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ひとは やわらがしめられうるか?

 あやまちを犯したひとを 存在としてとうとび あやまちについて 赦すことも赦さないこともしないし 出来ないし してはならないという境地になるとき やわらがしめられる。かも知れない。  赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ。  (犯したあやまちの内実を説明してやるということ)。  社会との根本的な和解が成るか? ということ。  この不案内のまま 問います。

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  • ベストアンサー
  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.6

 恩恵というものは――それが何なのかよく考えてみると、何となくそのようなものがこの世にはあるのかもしれないと、――それについて、生まれて初めてよく考えたとき、  そのときにはすでに、恩恵を受け取った後だったのではないかと僕は思います。  だから慌てて見直してみて、受け取った分だけはせめてお返ししたい――人間として真面目にそう思えたとき、自分は負った者だったのだと定義されるのだろうと思うんです。つまり人間は、(誰でもそうだと思いますが)気付いたときにはすでに、自らが負った債務に対して「赦されたい」という望みを抱く存在となっている、つまり債務者となっているはずです。  信仰というものをひとまず置いて、自らの経験だけで真面目に自分を定義してみようと考えたとき、「自分は債務者である」という前提は、極めて重要な公理であり、この公理を抜きにしては社会人としての営みのほとんど全てが説明できないものになってしまうと僕は考えます。  恩恵という言葉の意味をもしも知ったなら、そのとき、その人間は、債務者となっている筈なのであり、もしもそうではなく、自分が0から始められると思っていたのなら、その人は恩恵の意味を知らないというふうに言い換える事ができる。  この短いセンテンスである古い時代の存在論が、「赦し」あるいは、「学び」、そして「労働」、これらのような全ての社会的営みの基礎となっている。ある・なしという極めてシンプルな存在論は、いつの時代かはわかりませんが、少なくとも自分の生まれる遥かむかしからずっと続けられており、このような掟があるなどとは終ぞ知らないうちに、ふと気付いたときには、どうやらそんな世界に自分は紛れ込んでいた――という状況です。  誰かから受けた恩恵に対し、その価値に値するか否かはわからないまでも、自分の持つ力(すなわち労働力)を、自分と世界の境界線である肉体の行動によって提供する――これが労働の(そして赦しの)基本だと思います。  その行動が、果たして受けた恩恵の価値に見合うかどうかはわからない。  人と人との係わり、これは一種の交易だと思いますが、そうであれば尚のこと、より原初的なニューギニアの人々の交易に原型を見ることができるだろうと思います。10月に亡くなったレヴィ・ストロースの受け売りですが、海辺の住人たちは、隣村との境に漁で得た魚を置いて立ち去ります。すると、山の住人たちは魚を受け取った代わりに山芋を置いて立ち去る。  このような言葉を介さない交易の習慣が古い時代にはあって、賢明な彼らは、来月はエビにして欲しいとか、蕎麦を食べたいとかいう要望を決して相手に要求したりはしない。交易の基本は恩恵であり、恩恵の基本は相手が何を求めているかわからない状態でなければ、意味がないからだと思います。決して等しくならない価値が前提になっているからこそ、数千年の月日を越えて、交易は続く。  人間は言葉と通貨を用い始めたとき、この交易の基本を少しだけ限定したものにしたのだろうと思います。勝手に質問を閉じてしまった質問者に対し、少し書き残したことを補足する意味で、答えてみました。赦しというのは、信仰よりも古い、このような習慣のなかに織り込まれているだろうと思います。

