お堂の下にあったお地蔵様とは?

このQ&Aのポイント
  • 先日京都の六道珍皇寺を参拝しました。六道の辻にある篁・閻魔堂の床下に小さなお地蔵様の石仏がありました。
  • お堂の床下にお地蔵様を見たことがあります。
  • 床下にあるお地蔵さまは、篁・閻魔堂と関係があり、その意味について知りたいです。
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お堂の下のお地蔵様

先日京都の六道珍皇寺を参拝しました。 あの世とこの世が交わるとされる六道の辻にあり 開基は小野篁とも伝わっています。 小野篁といえば、昼は宮中に、夜は閻魔庁に仕えたという伝説で知られる人で 境内には篁が閻魔庁に通うのに使ったといわれる井戸や 奈落に響くといわれる「迎え鐘」などもあります。 篁・閻魔堂には小野篁像・閻魔像が安置されています。 篁・閻魔堂はコンクリート造りのお堂ですが、 そのほとんど床下といっていいような場所に小さなお地蔵様の石仏がありました。 (1)お堂の床下にお地蔵様があるのを見たことがありますか。 (2)それはどこで見られましたか。具体的な地名・寺名などわかりましたらお願いします。 (3)床下にあるお地蔵さまにはどんな意味があるのでしょうか。 いずれかだけでも結構です。 よろしくお願いします。

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noname#163492
noname#163492

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回答No.1

こんにちは。 先の質問に対するお礼の御説の精緻さと洗練さにもう脱帽です。 私は多くをご教示いただき学ばせていただく身です。 他の方のより良い回答がつくことを願いつつも、 とりとめのない雑感に終始すること、御容赦下さいませね。 >篁・閻魔堂には小野篁像・閻魔像が安置されています。 >コンクリート造りのお堂ですが、 >そのほとんど床下といっていいような場所に小さなお地蔵様の石仏がありました。 京都に行くと、自分が碁盤上を移動する碁石のようだなあ、と思うことがあります。 長安の都より「輸入」されながら、何故直交的な街区概念があまり根付かなかったのでしょう。 日本の国土の条件により、道や門前沿いに街道沿いに発達してきた、或いは、 城下町の曲がり角、筋違(すじかい)、行き止まりなどは、防衛戦略上の意味合いが相応にあったと、事後的に結論付けたくなるのです。 そもそも長安には「六道の辻」に似た空間概念があったのかどうか。 ところで、もうすぐ「節分」ですよね。 ご存知でしょうが、豆まき(豆打ち)をおこなうようになったのは室町時代以降とされており、 「追儺」という大晦日の宮中儀式にゆきつくそうですね。 中国が源流とされ、神社や寺院で邪気や厄病を祓うもので、平安神宮や下賀茂神社、北野天満宮でも行われているとのこと。 神奈川県川崎市の「千蔵寺」は、本尊が厄神鬼王なので「鬼は内」と言うそうで、 「鬼は外」と言わないところは案外少なくないみたいですね。 豆には穀霊信仰による霊力があるとみなされ、災厄や邪気を鬼に見立てて豆の力で追い払うのだとか。 その「鬼は外!福は内!」の「外(ソト)」「内(ウチ)」の意味合いは、とても多義的ではないでしょうか。 「屋内」「内裏」「家内」「うちの=家の、親戚一族の」など、「奥さん」の「奥」や「表」「裏」と同様に興味深いです。 で、常々思っていたのですけども、「建前(たてまえ)」という言葉は、考えてみたら、建築の構造用語から来ているのかも。 そのほか、家屋にまつわる「敷居」「縁」も、調べてみると何か派生しそうな気も致します。 「敷居をまたぐ」の「またぎ」は境界の山の民「マタギ」にも通ずるような、違うのかしら。 いわゆる縁側は、いわゆるベランダ、バルコニーとは何か違う「ウチ」でも「ソト」でもない空間で、 たとえば、サザエさんのお隣さんなんて、家には上がらずとも縁側で一局交えたりなんかして、ちょっと曖昧で独特な空間とも言えそうで。 「縁(えにし)」という意味と「縁(ふち)」という意味合いもありますし、家に上がらせない「排他性」も感じなくもない。 あとは、「間(マ)」。 日本家屋の「間」の取り方も、良く考えると非常に面白いわけで。 単位だけではなくて、空間やタイミングとも意味がとれます。 それは拙い日舞の経験上、能、或いは歌詠みなどの芸能の「間」という微妙な「ゆとり」が、 どうやら「床の間」という、どこか中途半端で微妙な大きさの空間概念にも通ずるような気がするからなので。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%8A%E3%81%AE%E9%96%93 ちなみに「風水」における床下には、いったいどのような気の流れがあるのでしょう。 日本家屋と気候風土を鑑み、しかるべき空間の存在は不可欠のように思われます。 で、肝心のお地蔵さまは「床下」とのこと。 「床」とはいったい何を意味するのでしょうね。 「結界を守る」「鬼祓いをする」という意味合いが込められているのであるならば、 お地蔵さまがいても違和感がないとは考えられますでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%8A (新宮熊野神社には遺構として、修験用の「長床」というのも残存しているようですね。) 最後に、肝心の「鬼」って…いったい何だと思われますか。 天狗のような形相、一つ目の恐ろしい妖怪、無害な得体のしれない精霊、時に泣き善を施す存在、祭りの主役…。 一体どこに住み、どこから来るのでしょう、たとえば山を下り、そして家屋や社にも神出鬼没で侵入してくるとか。 西洋の物語(3匹のこぶたの石の家、サンタクロースと煙突、オオカミと7匹の子ヤギの玄関扉など)では、 どこから不審者が侵入するかが容易に想像つきます。 逆に一見日本の木造家屋が隙だらけで頑丈ではなく、現代のセコムが必要なほどに、家のあちこちから不審者が侵入しそうな開放的なイメージが浮かびそうでもあり… …さりとて、「縁側」や「ウチ」の概念からは、玄関の外開きスタイル同様に、案外≪ソトに対して開放的ではない≫ような気もしてくるから不思議なのですよ。 以上、勢いだけで書き殴っている点につき、ご容赦くださいませね^^

