• 締切済み

宗教の衰退についての質問です。

大学の授業で宗教文化をとっているのですが ・宗教は近代化の過程で一方では衰退したが、他方では新たな形で生き続けている。後者の側面について、生活上の問題・苦難への対処について ・宗教が近代化の過程衰退したことについて、生活上の問題・苦難への対処について についての事がよくわからないのですが・・・ 詳しく教えていただけないでしょうか?

みんなの回答

  • under12
  • ベストアンサー率12% (202/1671)
回答No.5

学校で聞け。何のために授業料を払っているの?

回答No.4

宗教が近代化の影響で衰退したと言う事の、裏側には機械化の影響があります。機械の性能が格段と上がって仕事をする時間が減ってきたと言う意味になります。 未開の土地や、発展途上国では「生きる事」に意味を見出す必要が無いとも言えます。生きる事が非常に出来難い状況なので、生き残る事が生きる事の意味になっているはずです。 宗教は元々人間の、生から来る不安、或いは死に行く事の不安がその必要性として、宗教文化が発展してきた背景にはあるはずです。ですが不安にも二種類在ります。その原因が分かっている不安と、自分でも分からない不安です。 昔は、生きる事に精一杯なために、不安を感じる事や、感じる人は少なかったはずです。推察ですが、不安を感じてもその不安を相手にしている暇がなかったと言う事も言えるはずです。 同じ国でも戦争時や、非常時には、精神疾患や自殺者が少なくなっているようです。平和が長い間続く時、或いは社会保障が整った国ほど、、今言った事のパーセントが上がるようです。そのように人間が出来ているようです。生活が安定してくる時に精神は安定し難くなっているようです。 今の日本でも平和が長い間続いたために、精神的に不安定になっている人は増えているようです。昔ならお寺に行った人が精神科医のところに行くという事です。西洋でも同じ現象が起きているようです。「司祭」の所に駆け込まないで、精神科医に駆け込む現象の事です。 それは「昔は罪の意識」としての不安が多かったという事かと思います。今は原因が分からない不安が増えた、という現象と思います。 宗教は生きるための元となる教え、という意味もあります。それは言い方を替えたなら「我々は何のために生きるのか?」という事になります。生活が貧しい国ほど、生きる意味を人間は必要としないという意味になります。食いつなぐ事で体も心も、いっぱいいっぱいという意味です。 機械化のお陰で労働時間が短くなって来ました。言い方を替えたなら、我々の知性が暇を持て余している、他の言い方をするなら、人生の意味を見出そうとしてもがいているという事になります。ところが、今度は「宗教」の方が、受け入れられなくなっているという現象が出てきました。 それは、言い方を替えたなら「宗教」も機械化の影響を受けて、人を導く意味を失いかけているともいえるかと思います。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.3

>・宗教は近代化の過程で一方では衰退したが、他方では新たな形で生き続けている。後者の側面について、生活上の問題・苦難への対処について ・神社、仏閣への参拝、供養。 ・冠婚葬祭に関わらず、宗教的儀式を重んじている事。 >・宗教が近代化の過程衰退したことについて、生活上の問題・苦難への対処について ・宗教が生物に対して、どう作用するのかを人々は理解しようとせず、勝手に解釈して それで良しとしている。 ・金を積めば何とかなると思っている。

  • momonga14
  • ベストアンサー率20% (13/65)
回答No.2

科学技術万能主義、経済至上主義、過度の個人尊重、それら新たな宗教に駆逐されてしまったんでしょう。

  • debukuro
  • ベストアンサー率19% (3635/18948)
回答No.1

時代に合わなくなったのです あなたの研究課題です それとも授業料をくれますか

関連するQ&A

  • 近代科学の祖、および、宗教に関する質問

    現代の視点では、科学と宗教は相対立する側面が大きいように感じるのですが、西欧において近代科学が発展して来た過程においては、宗教的思索と切っても切れない関係があったと聞きました。それで、近代科学の考え方が、どのような宗教的な考え方から育って来たのかを知りたいのですが、そのような視点で書かれた本がなかなか見つかりません。もし、ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。 また、「近代化科学の祖」あるいは「近代科学の父」などと呼ばれる人物はいるのでしょうか?たとえば、フランシスコ・ベーコンなどは、そういう位置づけになるのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 科学は衰退してるんですか?