bragelonne
質問者

補足

 よう モテモテ男。文学音痴(!! へへっ)の ri_rong さんにしては しゃれたご見解で。ご回答をありがとうございます。  まづ 結論において使われている用語の定義の問題があります。半ば重箱の隅のほじくりですが でも必要だろうと考えます。  ★ 赦しというのは、信仰よりも古い、このような習慣のなかに織り込まれているだろうと思います。  ☆ もしこの《赦し》を 仮りに〔母や父の恩などを含めて〕もっぱら経験行為にかかわる債権債務関係をめぐってのものだとすれば 《信仰》とは――と言っても 信仰は結果的にその経験行為をつつむことになるようですが―― 次元がちがうと考えます。そういう定義です。  ぎゃくに言いかえます。いわゆる《人生は貸しを与えたり その借りの返しっこの連続である》という意味での《負い目》についての《赦し》の問題であるとすれば 《信仰》とは直接にかかわらないと言っても――信仰は生きる姿勢のようなものですから―― 大きく同じ主題だと捉えなければならないでしょう。  このげんみつさを据えてみるならば なるほどと合点のゆく――なみだのちょちょぎれる――すばらしいお答えであると思います。  ★ 決して等しくならない価値が前提になっているからこそ、数千年の月日を越えて、交易は続く。  ☆ つまり 赦し合い――やわらがしめられたこころどうしの――としてのおつき合いが続く。スサノヲ市民社会( die Susanowoschaft )は歴史のかまどである。(えっ? なんでマルクスなの?)( krya1998 さんの世界ですね。浅草下町だそうです)。  長期の展望としての理論を提出していただきました。これが――つまりなお 現場における現実のやわらがしめられや臨床の応対実践がひかえているとも言わねばならないからですが―― 思想内容を別としたファビアン主義だと思いますし いわばハンニバルがジブラルタル海峡を渡って長期遠征に出るといった気構えであると思います。  しかも いまここでただちに やわらがしめられる。と言ってしまうのは 信仰という安易な奥の手です。非思考というのは ときを超えていますから。  レヰ゛ストロースの主義思想はおもしろくなさそうですが その個別の研究成果は生かされましたね。そう言えば トロブリアンド諸島で各島の各ムラのあいだで 円環貿易をしていたとか。Aムラから始まって Nムラまで交易の流れがたどりつくと このNムラは Aムラに品物を提供する。環が完結する。  ということは あれですか つまり この円環をどこででも破ってもよいから 重層無尽に世界中に交通網を張り巡らせばよいとも考えられます。ま いまもそうなっていますかね。あとは こころだけでしょうか。  あとは 《掟》などと言われると いわゆる《律法》のにおいがするので 過剰反応しときます。しかも安易な奥の手によって。  《正義や善悪や裁き》などの律法規範は モーセによってもたらされたけれども 真理と恩恵とはかのイエスによって指し示された。そのときには 石の板に記された規範やムラムラの慣習法としての掟をとおしてではなく きみたちのむねに刻まれた愛のちからとして 真理がはたらき 恩恵は 恩恵の上に恩恵が与えられるというところまで――暗示のごとく――示されたようなのです。  書き残したことがあるような感じですが いまは放っておきましょう。

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その他の回答 (17)

noname#117439
noname#117439
回答No.8

オコリザルです。 A1の続きです。 >よしと思った行いが悪のそしりを受ける。 >真と思った言葉が嘘とあざ笑われる。 この続きとして、 誉を称えたつもりが「我はそれを成さぬ」と劣情を生む。 としておきましょうか。 前回の御質問では主観内に収まること。と、言う表現をお見受けしました。 誤解を生む表現ですがこれらの要素は自己完結と言う言葉をよういて一人っきりの思索に入ってはいかがでしょうか。 私を含めて外野席からの言葉はもう、どうでもいいのだと思います。 私自身の取り組みでは、「私が私である」の延長として「我」の一語の概念を「我はある」の立場から検証を必要とする壁にぶつかっています。 「我はある」をブラフマンになぞらえて、ブラフマンとは神で無く「我」の一語であるという前提から自我論を集約する取り組みの最中です。 人間としての普遍性と、人間本性と言う言葉は、表現はともかく同根であると言う前提でブラフマンと言う神を「我」と規定する取り組みです。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。ブラフマンは たしかに類型的に《絶対者》であり《神》に相当すると思いますが そしてアートマン(それとして 我れ)との一体を言えば 非思考の信仰についての類型としても 有神論のひとつの典型であるかと思いますが そのあとが はっきりしません。  もしくは いろんな経験的な事物がからんで来て――ヰ゛シュヌやシワ゛などの神々ですが それらの半分はすでに 台風など自然の力であったりそれがおさまるところの力であったりするので―― はっきりしすぎなのではないでしょうか? 正直に申せば 哲学の探究に耐え得るか 疑いが持たれます。(もっともそれほど明るいわけではないので 横眼からの感想でした)。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  前回の御質問では主観内に収まること。と、言う表現をお見受けしました。  誤解を生む表現ですがこれらの要素は自己完結と言う言葉をよういて一人っきりの思索に入ってはいかがでしょうか。  私を含めて外野席からの言葉はもう、どうでもいいのだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはまったく違います。逆です。赦す・赦さないという感情やその表現は 主観の内におさまるゆえに たとえば事態の説明がだいじであるからそれにつとめるといったように ほかの人びととの交通の継続が肝心です。  思索は独りでするものですが それがそもそも《一人っきりの思索》というふうな性格を持つこととは正反対ですよ。社会ゆえに考えるのです。社会に《わたし》は含まれます。