noname#163492
質問者

お礼

前回の質問では多くを学ばせていただきまして 心よりお礼申し上げます♪ 節分にはいつもどこかの寺社に出かけています。 鬼が大好きなんですよ~ 「千蔵寺」は「鬼は内」と言うのですね。 六道珍皇寺の開基とされる寺に千本閻魔堂がありますが ここでも「鬼は内」と言っていました。 で、千本閻魔堂狂言「鬼の念仏」が演じられます。 死者を裁く鬼が改心して念仏を唱えるようになるお話で 鬼に対してやさしいお寺です。 なるほど、「鬼は外!福は内!」の「外」「内」が多義的だというのはナットクです。 「建前(たてまえ)」という言葉が建築用語からくるというのも そのとおりと思います。 だいたい、神様のことを「柱」と数えることからして。 そうそう、千本閻魔堂の近くにある千本釈迦堂には 大工の棟梁の妻・阿亀の物語が伝わっていますし 近所には釘抜き地蔵なんてのもあります。 敷居をまたぐ→またぎ 縁(えにし)→縁(ふち) 間(マ)→空間やタイミング ふむふむ、ナルホドですね~。 おっしゃるとおり、そう考えていくと、我々の先祖が「床」に何を見たのか、 見えてくるように思いますね。 面白い視点を教えてくださってありがとうございます。 常世、というのが面白いなあ、と思いました。 >「結界を守る」「鬼祓いをする」という意味合いが込められている 確かにそういう意味があるかもしれませんね。 篁・閻魔堂に安置されている篁や閻魔様が地獄の住人であり ソレを護るかのようにお地蔵さんがいるということがなんか不思議。 確かにご指摘とおり、日本の家屋はすきまだらけで どこからでも鬼が入ってこれそうです。 呪術的な結界をはることで、鬼の侵入を防ごうとしたのかもしれませんね。 梅原猛さんによれば 法隆寺の中門の中央には柱がある。 門に棒(柱)を立てれば閂である。 したがって法隆寺は怨霊封じ込めの寺である、とのことですが。 新宮熊野神社の「長床」が修験用というのは、 床をどのように用いるのでしょうか?

noname#163492
質問者

補足

すいません、訂正です。 >篁・閻魔堂はコンクリート造りのお堂ですが、 記憶間違いしていました。 木造の間違いです。(汗)

その他の回答 (7)

回答No.8

こんばんは。早くにお礼をいただいていたのに、本当にごめんなさい。 >国立能楽堂で節分をすごされるとは、なんてお洒落なのでしょう。 いえいえ、近代の屋内能楽堂においては、何と言っても「神憑き」の点で、大いに欠けているように映ります。 それに、舞台上では「見えない日々の稽古場」を、何故か想起してしまうのですよ。 それは私自身の、幼少時における苦々しいお稽古によるものかもしれませんが(笑) 三月末に靖国神社の夜桜能に行く予定です。 まあでも、こちらも花見がメインになりましょうかね。 関西は数々の古の都があった場所ですから、こういった点でも、ご当地にお住まいのrupapo様が非常に羨ましいです。 >奈良の元興寺の節分会にいってきました >外国からこられた方々が「まれびと」として豆撒きをされていました。 >「まれびと」とは本来は異界(根の国)から来た人 なるほど、そうかもしれませんね。 鬼も異界からの訪問者でしょうから、「異界バーサス異界」という凄いバトルかも(笑) 私はかつて、スイスの山奥の教会にクリスマス・ミサのために強制連行?されたことがあります。 恐らく、当時の私は「まれびと」と映ったことでしょう。 でも、当然のことながら、ミサ中はじっと椅子に座って呆けているだけでした。 rupapo様がご覧になった豆撒きは、現代ではお祭的な風習と化してしまっていても、 平安当時の人々は、日常を鬼やら地獄やら閻魔などと、本当に共存共栄しながら暮らしていたのでしょう。 だから「境内には篁が閻魔庁に通うのに使ったといわれる井戸」なんていうのも、大いにアリなのかも。 >陰陽道では強力な怨霊は祀れば多大なご利益を与えてくださる神に転じる、というふうに考えるようです。 なるほど、そりゃあ凄いわけです。 陰陽道は当時の人々にとって必要不可欠であるとともに、権力の集まるところにこそ、より需要も集中したかもしれません。 だって、欲望や哀しみ、恨みといった、大変人間臭い人間心理から生ずるわけですからね。 何だか、以前にもまして、平安の世が生き生きとしてくる気がして、とても楽しいです^^ >交野ヶ原に呪術的なしかけをしたのは空海だといわれています。 >密教って怨霊封じの概念があったんじゃないでしょうか。 はい、超人的な力という点において、山岳信仰や山岳修験道にも、自ずと繋がっているのでしょうね、恐らくは。 もっと調べて考えていきたいと思っております。 >『東日流外三郡誌』後世の偽書であるとされているので >どこまで信用していいかわかりませんが、 う~ん、そうですね、 私は推理下手で、実は誰が誰だったのか、ということには、まるで頭が回りません。 これにつき、私はrupapo様にお任せしております。 どちらかというと、何故そのような書が後代になって編纂されたのだろうという「背景」に関心が向いたりして。 >阿修羅の片目が潰されているというのは、興味深いですね。 はい、それが「故意に」行われたものとするならば、やはり何らかの呪術的な意味合いがこめられているというのでしょうか。 そしてそれが、称徳天皇と関係があると仰るの? >アスラとは「生命を与える者」「非天」の意味、とあります。 >日本の蛭子が日子から転じたもの、というのを思い出します。 >阿修羅は戦闘の神であったが、仏法の守護を誓って八部衆に入れらたそうです。 >これって、陰が陽に転じたということではないでしょうか。 そうですね、本来「合掌していなかった」アスラが「合掌するようになった」あたりが、ご指摘なさった「陰が陽に転じた」を物語っているのかもしれません。 それにしても、鎌倉時代に造られた三十三間堂の阿修羅像は、怒りの形相で合掌しているから、相当に迫力がありますね。 興福寺の「憂い」とは、かなり異なるようでもあり。 >仏法守護を誓った阿修羅は無理やりその怒りを像の中に閉じ込められたのではないか、と思ったりします。 >それがあの憂いた表情として表現されているように思います。 なるほど、これに対する見解の違いは非常に面白いと思います。 つまり、rupapo様には、阿修羅の内に「浄化」はみられず、無理矢理怒りを内に封じ鎮められたまま、今に至っているということなのね? たしかに日本の文化の特質として「本質を隠す、見え隠れする」という点がありましょう。 ですから、そのご見解は、十分アリだと思います。 そしてその「本質」の真相が隠されたまま封じられている。ですよね?^^ 追伸:私のこのサイトの寄稿は、国語コンプの解消も兼ねておりますので、拙文の評価に対しては、なにとぞご容赦下さいませ。 (生まれて初めてお世辞ながら文章が上手いと言われて、かなり面喰っておりまする)

