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本願寺

川原 文月(@bungetsu)の回答

回答No.4

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>権力を分散させるために、東西本願寺に分割した(秀吉の西に対し、東を別立)と認識していました。 まず、浄土真宗本願寺派(通称、西本願寺)の歴史から見ていく必要がありそうですね。 (1)親鸞の遺骨を末娘の覚信尼(かくしんに)が京都・東山・吉水に改葬し廟舎を建てたのが、そもそも「本願寺」の始まりです。 (2)覚信尼は自らを親鸞廟所の「留守職(るすしき=管理者)」となって、その職を世襲制にしました。 (3)その後、親鸞の曾孫の覚如(かくにょ)は、そこに「本願寺」という寺号を掲げて、正式に「本願寺」と呼ばせました。 (4)こうして誕生した「本願寺教団」が第8世蓮如(れんにょ)の頃、「一向宗」とも呼ばれるようになり、やかで、教団の拡大とともに、各地で「一向一揆」が勃発。織田信長と10年余りに渡り対峙、世に言う「石山合戦」でした。 (5)合戦の後、第11世顕如(けんにょ)は、公家の三条公頼の娘と結婚していたこともあり、正親町天皇の勅命を受け入れて、一向一揆を沈静化に成功する。 (6)しかし、顕如の長男の教如(きょうにょ)は強固に反対したため、顕如は、やむなく、教如を義絶した。 (7)顕如の死後、秀吉によって六条堀川に寺領を与えられ、第12世には教如が継ぐこととなっていたが、顕如の側室の如春尼(じょしゅんに)が顕如が義絶していることを訴え、如春尼と教如の亀裂は決定的となった。そして、如春尼は、ついに、顕如の末子の准如(じゅんにょ)を第12世とする。 (8)教如は、やむなく、自派の一派とともに寺を出た。そして、本願寺教団は、これにより分裂をする。 以後、准如の系譜を「本願寺派(西本願寺)」と呼ぶようになりました。 次に、真宗大谷派(通称、東本願寺)について、 (1)石山合戦が顕如により終結したが、この時、「和解の受け入れ」か「徹底交戦」かで意見が2つに分かれ、激しく対立した。 (2)結果、「和解受け入れ派」の保守派は、第11世顕如とともに石山本願寺を出た。一方、「徹底交戦派」の革新派は教如とともに籠城を続けた。 この対立の構図がそのまま、本願寺の東西分裂と言われている。 (3)慶長7年(1602)、家康は、浄土真宗の巨大組織を恐れ、浄土真宗派からは阻害視されていた教如に対して、寺所(真宗本廟)を与え、第12代本願寺宗主として復帰させた。 (4)以後、この教如の流れが「大谷派」となり、「東本願寺」と呼ばれるようになった。 (5)江戸時代では、本願寺派と同じく封建的な教団基盤を作り、トップの「法主」は「如来の代官」とされ、法主それ自体が崇敬の対象とされた。 (6)一方、その設立の経緯から徳川幕府には忠実な姿勢を貫き、法主の居間には代々、家康の位牌が安置されていた。 (7)倒幕に対しては、「西」が朝廷や勤皇方を支援したのに対して、「東」は、最後まで徳川幕府側を支援し続けた。 (8)明治14年、「真宗大谷派」を宗名とした。 (9)明治の終わり頃、清沢満之(きよざわまんし)が法主崇敬を批判し、 「(阿弥陀)如来の奴隷となれ、その他のものの奴隷となることなかれ」 と、提唱し、「歎異抄(たんにしょう)」を再発見して親鸞再評価のきっかけをつくった。 (10)しかし、「浄土真宗本願寺派(西)」も「真宗大谷派(東)」も血族間での争いや「保守派」「革新派」と巨大化してしまい、ついには、昭和40年代半ば、第24世法主、大谷光暢(おおたにこうちょう)と内局を預かる長男の光紹(こうしょう)が対立し、光紹は東本願寺を去り、昭和63年、東京都台東区に「東京本願寺」を建立して「浄土真宗東本願寺派」を名乗るようになった。 (11)一方、「真宗大谷派(東)」は、平成8年、大谷光暢の三男の暢顕(ちょうけん)が相承して、内紛は一応終息した。 >>他方、ウィキペディアによれば、 「西本願寺」は、浄土真宗本願寺派の本山。正式名称は「本願寺」。 「東本願寺」は、真宗大谷派の本山。正式名称は「真宗本廟」。(1987年〈昭和62年〉までは「本願寺」が正式名称。) とあります。 西が「本願寺」と名乗るようになったのは、前述の「西本願寺」の説明の(3)が根拠だと思います。 東が「真宗本廟」と言われるのは、前述の「東本願寺」の説明の(3)が根拠と思われます。 >>しかし、1997年1月出版のエアリガイド京都(昭文社)には、 東本願寺の説明として、「正しくは本願寺」とあります。 近年は、ほぼ正式に「西本願寺」(浄土真宗本願寺派)と呼び、「東本願寺」(真宗大谷派)と呼ばれるようになっていますので、「昭文社」さん、オー・ミステイクのような気がします。 ただし、前述の「東本願寺」の説明の(2)を根拠にしているのかもしれません。

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