    現代人の生活にはかつてないほど科学が入ってきてます。 表面的には科学はかつてないほど繁栄してるようにも見えます。 一方で先進国では理系離れの話も聞きます。 日本では工学部とか理系を選ぶ学生が減ってるという話ですし アメリカでは1960年代は技術者と弁護士なら技術者と結婚するという女性が多かったけど 今は弁護士を選ぶ人が多いという話もあります。 1970年代は科学者はもっとカッコイイというイメージがありませんでしたか? 今は何やら科学者がオタクと同類扱いされてるような感じがします。 もしや科学が衰退産業だから女性の関心が集まらなくなったのかとも思います。 この変化の正体が何だろうという感じがします。 堺屋太一の知価革命論によると 物財条件が恵まれてる時は人間の興味・関心は目に見えるもの、客観的なものに行きます。 手に入れる物財や金を増やすことに熱中し、 物体やその運動を見たままに記述する科学も発展します。 しかし物財条件が悪くなると人の関心は目に見えないものに向かうそうです。 客観より主観的な判断が重んじられるようになり 宗教の支配力が増します。中世がいい例です。 地球が人間であふれて環境問題が深刻になった今 文明の方向性は近代工業社会を離れ、新たな中世に向かうんですか? 現在世界的にイスラムなど宗教への関心も高まってるし、情報産業という実体のない産業が栄え金融業という これまた情報(マネー)を扱う業界が実体経済を超えて栄えてきてます。 人々は長時間情報を扱うことに熱中するようになりました。 地球上での物財面での限界が見えて 人々の関心が物財から離れることで科学の発展の方向性もまた 情報や生物という物財を多くは消費しない分野に集中する傾向も見えます。 宇宙開発というエネルギーを大規模に使う科学は従来の予定よりも遅れてる感じもします。 今後、科学は情報やナノテク、バイオのバブルを経由しながらじわりじわりと衰退していくんでしょうか?

  • たぶん大学物理の問題なんですが。

    大学物理の問題です。『一方の曲率半径が7,7mm、他方の曲半径が無限大(平面)のレンズを屈折率1,37の物質で作った。このレンズの屈折力を計算せよ。』 この問題をどうやって解いていけば良いか教えてください。授業は頑張って聞いてはいるのですが、生物受験で入った私にはちんぷんかんぷんで困ってます。 解説が無理なら計算過程だけでも結構です。

  • 日本人の宗教への意識の変化

    いま、宗教っていうと 一般にあんまり良いイメージがないような 気がします。 でも、日本史の授業でよくその時代の宗教を 学びます。そこでは現代と違って、それこそ 法然、親鸞、日蓮、最澄、空海、イエズス会、 仏教とかのかなりの種類の宗教や信仰があります。 現在、私たちの生活の中に盂蘭盆会とか 初詣とかっていう行事とかが根ついている 一方で自分がどの宗派に属しているとかを 意識する機会って葬式くらいで、宗教が生活から むかしよりも遠ざかっている気がしています。 それにプラスして、「宗教はよくないことだ」っていう マイナスイメージがあるのは、オウム真理教とか、 以前では、死体と暮らしていて、この人たちは生き返るんです と言っている人がいたり、ハーレムの人がいたり、 最近では二日前の痴漢とかのいかがわしい行為をする カルト集団とかが関わっているからだと思っていて、 それらと同時に、(最大級なのかな)創価学会の 存在があって、一般に創価学会についても良いイメージって ありませんよね。 そこで質問です。 どうして、こういう風になってしまったのでしょうか。 具体的に言うと、どうしてカルト教団が増えてきて その他の、浄宗とか日蓮宗とかが目立たなくなってきた(?) のでしょうか? それと、上の質問と重なってしまう部分がありますが、 「自分は無宗教です」みたいな人が増えてしまったのでしょうか。 さらに、僕は「増えてしまった」という表現を用いましたが、 これっていうのは、海外の人たちから見て 『「日本人は~」って宗教についてよく疑問に思われる』 というとこを以前耳にしたことに由来していて、 宗教を意識しないことってどこか不自然なんですか? 僕は、宗教がなくても生きていける、って思うんです。 というのも宗教に「すがる」っていうのは「なにかにすがりたい」 っていう感情からなのかな~って思うところがあって、 僕は、なにかにすがりたいって今現在思わないから そう思うんです。 どうして宗教に惹かれるのでしょうか。 すがりたいからなのでしょうか。 さらに、どうしてアメリカ人(?)とかはキリスト教を 信じているんですか? すがりたいから、とかっていう感情以前に それが生活になじんでいて、同時に国教に定められているから なんですか? 質問をまとめます。 1、何故カルト教団が増えてきてその他の、 浄宗とか日蓮宗とかが目立たなくなってきた(?)のか。 2、宗教に対してマイナスイメージを持つようになった原因は? 3、何故「自分は無宗教です」人間が増えてしまったのか。 4、宗教を意識しないことは不自然なことなのか。 5、宗教に惹かれるのは、何かにすがりたいからなのか。 長文になってしまいました。 読んで下さった方、ありがとうございました。 回答待っています。