noname#163492
質問者

お礼

こんばんは。いつもありがとうございます。 「神憑き」ですか。 能というものをあまり見たことがないのでアレですが それが能のテーマであると聞いたことがあります。 阿修羅の片目は故意につぶされていると思います。 どうみたって、上から塗りつぶしてあるとしか思えないので。 南都焼き討ちの際にも持ち出されています。 よほど大事だったのでしょうね。 興福寺の阿修羅は単独で見るのではなく 八部衆の一として見るべきだと思っています。 トンデモなので笑われるかもしれませんが あれは八所御霊なのではないか、と密かに思っています。 それから八部衆って全て動物をイメージしてあるんです。 すると阿修羅も何かの動物ではないか、と思えるんです。 あと万葉集ですね。 韓国語で読めるなどとも言いますが、私は韓国語はダメなので よくわかりません。 ふつうに日本語で政治的な意味が込められているのではないか、と思って万葉集を読むと 正史とは全くことなる内容が読み取れるような気がします。 (気がするだけだったりして・・) >rupapo様には、阿修羅の内に「浄化」はみられず、無理矢理怒りを内に封じ鎮められたまま、今に至っているということなのね? 実際には夜が明るくなった時点で怨霊というものはかなり姿を消してしまったと思います。 なので浄化されている、といえるかもしれません。 正直言って私は神道の中にかなり自分勝手な思想を感じるのです。 たとえば、身代り人形に息を吹きかけて流すとか。 人間でなく人形なので罪はないのですが 神に祈るといいながら本当は神を呪わされているのではないか、と思ってしまう。 そういった目で見るので、怒りが像の中に閉じ込められているように思えるのだと思います。 長くなりましたので、このあたりでしめさせていただきます。 今回もいろいろと教えてくださってありがとうございました。 またよろしくお願いします♪

回答No.7

こんばんは。 いつもrupapo様の歴史に対する造詣の深さに頭が垂れます。 ありがとうございます。 昨日は節分でしたね。 私は国立能楽堂で、狂言『節分』を鑑賞してまいりました。 以下「鑑賞の手引き」を抜粋、引用させていただきます。 ──蓬莱の島からやって来た鬼は、害を及ぼす恐ろしい悪鬼ではなく、宝をもたらした祝福の存在。 古来より新春に外界からやってくる異人は、新年を予祝する存在という考え方がありました。本曲はこれからやって来るあたたかな春をも予感させます。(「国立能楽堂」p4 第318号より)── 異界から「宝=春=祝福」をもたらすなんて、この鬼は何て洒落ているのでしょう。 うっかりよその女房に惚れてしまい、つい譲ってしまった宝の中には「打ち出の小槌」もありました(笑) 結局その女房に「鬼は外~!」と豆を撒かれて退散するハメになり、ちょっとほろ苦い笑いだったりして。 >交野が原(平安時代にはこう呼ばれていたようです。)を流れる天の川を天空の天の川に見たて >機物神社はベガ、牽牛石はケンタウロスに喩えられているようです。 う~ん、地元にそのような社があるとは、本当に面白いです。 七夕は日本の神道と混淆し、神霊が降臨して依りつく「依代」の役目を笹が果たしているのでしょうか。 たしか学校では織姫星の一等星ベガ、牽牛彦星のアルタイルのはずなのに、ケンタウロスとは変わっていますね。 >古の人々が建物を建物以上のものとして見ていたのと同じく、 >地理にも地理以上のものを見ていたのですね。 >呪術的な仕掛けがしてあるみたいです。 たくさんの嬉しいご教示、真にありがとうございます。 仰る通り、やはり綿密な計画のもと、建立されたのでしょう。 呪術的な仕掛けをする「理由」としては、いったい何が考えられるでしょうか。 仏教には本来ない概念である「怨霊封じ」や「不浄=穢」を忌み嫌うため?それとも? >特に古い神道は神殿がなく、拝殿より山そのものを拝するというスタイルだったりしますね。 はい、何でもない山にも、思わぬところに小さな社があったりしますね。今まで特段気にも止めませんでしたが。 >奈良の大神神社とか。 >うちの近所は磐座信仰の神社が多いです。 >物部氏の本拠地だったというので、神殿がないのは物部氏の祭祀スタイルなのでしょう。 そうですね、きっと仰る通りなのでしょうね。 磐座と書いて「いわくら」と読むのですか、はじめて知りました。 rupapo様は物部氏の末裔でしょうね、だから歴史探訪がお好きなのではないかと^^ >阿修羅は称徳天皇16歳像だという説があるようです。 そのような説があったとは! 知りませんでした!! 称徳天皇って、大宰府の主神が「道鏡が皇位に就くべし」と宇佐八幡の託宣を報じて、和気清麻呂が勅使として赴いた件と絡んでいたはず。 たしか彼はその後「別部穢麻呂」と改名を賜ったのでした。 当時の人々の「言葉」に対する思い入れとは、いったい。 そうそう、高千穂→湯布院のあと、私達は宇佐神宮も訪れました。 http://www.usajinguu.com/ 七月末でしたが、庭の古代蓮がそれはもう綺麗に咲いていました。見事でしたよ♪ あそこは上宮、下宮、それぞれ御殿が3つずつあり、お賽銭箱が合計6つもあるのです。 義母が「お金が幾らあっても足りないわね。」と、しきりとボヤいたのが印象的です(笑) 興福寺の阿修羅像は「両性具有の美」の筆頭に挙げられると思っておりましたが、まさか称徳天皇似とはね。 「隻眼」? ああ、たしかに左目が黒く塗りつぶされています! すごいすごい! それにしても、最近阿修羅像を画像ながらみているうちに、下瞼が腫れぼったく、妙に人間味を帯びているような気がしてまいりました。 能面の「見えざるものが角度によってあらわれ見える」に例えると、 私にとって阿修羅像のそれは「涙」であり、 そして「怒り」も「褐色の肌」同様に「色褪せてしまっている」かのように思えるのです。 この点につき、rupapo様はどのようにお感じになられていらっしゃるのでしょうか。 よろしければお聞かせ下さいますようおねがいします^^ 称徳天皇16歳説、阿修羅像はやはり若そうですね。 今日「節分」のあとに観た能「朝長」も、若干16歳で腹を一文字に割いて自害し果てる壮絶な舞でした。 能には珍しい「平治物語」の題材でして、誉れ高く勇ましい武将でも雅な貴公子でもない、残恨の想いをこめて舞いを舞って掻き消える少年の霊が救いようもなく。 そして異界の霊に対峙する漂泊の僧等が唯一出来ること、それは、 亡霊の語りに静かに耳を傾け鎮魂することなのでした。 古来「ものがたり」とは「もの(霊魂)をかたる(鎮める、なだめる、だます)」というものであったならば、 古の人々の心の中に意識されてきた「想い」というものを、もっと私は汲みとりたいなあと願わずにはいられません。 むろん、無理を承知で、なのですけどもね。