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回答No.7

何か bragelonneさんの文章が、いよいよわかりにくい言い回しになってきているように思うのですが、 それは無学な(アカデミックな哲学等の世界を知らなさ過ぎる)私のみの感想でしょうか? 理解不能とかではなくても、 いろんなふうにとれて、回答が難しくなってきたりします。 例えば、  あやまちを赦す赦さない と言っても、 自分や仲間が傷つけられた(心身どちらでもいいのですが)から、赦せない、 という時と、 そのあやまちを赦したら、その人は不幸になると思えた時の だから赦さない という時とでは、 論議の性格がまったく違ってくると思います。 その時、 この新しい質問は、 どちらかと言うと後者の方を問うているということなのでしょうか? 例えば 後者ならば、子どもが嘘をついた場合、 その利己心が故の嘘をそういう嘘と見抜いたならば、あるいは親としてそう思えた場合は その親は その子の嘘をついた非を 非と解からせるまで徹底してそれを追及するのが正しいのかもしれません。 そこからさらに、 では、その親の見解はほんとうに正しいのかどうか?という点に発展するにしても、 まず、最初の親の気持のあたりを問い正しておかないと、 話は 両方ともまざった複雑な議論となってしまったりすると思います。 そして、そこまで議論が進んでくると そこに》あやまちについて 赦すことも赦さないこともしないし 出来ないし してはならないという境地になるとき やわらがしめられる。かも知れない。《 という 神ならぬ身の自覚(相対性の自覚)の問題とかが浮かび上がってきたりするのかとは思うのですが…。 さて、その次が さらに、私にとっては問題となってしまいます。 》 赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ。  (犯したあやまちの内実を説明してやるということ)。  社会との根本的な和解が成るか? ということ。 《 本来“文章についても見識の深い”bragelonneさんであるのに(ずっと昔の 文章についての回答に感銘を受けたことを憶えていますので。 どこだったかは忘れましたが)、 この文の並べ方では 脈絡がよく解からなくて、全体として何が質問の主旨なのかが 見えてこないように思われます。 それに続いての、 》この不案内のまま 問います。《 何かを模索していて それが解からないから 解かりかけてるから その不安定な気持のまま正直に 迷ったままの文を並べたというとかいったことなのでしょうか? やっぱり、私にはということかもしれませんが buragelonneさんの文章は、以前よりもずっと回答が難しく感じられるようになっています。 言葉の並べ方で、 詩であるなら むしろ稚拙な並べ方のほうが その心の内実を、あるいは生きられた体験の姿をよりよく表出しているかもしれません。   哲学においても、 そのような言い回しの在り処(ありどころ)があるのかもしれません。 私が知らないだけなのかもしれません。 が、 私は このようにも思うのです。 何か 心の世界について 論議を深めたり、考えを深めたりする時には、 単純に、 「幸せとは何か」という論議や思索と、もう1つ「苦しみがどんなに苦しい存在か」についての記憶との 2つの間をしっかり考えた上で進めてゆくのでない限り、  どんな論理性も 私たちの五感の大地に根ざしたものとはならず、どこまでも ややこしいものへと進んでいってしまうのでは? というふうにも、 ここ、この議論の場にても 本気で危惧する気持にもなるのです。 相手の幸せを もし本気で考えてのことならば、 時と場とそのケースによっては、赦さないということも相手に寄添う《愛》の立場となるかと思います。 が、その場合も 裁く(罰を与える?とうことですか?)というのは、 》内実を説明《してあげる行為としての 模範的ですぐれた行為とは確かに思えません。  もっといい方法がたくさんあるはずです。 (》裁く《については ぜんぜん違った意味で捉えているかもしれません。 でも 全体の中の意味合いがうまくつかめないので、こんなふうに、いろいろと解釈できてしまえたりするわけです) たとえば、 ある教育者が言っていたことですが「長所を見つけて その中に包んで、 相手の非をも説明するならば そういう方法も無きにしもあらず、 でも長所だけを指摘するのが教育の実践の場での帰結だ。 そのほうが むしろ火花は散るし、その火花は自分自身も学べるところのものとなる」と。  そうだろうと私も思うのです。 それに添えば、 bragelonneさんの質問文の長所は、たしかに深いとも言えるものとなります。  どう思われるかには頓着しないで ほんとに ほんとうに言いたいことを書いている、 書かないではいられない その情熱の根拠の深さを たしかに、そこに想定させます。 (この回答の中での場合 「無きにしもあらず」の方にも したがっているわけです) その何がしかによって 文の並びも 独自のものが生まれているのだと思います。 ですので、 それ自体を批判するとかではないのですが、 私のように回答がしずらくなってしまう文章、ややこしい文章となっていることは 私の方からは指摘しないではいられなかったところなのです。 それが、 社会(ここでは 質問者と回答者の交流に例えてみました)との間において、 その全体にとってより発展的になるかどうかを それが間違ってるか正しいかまでは次の議論とするならば、 私自身は 吟味した上で 全体にとっても ここは語ったほうが、 そういう文章の悪しき面の方は赦さないほうが、私は よりよいと思える。 がゆえに そう、こここの場を借りて 回答に含めて書いてみた、 ということなのですが、回答になっていますでしょうか? 以前にも 文章については書いたことがありますが、 その時にはbragelonneさんは「私は 解かりやすく書くという点は苦手だ」と、解かりやすく^^語ってくださったことがあったと思います。 また、 これはプリメアペさんの文についてなのですが、 以前は とんでもないほどわかりにくくて それでもよ~く読んでゆくと抽象的すぎるだけであり、何かを適確に掴んでいることはなんとなく解かるという文だったところ、 今回は とても解かり易くなっています。 プリメアペさんも 同じように「解かりやすく書くのは苦手」と語っていましたが、それは どうなってしまったのでしょう(笑)。 bragelonneさんの場合は、 さらに解かりやすく(書こうと思えば)書けると思えるので、 そのへんが謎です。 このケースは赦すべきところか? 私の脳では判断できません。(この場合 個人の能力の限界の問題でしょうが) 判断できないけれども、 ともかく書いてみました。(やってみないとわからない 人間の限界性と それでも未来に向かって進むことで、 和解が成ってゆく 賭けの悲しさと、それでも存在の中にある希望とにおいて) (なお「希望」はもしかしたら、私の無意識の中にいつしか芽生えていた《信仰》によるものなのかもしれませんが ここは よく解かりません)…。