  • 宗教は無意識において成り立つか。そうならば、無意識での意識とは何か。

    質問の概要はタイトルの通りです 複雑ですので質問の文脈をできる限り整理しておきます。 宗教的認識について。 宗教的認識とは生活の世界、つまり経験の蓄積によって我々が意味を与え、成立する世界におけるものなのか。 それとも、生活の世界の意識を対象化し、そこに架かる「認識のための梯子」を外すことで、より高次の直覚的認識の世界に至ろうとするものなのか。 私としては、これについては後者の解釈がより正確だと思われます。そこで以下の問いが浮かびます。 後者に至る認識的上昇は、「外界は存在する」「5+7=12」というような、自然的態度ないしは我々の生活における態度(これも曖昧で物議を醸しそうですが)の完全な放棄を意味するのか。これが質問の一つです。 仮にそうだとすれば、認識的上昇は無意識への到達と同じことになると思われます。 ここで、例えば「宇宙の本源」や「神」との意識の共有が行われることになる。 そう言うことは理解できますし、なかなか魅力があるとも思います。 ただ、ここで「無意識における意識」という一見したところの矛盾があるのは明らかです。あえて哲学の文脈で言えば「絶対矛盾的自己同一」の問題だと思われます。これを解消するのはどのようにしてか、というのが質問の二つ目です。 ピンと来られた方、ぜひ回答よろしくお願いします。