noname#163492
質問者

お礼

阿修羅像についてですが 『東日流外三郡誌』でによれば、称徳天皇は蝦夷の安倍一族の出身であり、 大野東人の率いる朝廷の軍隊が蝦夷に大敗した際、講和の条件として、安倍氏の血を引く彼女が次期天皇になると取り決められた。 奈良の東大寺の大仏建立に用いられた黄金は、彼女の縁で奥州から送られた。 と記されているようです。 『東日流外三郡誌』後世の偽書であるとされているので どこまで信用していいかわかりませんが、 阿修羅の片目が潰されているというのは、興味深いですね。 それに称徳天皇は阿倍内親王という名前でしたが なぜ阿倍内親王というのでしょう。 安部氏は阿部とも記すようですね、 やはり何か関係があるのでは、と思わされます。 >妙に人間味を帯びているような気がしてまいりました。 確かに、とても人間味があります。 阿修羅は元はインドの戦闘の神アスラであったようですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85 上記サイトの「戦闘神になった風景」のところに 帝釈天との確執の物語について触れられています。 これを読んだときに、鎮護国家の仏教の教えとはこういうものだったのか、と思いました。 現代人なら帝釈天も悪いやん、と思うことでしょう。 http://www.kohfukuji.com/property/cultural/001.html 上記サイトには アスラとは「生命を与える者」「非天」の意味、とあります。 日本の蛭子が日子から転じたもの、というのを思い出します。 阿修羅は戦闘の神であったが、仏法の守護を誓って八部衆に入れらたそうです。 これって、陰が陽に転じたということではないでしょうか。 >私にとって阿修羅像のそれは「涙」であり、 >そして「怒り」も「褐色の肌」同様に「色褪せてしまっている」かのように思えるのです。 仏法守護を誓った阿修羅は無理やりその怒りを像の中に閉じ込められたのではないか、と思ったりします。 それがあの憂いた表情として表現されているように思います。 >古来「ものがたり」とは「もの(霊魂)をかたる(鎮める、なだめる、だます)」というものであったならば、 あー、そういう意味でしたか。 気がつきませんでした。 ナットクです!

noname#163492
質問者

補足

いつも拙い私の文章を読んでくださり、ありがとうございます。 話が横にずれますが、マシュマロさんは文章をお書きになるのが とても上手いですね。 マシュマロさんみたいに文章が書ければいいのに、と羨ましく思っています。 私はいつも四苦八苦して文章を書いています。 文章を書くのは好きなんですが、なかなか思うようにかけません。 国立能楽堂で節分をすごされるとは、なんてお洒落なのでしょう。 >蓬莱の島からやって来た鬼は、害を及ぼす恐ろしい悪鬼ではなく、宝をもたらした祝福の存在。  なるほど。 私は昨日、奈良の元興寺の節分会にいってきましたが、これと同様のことを放送で言っていました。 それで、外国からこられた方々が「まれびと」として豆撒きをされていました。 しかし、「まれびと」とは本来は異界(根の国)から来た人のことなのだと私は思います。 陰陽道では強力な怨霊は祀れば多大なご利益を与えてくださる神に転じる、というふうに考えるようです。 スサノオは根の国の王ですが、竜宮の海神と同一神とされることがあります。 竜宮の海神は陰である根の国のスサノオが陽に転じたものじゃないかな、と。 >牽牛彦星のアルタイルのはずなのに、ケンタウロスとは変わっていますね。 あっ!! すいません、アルタイルが正解です。 うろ覚えで確認せずに書いてしまいました。 >仏教には本来ない概念である「怨霊封じ」や「不浄=穢」を忌み嫌うため?それとも? 交野ヶ原に呪術的なしかけをしたのは空海だといわれています。 密教って怨霊封じの概念があったんじゃないでしょうか。 >rupapo様は物部氏の末裔でしょうね、 そうだったら嬉しいですが、このあたりには最近越してきたので 称徳天皇は別名高野天皇というそうですが 私は称徳天皇の別名と同じ姓です。 藤原氏族一覧にも同じ姓がありますが、まー、違うでしょう。 別部穢麻呂、って面白いですね。 今なら子供の喧嘩レベルです。 これも一種の言霊信仰だったのかもしれませんね。 宇佐神宮にはも古代蓮が咲くのですね。 古来、皇位継承の神託を下す神。 一度行ってみたいと思い続けていますが、行くなら7月にします♪

回答No.6

こんばんは。 いつも楽しく、そしてためになるお礼を、本当にどうもありがとうございます^^ すみません、先の回答につき、意味不な箇所がございました。(汗)↓ >>水平線を一望するように立つ大きな石碑とはどんなものなのでしょうか。 >はい、小さな港にそびえる大きな石碑です。←× 「日本海軍発祥の地」の碑です。←○ >天岩戸神社 >ぜひとも行かねば! はい、是非に! 境内を清めている巫女さん等に初穂料(金額は任意)の旨を伝えると、 さらにさらに!「特別なスポット」へ誘導してくださるのです。 拝殿の脇の地味な通用門を抜け、細い階段を下ると、通常では「絶対的に視界に入れることのできない」、あの!「天岩戸」を眺めることができるのです! 境内からは木立に囲まれてよく判別できないのですが、そこの「展望台(恐らく皇室専用か何か?)」からは見れるのです♪ 今ではたび重なる地震のためにすっかり入口が崩落してしまっているものの、辺り一帯が禁漁(猟)地に指定されていることもあって、 とにかく、そりゃあもう、素晴らしく神秘的な景色でしたよ~(と、真面目に煽る)。 >大阪府枚方市 >神武天皇が上陸し、ナガスネヒコにコテンパンにやられた所です。 >近所には天野川がありまして、機物神社と牽牛石が天の川を挟んで対面しています。 なんとなんと、rupapo様は、いわくつきの場所に住んでいらっしゃるのですね。 それに、日本の神話に天野川?機物神社と牽牛石?? 面白いですね。 いったいそこに、どのような意味がこめられているのでしょうか。 >古の人々が建物を建物以上のものとして見ていた、ということが感じられます。 はい、まったくです。 いったいどうやって、あんな工作物?をこしらえたというのでしょう。 数年前、なんと60年ぶりに、抽選で一般市民3名が投入堂に特別拝観したそうです。 但しそれは、あくまでも修復落慶法要の一環のため、次の機会は早て100年後だとか…。 あとは、鰐淵寺(島根)の蔵王堂と浮浪滝の景色も素晴らしいようですね。 平安中期になると、都の周辺の山岳行場に験者があらわれ、苦行のために、このような厳かで険しい岩座に懸造が造られていきました。 またここで、ひろさちや氏の御説を引っ張り出してみますね。 山岳は、もともと神道の縄張りであり、神のおられる場所、山そのものが神であるとも考えられてきたそうです。 土着の山岳修行僧に加え、奈良時代に仏教系の修行者(私度僧や聖)が加わり、呪力を身につけ祈祷を行いました。 役行者もその一人だったとのこと。 そして平安時代になって密教が伝来し、加持祈祷の能力を高める”験を修める”修験者(山伏)が現れます。 そして都の人たちは、修験者たちにいったいどのような想いを託していたのでしょう。 ちょっと気になったりなんかして。 そしてさらに、柳田国男氏は、山上昇神説というものを展開しました。 死の直後の死者の霊は”死霊”として、山の低い所にいます。 「死穢」を孕むものであるゆえ、子孫が祀ることで死穢が浄化されます。 そしてある一定の期間が過ぎると死霊は”祖霊”となります。 山の高いところへ昇るにつれ、穢を浄化し清く和やかな祖霊となります。 三十三回忌という考え方は、その死霊の死穢がとれて祖霊として浄化されるまでの期間とのことです。 そしてその祖霊がさらに昇華されると、祖先神(氏神)になります。 日本人の死後の世界観とは、何ともユニークなものなのですね。 そういえば、妻のことを「山の神」とも申します。 「山姥」伝説もありますね、いやだわ、なんだか(笑) 脱線ついでに恐縮ですが、先日別質問にて興福寺阿修羅像の「印相」に話題をふりました。 以前は気にもとめなかったのですが、仏像の印相、指一本にも意味がこめられているのですよね。 たとえば「中指」は物質の生成「火」、心の働きの「想」を表しているそうです。 そして、仏教哲学に無知な私でさえ、何だか古の人々の真剣な想いというものを感じずにはいられない、そんな気がするのです。 rupapo様は拝観の折に、どうお感じになるのでしょうか。 う~ん、あらためて、小野篁と閻魔様の伝説にこめられた「当時とのちの世の人々の熱き想い」と、 そしてrupapo様が見い出したお地蔵様との関連性につき、 あらためて考えこんでしまうのですよね…←考えているフリ