bragelonne
質問者

補足

 arayata333 さん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自分や仲間が傷つけられた(心身どちらでもいいのですが)から、赦せない、 という時と、  そのあやまちを赦したら、その人は不幸になると思えた時の だから赦さない という時とでは、 論議の性格がまったく違ってくると思います。  その時、 この新しい質問は、 どちらかと言うと後者の方を問うているということなのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もともと《赦す・赦さない》については ひとはその自然本性において 能力を持たない・なじまないと推し測っていますが まだ定かになっていません。特には 赦せないという感情が起こることは実際ですから そのような言語習慣にしたがってあたかも赦す・赦さないの能力を持つかに見える側面があるようです。  ここでは その感情や感情にまつわる言葉の言い回しの側面については 焦点を当てないという意味で 《赦し》を《さばく》と関連させて捉えようとはしています。  裁くという意味で赦さないということは 能力もそのような感情にもとづく習慣もないのではないか。これです。  ★ 子どもが嘘をついた場合、 その利己心が故の嘘をそういう嘘と見抜いたならば うんぬん  ☆ というときのように 《犯したあやまちの内実を説明してやるということ》すなわち事件の分析ないし事情の説明は つねに伴なわれます。  ★ 何かを模索していて それが解からないから 解かりかけてるから その不安定な気持のまま正直に 迷ったままの文を並べたというとかいったことなのでしょうか?  ☆ 見切り発車ですから そのとおりですよ。見切り発車と舌足らずとは 必ずしも同じではないではないか? そうですが 表現の舌足らずのままも 見切り発車なのです。  ★ 裁く(罰を与える?とうことですか?)   ☆ これは違います。ひとをおのれと同じ存在であるとは思わなくなることです。おのれより下に見下すことです。  ともかく  ○ ひとは やわらがしめられうるか?  ○ 社会との根本的な和解が成るか? ということ。  ☆ これが主題なのですから これなら分かると考えてよいと思うのですが どうでしょう?  それに これまでのやり取りはすでに趣旨説明になって来ていると思いますよ。

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  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.5

人と人とは決して分かりあえないもの、共感はない、だけど、間接的な共感、つまり同感はある。ある観念を通じてのとかなにかを通じてということです。 和人の立場といたしましては、すべてをしなやかにある一定の距離を持ちつつ取り入れて同感していきたいのです。 和解はきっとないけど、決して癒やされることのない悲しみを悲しみとして深く味わうことはできる。悲しみよ、こんにちは。