  • 家族の宗教について   長いです。

     家族の宗教についてなのですが、両親とその他私以外の家族が宗教にとりつかれていて困っています。長文です。質問初心者なので、話が伝わるか解かりませんが、宜しくお願い致します。  家族は結婚した姉等を含めて血縁関係では6人です。両親、姉が三人と私です。あと結婚している姉の二人の旦那様とその子供達含め、10人私以外は全員宗教にはまっています。  私一人が 家族と意見が違っているので、宗教に属していません。それがとても周りとはギャップがあり、話もろくに出来ず、(通じない)一般的な事を言っても取り合ってもらえません。  何かあれば、因縁が出ているとか先祖がお怒りになっているだとかで何だかとても言う事が気持ち悪いです。宗教にはまって早25年くらいになるのでしょうか。  今までに注ぎ込んだお金はもしかしたら…何百万の世界です。しかもこれからもですから、エンドレスでお金を かけています。 そのくせお金がないないと毎日言っては 生活苦だ、しんどい、等と 愚痴をこぼしています。もっと他のところにお金をかければ いいのにと思っても、仏様がついていてくれて、私たちが修行をしているからこの安全な毎日があるの一点張りです。  私が中学生や高校生の時は、具合が悪くなって苦しんでいても、看病すらせず、護摩木なるものを一生懸命書いたり、般若心境を唱えたり、はたまた、解脱供養を10万円もして出す始末で、ちっとも本人の事を考えないで、「仏様 仏様」しか言わないんです。これは母親です。  はっきり言って子供ながら、怖かったです。でも兄弟では 私しかそのことに疑問を抱いておらず、 私以外の姉三人は、右にならえをして言うとおりにしています。姉達の結婚相手もその宗教仲間から選んだぐらいですから、相当の入れ込みようで 気味が悪いです。  ここ最近、父親がずっと反対をしていたのに、急に信者になってしまったので、私一人だけが信者ではない状態になって 何だかとても孤独を感じますし、疎外されている気になってしまいます。  最近ちょっと私に不幸がありまして、あまり言いたくはなかったのですが、言わなければならない状態になってしまい、告白をすると、 おまえは一人、業(お経を唱えたりする等)をやっていないからだと説教をされ、この際ちゃんと入業して祈りなさい でないと因縁は断ち切れないよ と言われ仕方なく続けていました。  これをしないことには、うまく家族をコミュニケーションが取れないので無理やりしていたのですけど、一向に良くなる気配などありませんでしたし、今は止めています。  本心でないのに無理にするなんて出来ませんから、何故無理やりにでもやらせようとするのかが、 理解できないのです。  母親は私が二十歳になっても気に入らない事があると、仁王様の怒りだとか何とかいって私をよくなぐってました。 その現場を姉が見ていても知らんふりでした。お母さんは、神様に近いからとよく言ってましたし、全く理解できずに両親から大人になってまで暴力をうけていました。  現在は一人で暮らしてますから、そこまでの事はありませんけど、何だか私は家族を大切にして行きたいと思っても 相手が宗教に入らないので、私を受け入れてくれません。考え方の低い?低レベルな人間扱いしかされないんです。  宗教って、そんなに大事なものなのでしょうか。たかが宗教に入らないだけで 家族の縁が切れてしまうのでしょうか。よく喧嘩になった時には、二度と敷居をまたぐな と言われますからこれで縁がきれちゃうのかなと思っていると、数日後には何もなかったかのように普通に話しかけて来たりして、どっちが本音だか解からないです。これに至っては宗教のせいではないかもしれないのですけど。  こんなちっぽけなことで、家族の縁が切れたり、仲が悪くなったりするなんて、宗教って一体なんなのでしょうかと言いたくなります。私は家族に合わせて嫌々でもした方がいいんでしょうか。  家族一人が宗教に入っていないことで、家運衰退に繋がるとまで言われています。味方のいない私は何だか孤立していて、とても辛いです。もうどうやって家族に対処していったらいいのか解かりません。 言う事をきかなければ、恐ろしい事になるのでしょうか。 家族が宗教にはまってしまって困っている方等意見宜しくお願いします。その他この文章を読まれた方で 意見のある方、回答お待ちしています。 補足ですが、家族は死ぬまで、宗教を止めないでしょうし、私の意見は一番若いので、取り合ってもらえません。宗教名は 書き込むと良くないのかと思って伏せました。  

  • 読書し終えて、要約できないので、協力を願う!

    ちくま新書の「自然保護を問い直す」という鬼頭秀一さんの書かれた本です。 以下が作者の主張したい文だと思うのですが、 スッキリとした要約にできません。だれか協力を願います。 人間は、もともと伝統的な生活の中では、様々なつながりを通して自然と関っていた。 (生活の場、食料など資源を提供してくれる場、文化を成り立たせてくれる場、宗教的な儀礼の場)、 しかし、近代になると、人間と自然の相対的なかかわりは切り離され、部分かされてしまったため、 文化的・宗教的な価値からも切り離された。 人間と自然との全体的なかかわりを回復するためには、 このような自然との社会的・経済的な、また文化的、宗教的なつながりのネットワークを回復することが必要だ。 かつての生活を成り立たせていたような自然との全体的なかかわりを、現在の私たちの生活の中で取り戻すことが重要、 自然が失われれば、文化も固定され、貧困なものになる 人間はその地域の自然と関り生活することで、固有の文化を気づいていく。 しかしそれは決して固定的なものではなく、時間とともに変化していく。 土地の文化が多様に展開し、永続的に発展していくためには、母体となる自然の豊かさ、 多様性を残しておくことが必要なのだ。