noname#163492
質問者

お礼

山上昇神説というのは初めて知りました。 三十三回忌の意味も。 お精霊さんは祀られることによって昇格していくって 面白い考え方ですね。 興福寺の阿修羅は大好きな仏像です。 「中指」は物質の生成「火」、心の働きの「想」を表しているのですか。 またまた勉強になりました。 天平時代の仏像は、型にはまらない表現が面白いと思います。 阿修羅や戒壇院の多聞天が憂いを秘めていたり。 734年興福寺の西金堂が建立され、阿修羅はこの西金堂に安置されていたようです。 女帝の称徳天皇は718年生まれで、734年は16歳なので、 阿修羅は称徳天皇16歳像だという説があるようです。 ところで、阿修羅は片目が潰されているのをご存知ですか。 墨で瞳を描いたあと、白いキャッチライトをいれ、 それを上から塗りつぶしたあとがあります。 徳の字がつく天皇は不幸な死を迎えた、と言われます。 そして、隻眼の阿修羅。 うーん、ミステリーですね~

noname#163492
質問者

補足

こんばんは。 毎回楽しく読ませていただいております。 天岩戸神社の情報をありがとうございます。 初穂料で、特別スポットにいけるのですね。 ぜひとも体験してディープな思い出を作りたいです。 >いったいそこに、どのような意味がこめられているのでしょうか。 交野が原(平安時代にはこう呼ばれていたようです。)を流れる天の川を天空の天の川に見たて 機物神社はベガ、牽牛石はケンタウロスに喩えられているようです。 七夕の日に織姫と牽牛が逢瀬を楽しんだという逢合橋もあります。 ただし、コンクリートで車の往来が多く、全く情緒のない橋ですが。 古の人々が建物を建物以上のものとして見ていたのと同じく、 地理にも地理以上のものを見ていたのですね。 http://murata35.chicappa.jp/katudohokoku/mukashibanashi/index02.htm 呪術的な仕掛けがしてあるみたいです。 他には飛鳥の聖なるラインとか http://homepage3.nifty.com/silver-moon/asuka/sacred.htm 法隆寺のペンタクロスとか。 http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/cat_177590-1.html ということが感じられます。 鰐淵寺の蔵王堂、調べてみました。 これもまた凄いですね! >山岳は、もともと神道の縄張りであり、神のおられる場所、山そのものが神であるとも考えられてきたそうです。 確かにそうですね。 特に古い神道は神殿がなく、拝殿より山そのものを拝するというスタイルだったりしますね。 奈良の大神神社とか。 うちの近所は磐座信仰の神社が多いです。 やっぱり神殿はありません。 物部氏の本拠地だったというので、神殿がないのは物部氏の祭祀スタイルなのでしょう。

回答No.5

こんばんは。とても興味深くお礼を拝読致しました。 途中経過のご報告もどうもありがとうございます^^ >水平線を一望するように立つ大きな石碑とはどんなものなのでしょうか。 はい、小さな港にそびえる大きな石碑です。 ちなみに車で高千穂と湯布院を訪れたその帰りの別府湾ICでは、海の彼方に四国が見えましたよ。 高千穂では夜神楽を見学しました。 結構エロティックだったりなんかして。 天岩戸神社や天安河原は良かったです。 霊感ゼロな家族ながら、ちょっとヤバコビッチなただならぬ雰囲気を肌身に感じたと申しましょうか、 とにかく形容しがたいので、機会があれば是非ご旅行なさることをお薦め致しまする。 http://www.pmiyazaki.com/takachiho/amenoiwato.htm >古の人はそこに床以上の意味を見出していたことでしょう。 >床の下は海で閻魔様や篁様の像を護っておられるのかもしれません。 はい、そのように思われますし、 「床=常世」に関し、ひろさちや氏が興味深いことを示唆しています。 私達が生きている現実世界とは別次元の不老不死で神々の、そして死後の世界を「他界」というそうです。 そして三つの他界が存在し、 1 山中他界 2 地中他界 3 海上他界(海の底も含まれる) とのことです。 2と3は黄泉の国=常世の国=根の国だそうで、1は私達の住む葦原の中つ国にある他界を指します。 死者の行く世界が地中もしくは海上(海底)にあり、生者の世界から隔てたところにある一方、 山中他界は、死者が生者と同じ場所に居ながら次元が異なる大変ユニークな世界観のようですね。 >奈良では志貴皇子の邸宅跡と伝わる白毫寺で「閻魔詣」が行われているようで、関係ありそうです。 なるほど、閻魔詣ですか、これも興味深いですね。 リンクをありがとうございます。 ちょっとじっくり読ませていただきますね。 そもそも中国では、秦山の地下に死者が住む世界があると信じられ、それと地獄が結びつき、 同様の霊山は中国各地に点在し、各々の山の冥界の都にて死後の審判を受けるとされてきたそうです。 で、その元締めが秦山府君という長官、後に仏教の地獄十王(閻魔をも含む)と混淆し、 かの阿倍晴明も「秦山府君祭=病気快癒・延命を祭祀・祈祷」を秘技とした伝えられているようです。 もしかすると小野篁もその秘技を駆使したのかもしれませんね。 余談ですが、「地鎮祭=とこしずめのまつり」」においては、「鎮物」を地中に埋めますよね。 こうしてみると、現代の私達の何気ない日常においても、古からの風習や信仰を、 少なからず引き摺っているのだなあ、と思わずにはいられません。 http://www.yumesyokunin.co.jp/jitinsai.html そして、例のお地蔵様は、鎮物なんかではなくて、やはり床下という「この世とあの世の境界にいる道祖神&ほとけさま的役割を担っているのかもしれませんね。  う~ん。 謎は深まるばかりなり。 私は推理や思索が超苦手なので、ここはrupapo様にお願いしますね(退散)。 ps:山岳信仰と言えば、一度で良いからココを訪れ、出来得るならば登ってみたいわけなのですが…↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BB%8F%E5%AF%BA