bragelonne
質問者

補足

 heartmind さん あらためまして こんにちは。始めましてです。ご回答をありがとうございます。  サガンの物語の筋とは一応 別なのですね。  ★ 和解はきっとないけど、決して癒やされることのない悲しみを悲しみとして深く味わうことはできる。悲しみよ、こんにちは。  ☆ 孤独を深く味わうと孤独を突き抜けると考えたことがあるのですが 悲しみについては そういうわけには行きませんか?  孤独は その奥底において 孤独関係であるのですね。悲しみは 悲しみの関係にはなりませんか?    《かねる》は 《赦しかねる》と言えば 《赦そうと思ってもどうにもしがたい》という意味になるごとく 《不可能・困難》の意を表わします。ここから 《悲し》は来たそうです。(二つの役を兼ねるの兼ねるとは 別のことばのようです)。  ○ 行く∽ゆかし(そちらへ心が行きたい気持ちだ)  ○ 痛む∽痛まし(心が痛む状態だ)  ○ 頼む∽頼もし(頼みたい気持ちだ)  ○ かねる∽かなし(おのれの力ではどうしようもないという思いだ。/ ただし 《愛し》とも書くように どうしようもないほど切ない つまり いとしい・かわいくてならぬの意をも兼ねていたようです)。  個別のことで質問を兼ねて見ていきます。  ★ 人と人とは決して分かりあえないもの  ☆ これは 《おのれの内面のことよりほかは 人に向き合っても その心が分からない。つまり分かりあえたと思ったことは すべてが自分の心の中にある思いのみである》という意味で 同意します。  ★ 共感はない、だけど、間接的な共感、つまり同感はある。ある観念を通じてのとかなにかを通じてということです。  ☆ 用語がわたしとは違っています。違いを記しておきます。よりよい定義のあり方があれば わたしもそれに従いたいと思います。  《同感》は 《同意》と同じ意味に使います。《見解を同じくすること。賛成》の意です。  《共感》は 《同じ見解ではないけれど 趣旨として・大筋において・方向性として賛成である。もしくは 同じ感覚になった》を表わすと考えていました。同感よりは賛成の度合いが弱いかたちです。  初対面で言うのも何ですが ついでですから言いますが  ★ ある観念を通じてのとかなにかを通じてということ  ☆ これは 当たり前だと思いますよ。人格が互いに違うのですから。これと同じように当たり前だと思ったのは  ★ ある一定の距離を持ちつつ取り入れて  ☆ です。人格が違うのですから。いくら感情移入しても 距離は置いています。  ★ 和人の立場といたしましては、  ☆ これは例の《和を以って貴しと為す》と唱えるときの人のことを言うのですか?  ★ すべてをしなやかにある一定の距離を持ちつつ取り入れて同感していきたいのです。  ☆ これはどうでしょうかねぇ。そこまでの力量やふところの深さがあればよいのでしょうけれど。  ふつうは 経験合理性に照らして妥当であるかどうか これを互いに明らかにし合うのではないでしょうか? 自由な批評や批判に互いにさらされている。これでこそ 表現や言論の自由が成り立つ。つまりいま言っていることは  ★ すべてを・・・取り入れて同感して  ☆ の《すべてを取り入れる》という行き方に物言いを唱えたものです。それとも 賛同・反対の両方を含むはずなのだが まづは相手の発言というもの自体を受け容れるという意味でしょうか? 批判はそのあとだということでしょうか?  このように考えますが どうでしょう?

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noname#122427
noname#122427
回答No.4

お邪魔します。 昨日締められた質問の派生、でしょうか。 以前の私の質問も関わるようで、興味深く拝見させて頂きました。 そうは言っても、未だ未だ未消化ですが。。。 >赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ これは、被害者その他(加害者以外)の意識の話ですよね。 赦す人/赦さない人、赦せる人/赦せない人、どちらの存在も「在って当然」とする、と言う事でしょうか。 >(犯したあやまちの内実を説明してやるということ) 只「ちゃんと事実を把握する」と言う事かしら。。。 その上で >社会との根本的な和解が成るか? がご質問でよろしいでしょうか? 前回の質問がうまく消化出来ないままなので、もう議論済みかも知れませんが、 犯罪を含む「あやまち」を思う時、私はいつもあやまちを「起こさせた存在」を思います。 全てのあやまちは、過去の社会の歪みの現れである、と感じているからです。 特に顕著に分かり易い、と思うのは、中東の自爆テロや同時多発テロと考えています。 其処迄する状態に迄「追い込んだ者」が居るから、あやまち?を犯す者が居る、と。 あやまちを犯す者と、追い込む者。 この意識で和解へ向かう、と言うのはいかがでしょうか? (もう解決済みでしたら申し訳ありません) あーーでも、被害者を「追い込んだ者」に含めるか否か?は難しいですね。。。 未だ未だだ。。。汗