  • 神道非宗教論の論理

    「神道は宗教ではない、日本人の倫理だ」と言われたり、「神道は祖先への尊敬の念の自然な現れだ」と言われると、確かに納得はしてしまうのですが、論理的には脆弱な気がします。 神道が宗教か否かの問題は何も現代の靖国公式参拝問題に始まったわけではなく、それこそ明治維新のはじめからの問題のようです。 不平等条約の撤廃のためには信教の自由を憲法で定める必要があったが、神道とキリスト教を併置するわけにはいかないと。 そこで神道は宗教ではない、という神道非宗教論が唱えられたわけですが、新書や解説書を読むと神道が宗教ではないとされる理由は以下の三点です。 1、神道は祭りの儀式であって、「宗教=布教・葬式」ではない 2、神道は祖先を崇拝しその祭祀に従うことであってあくまで国家の掟である(or 先祖への自然な愛である or 自然な愛国心である) 3、神道は国家興隆の源であって、個々人が選択するような宗教とは格がちがう。 明治政府は「宗教=布教・葬式」と定義していたようで、それならば確かに神道に宣教師はいませんが、しかし神道行事は布教的効果も否定できないと思います。 そして祖先への自然な畏敬も、祖先の魂という観念が多かれ少なかれあってそれを祀り、自分自身や家族、日本国を見守ってもらおうというものだと思います。愛国心の表れとはいえ、神道的な礼拝は死者についての観念を含んでいるのではないでしょうか。 それとも例えば靖国参拝は「英霊を慰める」という側面は全くなくて、死後の世界など全く関わらずに単なる慣習・風俗として行われていると言えるでしょうか。 わたくし個人は、神道的な観念に非常に愛着を覚えますし、靖国問題も出来るだけ良い形で解決して欲しいと願っていますが、靖国参拝は宗教行為だと言われて調べてみても、確かに納得はできませんでした。 神道は宗教であるという方からも神道は宗教ではないという方からもお知恵をお借りしたく思います。

  • 熱と仕事の関係

    熱と仕事の関係についての正誤問題についてです。 同じ温度の2つの系の一方から他方へ自然に熱が移り、一方が高温に他方が低温になり、同時に外部にも仕事をすることがある。 このようなことはありえないことを指摘した次の文についてなんですが ↓ この過程を全体として見れば、低温系から熱を取り出して、仕事をして、高温系に熱を移していることになるので、熱力学第2法則に反する。 「同じ温度の2つの系」としか言っていないのに、それがどうして「低温系から熱を取り出して」という話に置き換わるのかと悩んでおります。 どうか教えてください・・・

  • 異なる宗教の夫婦における子供の教育

    こんにちは。 私はクリスチャンで、つきあっている彼は仏教(宗派はわかりません)です。 仏教といっても、初詣には神社に行くし、毎日仏壇を拝んでいるわけでもない、そんな家庭に育ったようです。 お互いに結婚したいとは思っているのですが、考えの違いなどを話し合っている段階で、具体的にはなってはいません。 宗教についてはいろいろ問題があるのですが、ここでは、結婚して子供ができたときに、子供に対してどのような教育を行えばいいかについてお聞きします。 彼とは話し合っていますが、結論はでていません。 私の考えは、子供にもクリスチャンの生活をしてほしいと思いますが、彼の立場もあるので、お互いの宗教を子供には押し付けないようにしたいと思っています。(例えばお葬式では、焼香などの宗教的なことはしない。)  でも、彼は本当にこんなことができるのか、子供を混乱させるのではないかと、不安に思っています。 私自身は、両親はクリスチャン、親戚は彼と同じような仏教という環境でしたが、親戚の理解や両親の努力もあり、お互いを尊重するという形で、特に問題なく過ごしてきました。 でも、夫婦で宗教が違うというのは私にも未知ですし、周囲にもこのような人がいないので、どうすればいいかわからなくなってきました。 同じような状況の方、経験をされた方から回答いただければと思います。