noname#163492
質問者

お礼

いつもありがとうございます。 >高千穂では夜神楽を見学しました。 う・・・羨ましい~ 前から見たかったんです。 >結構エロティックだったりなんかして。 民間芸能にはそういうのが多いですよね。 我々の祖先はそこに神秘的なものを感じたのでしょうか。 天岩戸神社の紹介をありがとうございます。 ぜひとも行かねば! 実は私は大阪府枚方市に住んでいます。 神武天皇が上陸し、ナガスネヒコにコテンパンにやられた所です。 ナガスネヒコの本拠地だったのでしょう。 で近所には天野川がありまして、機物神社と牽牛石が天の川を挟んで対面しています。 どちらも天孫降臨の地なので比較してみると面白いだろうと思っています。 ひろさちやさんの説、興味深いです。 山中他界・地中他界・海上他界ですか。 そして地中他界・海上他界は黄泉の国=常世の国=根の国だと。 スサノオが海神とされたり、根の国の王とされたりしていることと合致しますね。 >山中他界は、死者が生者と同じ場所に居ながら次元が異なる大変ユニークな世界観のようですね。 うむー、そうなんですか! そしてそれが秦山府君の信仰と結びつくのですね。 >もしかすると小野篁もその秘技を駆使したのかもしれませんね。 ナカナカ興味深い推理です。 >古からの風習や信仰を、 少なからず引き摺っているのだなあ、と思わずにはいられません。 全く同感です! 三仏寺、凄いですね。 こんな建物は見たことがありません。 古の人々が建物を建物以上のものとして見ていた、ということが 感じられます。

noname#163492
質問者

補足

お礼の補足です。 >どちらも天孫降臨の地なので 天孫ニギハヤヒが降臨した磐船神社は天野川の上流にあります。

回答No.4

こんにちは。回答が遅くなりました。ごめんなさいね。 >初代神武天皇は日向より東征し、はじめ大阪の白肩の津(大阪府枚方市といわれています)より畿内入りしたそうです。 >迂回して紀州より畿内入りしようとします。 >神武はたいへんな苦労をして熊野を越えて再び畿内入り なるほど、熊野越えがサバイバルな黄泉の国ということですね。 主人の親戚が神武天皇の船出の地の超ご近所で、訪れるたびに車の中から、水平線を一望するように立つ大きな石碑を眺めたりするのです。 >黄泉の国に行くと御利益がある 神話は悲惨な話ながら、神武天皇の東征の成功体験をふまえると、確かにそのようにも考えられますね。 >六道の辻ですが、六波羅蜜寺の隣に地蔵堂 >お盆のときに熊野那智曼陀羅図を公開しています。 >やはり、六道の辻は熊野と関連づけて考えられていた >能の熊野がお暇をいただくことができたのは、黄泉の国である六道の辻を通ってきた御利益だと、そういう物語ではないかと個人的には思いました。 う~ん、なるほど~。  一応、従来的には「鬘物」という”恋愛とその苦悩”がテーマなのですが、通過する場所が場所だけに、何やら暗喩めいたものがあるのかもしれませんね。 熊野の母親の死の予感とか何かそのようなもの。 >清水寺もまた黄泉の国なのだと思います。 >あの舞台の上からかつて死体を投げ捨てていたというのは、あまりに有名な話です。 ! 全く知りませんでした。 ご教示真にありがとうございます。 仏教寺院に「黄泉の国」の概念とは、やはり神仏混淆の賜でしょうか。 で、「黄泉の国」に「参詣」したら、御利益があるということになりますか。 それと「長床」ですが、 平安時代初期に仏教行事用に設けられた長い畳敷きを意味したものが、熊野修験の建物を指すようになります。 加持祈祷、験比べ、延年の舞などの参籠修行をおこなう道場として、長く大きな床板張りが主な仕様だったようです。 「修験道と山岳信仰」なるものを見つけたので(信憑性は不明ながら)よろしければどうぞ。 http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/77/7725/772505b.htm >奈良に矢田寺というお寺があります。京都にも商店街の中にその分院があるのですが。 >そこに小野篁の話が伝わっています。 なるほど、そういうことだったのですね。 でも…そのような伝説が伝わる裏には、一体いかなる「事情」があったのだろう?なんて思ってみたりして。う~ん。 rupapo様、その後の途中経過はいかがでしょうか。

noname#163492
質問者

お礼

いつも楽しく読ませていただいています。 ありがとうございます♪ おーっ、親戚の方が日向におられるのですか。 神話の国ですよね。 あのあたりには行ったことがなく、憧れの土地です。 >水平線を一望するように立つ大きな石碑 とはどんなものなのでしょうか。 「長床」の説明ありがとうございます。 参籠修行をおこなう場なのですね。 ご指摘のとおり、古の人はそこに床以上の意味を見出していたことでしょう。 「修験道と山岳信仰」紹介下さってありがとうございます。 興味深く拝読いたしました。 >でも…そのような伝説が伝わる裏には、一体いかなる「事情」があったのだろう?なんて思ってみたりして。う~ん。 そうそう、そこなんです。わからないのは。 小野篁という人はやたらいろんな伝説がありまして、だけどなんでこんな伝説が残されているのか、さっぱりわからない。 http://homepage3.nifty.com/kyotosanpo/kyotodensetu/densetuannai.html それがわかればお地蔵様の意味もわかるかもしれませんが。 奈良では志貴皇子の邸宅跡と伝わる白毫寺で「閻魔詣」が行われているようで、関係ありそうです。 志貴皇子は薨去年が日本書紀では716年、万葉集詞書では715年となっています。 笠金村と言う人が挽歌を詠んでいますが、その歌から志貴皇子が死亡したのは715年だが、1年ちかくその死が伏せられていたのではないか、という説を読んだことがあります。(本のタイトルは忘れました・・汗) 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに 御笠山 野辺行く道は こきだくも 繁く荒れたるか 久にあらなくに 篁もそういうことがあったのかなあ、と思ったりもしますがそういうことを示すものがみつからない。 mashumaro2さんがおっしゃるように、隠岐から許されて都へ戻ってきたために、こういう伝説があるのかもしれません。 また床の下は海で閻魔様や篁様の像を護っておられるのかもしれません。 はー、今回はお手上げです。 疑問は疑問のまま暫くおいとくことにしました。 しかし、mashumaro2さんの視点はすばらしい、大変勉強になりました! 歴史カテもトキドキ覗いてくださるとうれしいです。