bragelonne
質問者

補足

 yukkinn66 さん ご回答をありがとうございます。  岸田秀は読んだのですが――大昔です―― 自身も《フロイトの精神分析は そもそも社会心理学である》という見方を立てて自説を展開していたと思うのですが その中から 個人ないし個人間の《性についての解釈》を問うておられるのですよね? これはもう覚えていないと正直に告白せざるを得ません。という取りあえずひとことでした。  この質問は 《不案内のまま》という文字通りに見切り発車したものです。何かどこかトンネルを抜けることができるような《錯覚》を覚えたのでした。  さて  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  犯罪を含む「あやまち」を思う時、私はいつもあやまちを「起こさせた存在」を思います。  全てのあやまちは、過去の社会の歪みの現れである、と感じているからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは同感です。と同時に それは甘やかしであるという反論をつねに聞いています。世の中はそんなに甘いものではないのだぞというわけだそうです。  それなら・そこまで言うのなら あやまちを起こすようなことのない形で甘くない世の中を築けばよいではないか? なぜそのことに注意を払わないのか? と訊いてみたくなります。  なぜ耐えよ耐えよの――いわゆる精神主義の――合唱なのでしょう?  なぜいつも無私のこころだよの繰り返しなのでしょう?  しがらみの中で死ね 死んで(つまり 死んだつもりで)寿命をまっとうせよ たとえ奴隷の自由であっても楽しいときもあるはずだ そのおかげで長寿大国になったではないか。といま《幸せな》方々は言いたいようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  特に顕著に分かり易い、と思うのは、中東の自爆テロや同時多発テロと考えています。  其処迄する状態に迄「追い込んだ者」が居るから、あやまち?を犯す者が居る、と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから あやまちを犯す境遇や情況に追いやっている場合があるということをいま幸せな人びとは知っている。この咎めをかわすためにかどうか すでに《追い込まれた者》を実際にあやまちを犯すようにと 資金を供給したりして仕組むということさえ行なっているのではないか? という疑いがかけられるようになっているのではないでしょうか?  誰もが暮らしよい世の中を願いそれにつとめるのであると言うのならば そんなからくりで いまの幸せを保守するということは考えもしないでしょうに。  以上 すっ飛びました。  ★ 赦す人/赦さない人、赦せる人/赦せない人、どちらの存在も「在って当然」とする、と言う事でしょうか。  ☆ そういうことでしょうね。つまり 個人の主観内では まったくさまざまに思いは起こるし揺れ動くこともあるでしょう。それを公言してもよいはずです。ただ こころの底では  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >(犯したあやまちの内実を説明してやるということ)  只「ちゃんと事実を把握する」と言う事かしら。。。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という仕事もこなしておけるほど 大海のごとく静やかなやわらぎを感じている。感情丸出しである でもひとを裁いてはいない。  熟さぬままにて。

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  • heartmind
  • ベストアンサー率14% (32/226)
回答No.3

おはようございます。ブロジェンヌさん、おはつです。 サガンの悲しみよこんにちはです。

bragelonne
質問者

補足

 ご投稿をありがとうございます。  ですが アドバイスの意味が読み取れなくて お応えしかねています。

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回答No.2

 自分自身、内面の事として、「和らがしめる?」“和らぐ”(心穏やかになる)でしょう。  それは神や仏の心と同質であるから。  ぞくっぽく、使い古された言葉で言うならば、「罪を憎んで人を憎まず」  このような心境は、あくまでも個人の内面の事。  社会とのかかわりに於いては、“複雑”と云うしかありません。  

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noname#117439
noname#117439
回答No.1

オコリザルです。 >やわらがしめられる。 コレ言葉としてどういう意味でしょうか。 よしと思った行いが悪のそしりお受ける。 真と思った言葉が嘘とあざ笑われる。 これらと同じく、 > 社会との根本的な和解が成るか? ということ。 これも、罪の問題も、他者との間の問題で内心においては自らに、罪など無いと言う心構えを強固に持ちうるかどうかではないでしょうか。 法を破ったという事実はまた別の話です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  やわらぐことをせしめられることです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  よしと思った行いが悪のそしりを受ける。  真と思った言葉が嘘とあざ笑われる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このようないろんなことを体験して そのあと社会の中で ひとと あるいは 世の中と 和解を得ることができるかです。  ★ 法を破ったという事実はまた別の話です。  ☆ が  ★ 他者との間の問題で内心においては自らに、罪など無いと言う心構えを強固に持ちうるかどうかではないでしょうか。  ☆ というのは どうでしょう。或る程度のこころの傷み・疼きはあるのではないでしょうか? その上で 癒やされること・和解を与えられること これは出来るか? です。どうでしょう?

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     同じおもむきの質問をしたことがあります。ふたたびみたび問いたいと思います。  ひとつには けっきょく世界との和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  では あやまちをこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  つまり 哲学として批判をすること。および 必要ならば 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  こういう問いです。  さらに この主題の内実が明らかにされて行くことをのぞみます。ふるってご回答をお寄せください。  * 批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。  どうでしょう?

  • 人が 人のあやまちを赦すことができるか?

