解消できる瞬間の事です。 この事を悟りが開いたと言います。自分自身が分かったということになります。キリスト教においては『神に会って和解した』という言い方をします。 人間の自我意識を『働かせていた者』が誰かと言う事が分かった瞬間の事です。言い方を替えたなら自分の感情を沸かせていた者が『誰』か分かったと言う事になります。恐怖症なら完治の時です。全ての障害が除かれる時の事です。 人間の不安であれ、安心であれ、人間の感情を自我意識に『言葉によらない情報で』伝えている者が存在しています。オリンピックなどのメダルに近い存在『自我意識が無い状態』無意識の自分に任せている状態が東洋における無の世界です。 その反対が『心を病んでいる』状態です。自我意識が出過ぎている状態です。自我意識が引っ込めなくなった状態です。『無意識の意識』を無視している事になります。無意識が、困っている自我意識に交代を要請している状態が『症状』に当たります。 心を病んでいる状態とは心の矛盾に苦しんでいると言う事です。二つの心は共に自分自身です。右脳の教える事に素直に従う事が健常者という事になります。素直に従えなくなった事が症状を発症させて、更に症状を固定させている事になります。 今の医学はその根本が分かっていません。医師は、薬を出して、クルト.シュナイガーの言葉{内因性精神疾患の本態が今日までわかっていないのは精神医学の恥辱である。}としながらも、『薬を出しておきます、治療をすれば治ります』と言っています。 原因が特定できていなくとも『治る』という事には、合点が行きませんが、今の医学の限界が『寛快』というものかと思います。 ですが、二つの意識のずれが『心を病む事』と言う根本を認識できた時から、寛快から完治と言う事になると思います。医学と宗教の融合ができた時に人間は『無病息災』と言う事を知ることが出来る筈です。何時か、そうなる事を願っている者です。
お礼
丁寧な回答ありがとうございます。 軽い気持ちで投稿しましたが、深く研究がなされている部分でもあるのですね。 非常に参考になりました。
お礼
御回答ありがとうございます。 確かに、知識感覚フル稼動というのが正解ですね。 意識しなくても脳はしっかり働いてるようですね。むしろ、無駄に考えすぎると分からなくなるような。 Don't think feelでしょうかwwちょっと違いますかね。 大変参考になる意見ありがとうございました。