回答No.3

こんにちは。  八坂神社の「翁」ですか、観劇なさったのですね。羨ましい~ rupapo様、推理のほどは進展がございましたか?^^ >熊野という名前はやはり熊野信仰の熊野と関係あるのでしょうか。 >六波羅蜜寺~清水寺のあたりは鳥部野の風葬地であったところです。 >熊野は黄泉の国だとする説があるようですね。 いいえ、「熊野」は流派によって「湯谷」とも称し、熊野信仰との深い因果関係は無いと思います。 いくら花見のためとはいえ、あの一帯を通過するのは、えも言われぬ心地がしたのかもしれませんね。(rupapo様のウキウキ感とは好対照?) 熊野が黄泉の国とする説、ご存知でしたらご教示いただけますか。 能は、武家の世である室町時代に洗練を極めるも、「熊野」など平安作品に題材を得ているものが多く、 ご質問との関連性が薄い後世の芸能である、能の醸し出すあの「陰陽」、 それは平安時代に発展し、祈祷や祓いに大きく寄与したと考えられます。 そして後の武家社会の成立と共に、それは日常の表舞台より姿を消す一方、芸能、或いは秘かな民間信仰として、深く静かに根ざしていったのではないでしょうか。 ところで、wikiで調べましたが、閻魔と地蔵菩薩は一体とのこと。 ではいったい、小野篁との繋がりは何なのでしょうね。(わかりませんね~) 平安遷都を行った桓武天皇には早良親王という弟がおり、親王の怨霊化をおそれ鎮魂の儀式を行わせたとされていますね。 「崇道天皇」のおくり名とともに、奈良の地に移送され、早良親王を祀る「崇道神社」が京都にもあるとのこと。 その早良親王の御魂を鎮めるための儀式を執り行った、或いは鎮守の森の主とは、いったい誰だったのでしょう。 崇道神社には小野神社という社があり、かつてその一帯は小野郷と呼ばれていたそうです。 貞観元年(859)従五位下に叙せられ、延喜の制には官社となり、国家の祭祀にあずかった小野氏一族の氏神社とのこと、 「小野毛人(妹子の子)墓碑」のほかに、「出雲高野神社」などが点在するそうです。 仮に、小野氏が代々国家の祭祀に深く関与してきたのであれば、早良親王の鎮魂の儀式においても、大いに力を発揮してきたはず。 その儀式においては、古代に仏教と共に伝来した陰陽思想が習合していったとは考えられるでしょうか。 そして、その小野氏の末裔であれば、魑魅魍魎とした超然的な力を小野篁も相伝したと、周囲から思われてもあまり不自然ではないように思われるのです。 彼の経歴も波乱に満ちたようで、官位剥奪の上隠岐へ流されるも、数年で帰京し、参議の要職に就いたあたりは、 「あの世からの見事な生還」をも予感させたりなんかして。 さらに、rupapo様ご指摘の梅原氏の御説「法隆寺の閂が聖徳太子の怨霊封じの寺」を鑑みると、 小野氏がかなり古くから、何らかの形で怨霊封じにかかわっていたと考えられなくもないのですよ。 ああでも、小野毛人は太政官だったとのこと、祭祀を所管する神祇官ではなかったわけですし、 小野氏が陰陽道との深い結び付きを裏付ける手掛かりがないのです。とほほ。 >岩船地蔵堂という名前からしてそんなイメージがありますね。 >奈良に岩船寺とか大阪交野市に磐船神社というのがありますが、その関連も気になりますね。 >岩船寺では天邪鬼が五重塔のひさしを支えていましたが、サテ? 本当にrupapo様は、詳しくていらっしゃいますね。 鎌倉は眼の前が海なので、「船」と称する地蔵堂があって違和感ないのですが、 逆になぜ奈良に岩船寺があるのでしょうね。 「仏教では人間の煩悩を表す象徴として、四天王や執金剛神に踏みつけられている悪鬼=あまのじゃく」が、何故五重塔のひさしを支えているのです? すみません、拙文が長くなってしまいましたので、「長床」以下は明日以降にします。

noname#163492
質問者

お礼

>閻魔と地蔵菩薩は一体とのこと。小野篁との繋がりは何なのでしょうね。 奈良に矢田寺というお寺があります。京都にも商店街の中にその分院があるのですが。 そこに小野篁の話が伝わっています。 http://www.yatadera.or.jp/cont2.htm 「崇道神社」へは行ったことがありません。 ご紹介いただいたので近々お参りしたいとおもいます。 そこに小野神社があるのですね。 >彼官位剥奪の上隠岐へ流されるも、数年で帰京し、参議の要職に就いたあたりは、 「あの世からの見事な生還」をも予感させたりなんかして。 >小野氏がかなり古くから、何らかの形で怨霊封じにかかわっていたと考えられなくもないのですよ。 >とほほ。 同感です。 しかし、ここに篁と船のかかわりが見出せますね。 「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」 また遣唐福使に任じられたが、故障している船と交換せよ、と命じられたということも篁と船とのかかわりを感じますね。 岩船寺の天邪鬼が何故五重塔のひさしを支えているのかについては、これという話は伝わっていないようです。

noname#163492
質問者

補足

いつもありがとうございます。 >熊野が黄泉の国とする説、ご存知でしたらご教示いただけますか。 詳しくは存じ上げません。 ただ、「熊野 黄泉」で検索するとたくさんヒットします。 初代神武天皇は日向より東征し、はじめ大阪の白肩の津(大阪府枚方市といわれています)より畿内入りしたそうです。 しかし、迎え撃ったナガスネヒコ軍に撃退され、迂回して紀州より畿内入りしようとします。 神武はたいへんな苦労をして熊野を越えて再び畿内入りし、ナガスネヒコが神と奉じるニギハヤヒを服して即位しました。 私は神武が超えた熊野とは黄泉の国をイメージしたものだと思います。 なぜなら、大国主も一度黄泉の国へいき、そこで黄泉の王・スサノオから知恵をさずかって葦原中国を治める王となっているからです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E3%81%AE%E7%A5%9E%E8%A9%B1 詳しくは上記の【根の国の訪問】をお読みください。 また京都の法輪寺では十三詣(13歳になった子供が参拝する)が行われていますが、別名を「知恵もらい」といい、お参りして桂川にかかる渡月橋を越えるとき、決して後ろを振り向いてはいけないといわれています。 これは、黄泉の国へ行ったイザナギが、イザナミに「決して振り返って姿をみてばいけない」と言われたという話を思い出させます。 どうも黄泉の国へいって戻ってくると、ご利益があるというような信仰があったんじゃないですかね? で、六道の辻ですが、六波羅蜜寺の隣に地蔵堂があり、そこではお盆のときに熊野那智曼陀羅図を公開しています。 やはり、六道の辻は熊野と関連づけて考えられていたのではないでしょうか。 能の熊野がお暇をいただくことができたのは、黄泉の国である六道の辻を通ってきた御利益だと、そういう物語ではないかと個人的には思いました。 ついでにいえば清水寺もまた黄泉の国なのだと思います。 あの舞台の上からかつて死体を投げ捨てていたというのは、あまりに有名な話です。 >そして後の武家社会の成立と共に、それは日常の表舞台より姿を消す一方、芸能、或いは秘かな民間信仰として、深く静かに根ざしていったのではないでしょうか。 いや~、全くそのとおりだと思います。