     この問いをなお問います。  1.   まづ前身の質問の趣旨説明をかかげます。    ひとつには けっきょく世界との和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。  ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  では あやまちをこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  つまり 哲学として批判をすること。および 必要ならば 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  こういう問いです。  この主題はその内実として まだ分からないところがあるかも知れません。それが明らかにされて行くことをものぞみます。ふるってご回答をお寄せください。  * 批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。  どうでしょう?      _________    2.  さらに趣旨説明を継ぎます。  早い遅いはあるでしょうが 誰もが自分の与えてしまった迷惑や危害については いかにオモテ向きは低姿勢であやまり続けていたとしても 内心では《取り返しがつかない。けれども 詫びようがない。どうしようもない》というところに落ち着いて自分を赦していると思われます。  もっと言うならば たとえばそのあやまちを犯してしまったそのあとの人生をすべてその害をこうむった相手のためにささげて生きるのみだと考え じっさいにそう生き切ったとした場合 そうだとしても オモテ向きは自分を赦していないけれども そのようなつぐない人生を送るというかたちで自分との和解は成り立たせていると思われるからです。  つまり たいへんな負い目を負いそれをすべて払いきるというきびしい人生ではあるのですが たとえばそのようなかたちで けっきょく自分を赦している。こう思われます。  そしてちなみに 昔は 死んでおわびしますという言い方(および実行?)がありましたが 死んだからと言って 自分を赦さなかったということにはならないように考えられるのではありませんか?  そのように 自分を赦すかどうかについて考えるなら たいていは赦すのであり おそらく赦さない能力は 人間にはないのではないでしょうか?  でも 被害者やその近しい人たちから見れば その加害者については とうぜんのごとく《おのれを赦す能力も資格もないに決まっているではないか》というふうに扱うはずです。  そうして もしこの被害者やその身内の人びとが 仮りに自分たちがそれぞれ加害者になったとした場合を考えるなら どうなりましょうか。  つまり 世間の相場から行けば 加害者である自分については遅かれ早かれ赦すでしょうし かつて自分が被害者であったときにはその加害者に対しては こんなことを言っていた。(あるいは思っていた)。と思い出す。つまり 《どんな面をさげて おまえは自分を赦せたのか? 自分を赦したなどと言えるのか。オモテにはその気配も出さないからと言って その内面でいったいどんなことを思っているのか? わたしは知っているのだ あんたは内心ですでに自分を赦してしまっているということを》と。  だったら――つまりそんな内心の探りっこをしているくらいなら―― けっきょく人間には《赦す資格も能力もなく 同時に赦さない能力も資格もない》 こう考えをあらためるなら きわめて人間的な共生のための方程式が得られるのではないか?  3.  さて このように趣旨説明をさらに伸ばしてみたのですが なお言い方を変えて説明します。  すなわちぎゃくに言えば 《赦すことができず赦さないことも出来ない》という能力を人間は 持っている。のではないか?   《赦す・赦さない》にはかかわりを持たないという能力が 生まれつき人間にはそなわっている。のではないか?  わたしは人間として 能力によって人を赦すことも赦さないことも出来ない。のだと。  つまり 或る人 A が或る人 B を死なせてしまった場合などを例として考えるとき それでも A は・つまりわれわれの おそらく 誰もが 自分を赦すようになると思われます。  これは いかにつぐないを続け 残りの人生がすべて償いの時間であったとしても その内心は自分を赦しているものと思われます。  むしろ そうであるゆえに(つまり やがて時とともに自分を赦してしまったと或る日悔いたことがあった ゆえに) つぐないをして 自分の不甲斐無さのつぐないをしようと思うものなのでしょう。  自分を赦していないという姿勢を採り その心を持ち続け つぐないの人生を送るという外形と 片や内心とは 果たして同じでしょうか? 舌を出して笑っているわけではないとしても 心はと言えば もうとっくに自分を赦しているのではないでしょうか?  もし自分が加害者であって 想うにそのような外面と内面とを合わせ持つポスト加害の人生を送らざるを得ないのだと決めた場合 果たして《つぐない》ということは もしそうすべきだとして どうすればよいのか?   おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?  赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか?  4.  この質問が問うこととしては あやまりの言葉 おわびの言葉を申し述べること これは問題ないと思うのですが 問題は そこに《赦す・赦さない》が入ると ことは人間存在の一大事にかかわっているのではないかということにあります。  きわめてぶしつけで挑戦的な言い方をすれば 《ごめんなさい》のひと言で ことは全部終わったということ これが 人間たちのあり方なのではないか?   あとは 法律上の――あるいは法律に準じた考え方の上での――かたちあるモノによるつぐない これは それとしてしかるべく伴なわれるだろうとは思います。心身のあるいは生活上の損傷を埋めるだけとしてでも 助け合いは必要でしょうから。  5.  いかがでしょう?   そして 問いの出し方や問題点の切り口がずれていたり間違っていたりしていましょうか? 主題そのものの認識がつたないでしょうか?

  • 人は他人や自己やそのあやまちを赦す能力があるか

     次の命題についてその当否を問います。  ○ (人は他人や自己なる人をまたそのあやまちを赦す能力があるか)~~~~~  (あ) 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。  (い) 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。       (う) 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。  (え)=(い) マチガイを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。      (お)=(あ) 自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さないかの判定をするようには出来ていない。  (か) わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に反してでも――想像力によってかき立てた人間から始まって その気持ちや第二の心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?  (き) 《なんぢ ころすなかれ》という文(発言・命題)に表わすことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての倫理問題を生んだ。のではないか?  (く) ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方を見直すべきではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  別の言い方で問います。  (け) けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれとの和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  (こ) その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  (さ) では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  (し) つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  (す) 批判を伝えたあとは――人間存在としてのカカハリは どこまでもありましょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  (せ) というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。    (そ) その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。