回答No.2

こんばんは。 身にあまるお礼に感謝申し上げます。 このたびもrupapo様の推理をひたすら愉しみにしております。 >六道珍皇寺の開基とされる寺に千本閻魔堂がありますが >ここでも「鬼は内」と言っていました。 >で、千本閻魔堂狂言「鬼の念仏」が演じられます。 >死者を裁く鬼が改心して念仏を唱えるようになるお話 まあ、「鬼の改心」とは…鬼が人間みたいでとても面白いですね~ 是非一度観てみたいです!  東京の国立能楽堂でも、二月三日に『節分』が上演されます。 こちらも、一目ぼれした女房に鬼が蓬莱の島の宝を取られてしまうという、少々情けないあらすじです。  狂言の鬼は、どうやら播磨の印南野あたりで産出が多いみたい。 能の「熊野(ゆや)」はご存知でしょうか。 以下のサイトの現代語訳8頁目に「六道の辻」の場面がございます。 よろしければ、どうぞ。 http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_016.html 平家物語に題材を得た作品で、若い女性用の赤い色の入った「紅入(いろいり)」の装束をつけます。 女面もクリックしてご覧になれます。ご参考までに。 http://www.noh-kyogen.com/story/na/yuya.html 脱線ついでに申し上げますと、私達の顔同様に、面も左右対称ではありません。 寂しげな「陰」、華やかな「陽」という、左右の微細な差が存在するのです。 平置きで静観すると左右対称に見える面ながら、 光の陰影を受け緩急織り交ぜることにより、面に血が通い生き生きと情感豊かに映るように思え、 この左右非対称が生み出す変幻を愛でる文化、 これは現代にも充分受け継がれているに違いありません。 >神様のことを「柱」と数えることからして。 はい、仰る通りですね。 諏訪大社の御柱祭もそれに該当するのでしょう。面白い数え方ですね。 >千本閻魔堂の近くにある千本釈迦堂には >大工の棟梁の妻・阿亀の物語が伝わっていますし >近所には釘抜き地蔵なんてのもあります。 なるほど、たくさんのご教示、とても参考になります。 「釘を打ち」にも色々ありますね。 画像ながら阿亀桜は素晴らしい! 京都のお寺の桜は本当に美しいと思います。 その寺院建築について、少々。 平安遷都には、大和の寺院勢力から政を分離させる狙いがあり、 その後の最澄、空海等の活躍も含め、仏教が広汎に拡がるにつれ、寺院建築も多様化していきました。 平安時代の主な特徴としては、仏堂の「土間→≪床≫式への推移」、屋根形式の変化、 さらには仏教芸術との融合による華麗で装飾的な内部空間の成立などが挙げられます。 また、崖や岩にもたせ掛けるように床部が長柱で支えられる建築を「懸造」と称し、 かの清水寺も、岩座を信仰するアニミズムと山岳仏教との習合によるものと言えましょう。 ──桜の時期とはいえ、熊野がとおったであろう当時の近辺の光景には、何ともうら寂しい風情があったことでしょうね。 >我々の先祖が「床」に何を見たのか、 >常世、というのが面白いなあ、と思いました。 床板1枚ならぬ、船板1枚隔てた下には、数百~数千メートルの底知れぬ暗く深い闇/地獄(=海)が待ち構えています。 海底探査の無かった時代、昔の船乗りたちは、さぞかし心許なく思ったことでしょう。 「船」も古今東西、とても重要な乗り物だったはずですよね。 鎌倉には「岩船地蔵」というお寺がありまして、そちらの床下にお地蔵さまがあったという記載を見つけました。 「鎌倉二十四か所地蔵めぐり」と打っていただき、第15番霊場をご覧くださいませ。 また、『日本書紀』の記載では、常世神がまつられ祖廟が建てられたと記されている箇所があるそうですね。 次はご指摘の「長床」と神社建築についてもふれたいと思います。 >篁・閻魔堂に安置されている篁や閻魔様が地獄の住人であり >ソレを護るかのようにお地蔵さんがいるということがなんか不思議。 はい、三者がどのように結びついているのか、気になりますね。 平安遷都に伴い、怨霊信仰も飛躍、発展したということでしょうか。 さらに、仏教とともに古代の日本に伝来した「陰陽思想」などの影響も見逃せないと思われます。 だって、あの能が垣間見せる凄まじい気迫と情炎ですらも、「陰陽」の攻防なくしては、決して生まれ得ないのですから。

noname#163492
質問者

お礼

いつもすばらしいヒントを下さり、ありがとうございます。 えーと、今回は推理するだけのソースを持ち合わせておりませんで、申し訳ないです。 ですので、いただいた回答を読みながら、ひたすら「ナルホド~」と思っております。 mashumaro2さんは能がお好きなのですね。 私は八阪神社で行われた翁しか見たことがありませんが、興味あります。 ですので「熊野」、とても楽しく拝読いたしました。 去年の春、桜の季節に六波羅蜜寺から愛宕寺跡、六道の辻をへて馬留、清水寺へとお参りしました。 その記憶を辿りながらまるで熊野とともに歩いているような気分に。 ところで熊野という名前はやはり熊野信仰の熊野と関係あるのでしょうか。 六波羅蜜寺~清水寺のあたりは鳥部野の風葬地であったところです。 そして熊野は黄泉の国だとする説があるようですね。 >私達の顔同様に、面も左右対称ではありません。 京都に伝わる壬生狂言・閻魔堂狂言などは少し見たことがありますが、確かに少し違うようですね。 で、演者さんの演技力のせいなのか、お面が泣いたり笑ったりするように感じられました。 >床板1枚ならぬ、船板1枚隔てた下には、数百~数千メートルの底知れぬ暗く深い闇/地獄(=海)が待ち構えています。 海底探査の無かった時代、昔の船乗りたちは、さぞかし心許なく思ったことでしょう。 海には海神が住む竜宮がありますね。 海神はスサノオと同体ということですので、死の世界ですね。 すると船乗りたちにとって床というのはまさしく生死を繋ぐものだったわけですね。 で、岩船地蔵堂ですね。 床下に舟形光背の地蔵石像があったと書いてありました! うーん、やっぱり何か意味があっておいてあるんでしょうね。 >『日本書紀』の記載では、常世神がまつられ祖廟が建てられたと記されている箇所があるそうですね。 ちょっと調べてみましたがよくわかりませんでした。 mashumaro2さんは、船の床下が海であることと床下の地蔵を結びつけておられるのですね。 なるほど、スルドイ、と思いました。 岩船地蔵堂という名前からしてそんなイメージがありますね。 奈良に岩船寺とか大阪交野市に磐船神社というのがありますが、その関連も気になりますね。 岩船寺では天邪鬼が五重塔のひさしを支えていましたが、サテ? (なんにも見えてこない。とほほ。)

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