  • なぜ人は おのが《固有の時》を大事にしない

     それが ターミナルであるのに。  つまり起点であり終点であり基地になり港になりしばしば他者に対して連絡船であり仲介所であり分岐点でもあるそのハタラキの泉を。  人間存在は 具体的な存在たる一人ひとりの《わたし》にあって やがて自己が自己に到来するという《固有の時》がおとづれる。  《なるほど存在とは こういうことだったのかとおのれが人間であることをさとり確認するとき》がおとづれる。  つまり 存在が存在でありわたしがわたしである自己還帰に到り 世界における自己の位置づけを確認し おのれが人間として生まれて来たことの自己了解を得る。  ただし この自己到来・自己還帰・自己了解は 自己が自己であるというコトのみであって そこに何かの理念や思想が伴なわれることはない。むしろ あたかも思考を超えて理念をも超えたところで その固有の時はおとづれる。  わが《固有のとき》とは 自己が自己に到来するときである。    自己到来というのは 世間と自分が和解しているという意味である。  じっさいにそういう心の状態にあることだ。  しかも 自分自身とも和解している。  おれは こうなのだ。これが おれなのだ。こうであって おれはおれなのだという境地。  そうして わたしが世界と和解し世界にしかるべく位置しているなら 何をやっても悔いが無い。    これは 何ものにも代えがたくとうとい。  はずである。    きみは この《とき》を見たか?  

  • みづからに立ち帰る・世間との和解

     《前史を終わらせる》問題を継ぎます。  1. 自己との和解そして世の中との和解 これが――さまざまなきっかけをとおして いかなるかたちにおいて起きるにせよ―― 個人にとっての《前史の終了 すなわち 後史への突入》だと考えられます。  2. では和解は どうすれば生まれるのか? いかにしてわが心におとづれるのか?  3. ひとつには どうもつらつら考えるに 《悪は存在しない》という命題に心から同意することと同時なのではないか?  4. 悪と呼ぶ行為ないし現象は実際に起きているが それは 善の損傷としてあるのであって 《悪》というイデアやモノが存在しているわけではないのだ。この認識と身における感性的な秩序のようなものが成り立つとき こころのわだかまりは解けて 《和解》が成る。こう考えました。  5. 人びとの中には 一生のあいだについぞこの和解を見ない場合もあるのだろうか?  6. 死を前にした心境において 和解の境地は得られるものだろうか? つまり人は遅くとも死の直前には 自己に立ち帰り世の中とも解け合い 結ぼれたしがらみは無くなっていると言えるだろうか?  7. 言いかえると人びとの中には 死んでも その無明のうちに過ごす前史が終わらないという場合もあるだろうか?  8. 死ぬまで 《悪》なる観念に悩まされつづける魂は 存在するだろうか?

  • 人は何故 同じ過ち を繰り返すのでしょうか?

    どうして人は「同じ過ち」を繰り返すのでしょうか? 政治家の失言で本人が辞職したり、お決まりのお詫び会見なども含め 飲酒事故であれほど社会問題となっているというのに・・・ 未だにあちこちで飲酒事故が繰り返されたり。 喉元過ぎたら、結局はその痛みも忘れてしまうのでしょうか? どうしてこのような同じ過ちを繰り返すとお考えになりますか?

  • 天国に入る人の数は、14万4千人と書かれているそう

    時々、この哲学カテを興味深く覗かさせ頂いております。ところで、 <こころは 果たして存在するか> という質問がありました。その回答に <最初に天国に入る人の数は14万4千人と書かれてます> という説明がありました。狭き門だな、という感慨です。 キリスト教にも不案内ですので、どこに書いてあるのか、教えて下さい。

  • どうしたら人を好きになれますか?

    20代後半のものです。 仕事がなくて困っています。それも、社会や人が好きじゃないことが原因のひとつだと思います。 小さいころは人が好きでした。色々あって、自分の殻に入るようになってしまいました。 根本的に自分が好きじゃないんでしょうか? どうしたら人を好きになれますか?

このQ&Aのポイント
  • 【DCP-J892N】での印刷において、クリーニングを行っても文字がかすれる問題について相談です。強力なクリーニングを行った場合は印刷結果が完全に読めなくなることが多く、通常のクリーニングでも2枚目以降は文字がかすれます。さまざまな方法を試しましたが改善されません。
  • 【DCP-J892N】での印刷時にクリーニングを行っても文字がかすれる問題が発生しています。印刷品質チェックシートの文字も読めないほどの影響があり、通常のクリーニングでも2枚目以降は文字がかすれてしまいます。電源を切って休ませるなどさまざまな方法を試しましたが改善が見られません。
  • 【DCP-J892N】の印刷において、クリーニングをしても文字がかすれる問題が発生しています。特に強力なクリーニングを行うと印刷結果が全く読めなくなることが多く、通常のクリーニングでも2枚目以降は文字がかすれます。電源を切ってなどのリセット方法も試しましたが解決しません。
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