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ひとは やわらがしめられうるか?

arayata333の回答

回答No.7

何か bragelonneさんの文章が、いよいよわかりにくい言い回しになってきているように思うのですが、 それは無学な(アカデミックな哲学等の世界を知らなさ過ぎる)私のみの感想でしょうか? 理解不能とかではなくても、 いろんなふうにとれて、回答が難しくなってきたりします。 例えば、  あやまちを赦す赦さない と言っても、 自分や仲間が傷つけられた(心身どちらでもいいのですが)から、赦せない、 という時と、 そのあやまちを赦したら、その人は不幸になると思えた時の だから赦さない という時とでは、 論議の性格がまったく違ってくると思います。 その時、 この新しい質問は、 どちらかと言うと後者の方を問うているということなのでしょうか? 例えば 後者ならば、子どもが嘘をついた場合、 その利己心が故の嘘をそういう嘘と見抜いたならば、あるいは親としてそう思えた場合は その親は その子の嘘をついた非を 非と解からせるまで徹底してそれを追及するのが正しいのかもしれません。 そこからさらに、 では、その親の見解はほんとうに正しいのかどうか?という点に発展するにしても、 まず、最初の親の気持のあたりを問い正しておかないと、 話は 両方ともまざった複雑な議論となってしまったりすると思います。 そして、そこまで議論が進んでくると そこに》あやまちについて 赦すことも赦さないこともしないし 出来ないし してはならないという境地になるとき やわらがしめられる。かも知れない。《 という 神ならぬ身の自覚(相対性の自覚)の問題とかが浮かび上がってきたりするのかとは思うのですが…。 さて、その次が さらに、私にとっては問題となってしまいます。 》 赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ。  (犯したあやまちの内実を説明してやるということ)。  社会との根本的な和解が成るか? ということ。 《 本来“文章についても見識の深い”bragelonneさんであるのに(ずっと昔の 文章についての回答に感銘を受けたことを憶えていますので。 どこだったかは忘れましたが)、 この文の並べ方では 脈絡がよく解からなくて、全体として何が質問の主旨なのかが 見えてこないように思われます。 それに続いての、 》この不案内のまま 問います。《 何かを模索していて それが解からないから 解かりかけてるから その不安定な気持のまま正直に 迷ったままの文を並べたというとかいったことなのでしょうか? やっぱり、私にはということかもしれませんが buragelonneさんの文章は、以前よりもずっと回答が難しく感じられるようになっています。 言葉の並べ方で、 詩であるなら むしろ稚拙な並べ方のほうが その心の内実を、あるいは生きられた体験の姿をよりよく表出しているかもしれません。   哲学においても、 そのような言い回しの在り処(ありどころ)があるのかもしれません。 私が知らないだけなのかもしれません。 が、 私は このようにも思うのです。 何か 心の世界について 論議を深めたり、考えを深めたりする時には、 単純に、 「幸せとは何か」という論議や思索と、もう1つ「苦しみがどんなに苦しい存在か」についての記憶との 2つの間をしっかり考えた上で進めてゆくのでない限り、  どんな論理性も 私たちの五感の大地に根ざしたものとはならず、どこまでも ややこしいものへと進んでいってしまうのでは? というふうにも、 ここ、この議論の場にても 本気で危惧する気持にもなるのです。 相手の幸せを もし本気で考えてのことならば、 時と場とそのケースによっては、赦さないということも相手に寄添う《愛》の立場となるかと思います。 が、その場合も 裁く(罰を与える?とうことですか?)というのは、 》内実を説明《してあげる行為としての 模範的ですぐれた行為とは確かに思えません。  もっといい方法がたくさんあるはずです。 (》裁く《については ぜんぜん違った意味で捉えているかもしれません。 でも 全体の中の意味合いがうまくつかめないので、こんなふうに、いろいろと解釈できてしまえたりするわけです) たとえば、 ある教育者が言っていたことですが「長所を見つけて その中に包んで、 相手の非をも説明するならば そういう方法も無きにしもあらず、 でも長所だけを指摘するのが教育の実践の場での帰結だ。 そのほうが むしろ火花は散るし、その火花は自分自身も学べるところのものとなる」と。  そうだろうと私も思うのです。 それに添えば、 bragelonneさんの質問文の長所は、たしかに深いとも言えるものとなります。  どう思われるかには頓着しないで ほんとに ほんとうに言いたいことを書いている、 書かないではいられない その情熱の根拠の深さを たしかに、そこに想定させます。 (この回答の中での場合 「無きにしもあらず」の方にも したがっているわけです) その何がしかによって 文の並びも 独自のものが生まれているのだと思います。 ですので、 それ自体を批判するとかではないのですが、 私のように回答がしずらくなってしまう文章、ややこしい文章となっていることは 私の方からは指摘しないではいられなかったところなのです。 それが、 社会(ここでは 質問者と回答者の交流に例えてみました)との間において、 その全体にとってより発展的になるかどうかを それが間違ってるか正しいかまでは次の議論とするならば、 私自身は 吟味した上で 全体にとっても ここは語ったほうが、 そういう文章の悪しき面の方は赦さないほうが、私は よりよいと思える。 がゆえに そう、こここの場を借りて 回答に含めて書いてみた、 ということなのですが、回答になっていますでしょうか? 以前にも 文章については書いたことがありますが、 その時にはbragelonneさんは「私は 解かりやすく書くという点は苦手だ」と、解かりやすく^^語ってくださったことがあったと思います。 また、 これはプリメアペさんの文についてなのですが、 以前は とんでもないほどわかりにくくて それでもよ~く読んでゆくと抽象的すぎるだけであり、何かを適確に掴んでいることはなんとなく解かるという文だったところ、 今回は とても解かり易くなっています。 プリメアペさんも 同じように「解かりやすく書くのは苦手」と語っていましたが、それは どうなってしまったのでしょう(笑)。 bragelonneさんの場合は、 さらに解かりやすく(書こうと思えば)書けると思えるので、 そのへんが謎です。 このケースは赦すべきところか? 私の脳では判断できません。(この場合 個人の能力の限界の問題でしょうが) 判断できないけれども、 ともかく書いてみました。(やってみないとわからない 人間の限界性と それでも未来に向かって進むことで、 和解が成ってゆく 賭けの悲しさと、それでも存在の中にある希望とにおいて) (なお「希望」はもしかしたら、私の無意識の中にいつしか芽生えていた《信仰》によるものなのかもしれませんが ここは よく解かりません)…。

bragelonne
質問者

補足

 arayata333 さん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自分や仲間が傷つけられた(心身どちらでもいいのですが)から、赦せない、 という時と、  そのあやまちを赦したら、その人は不幸になると思えた時の だから赦さない という時とでは、 論議の性格がまったく違ってくると思います。  その時、 この新しい質問は、 どちらかと言うと後者の方を問うているということなのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もともと《赦す・赦さない》については ひとはその自然本性において 能力を持たない・なじまないと推し測っていますが まだ定かになっていません。特には 赦せないという感情が起こることは実際ですから そのような言語習慣にしたがってあたかも赦す・赦さないの能力を持つかに見える側面があるようです。  ここでは その感情や感情にまつわる言葉の言い回しの側面については 焦点を当てないという意味で 《赦し》を《さばく》と関連させて捉えようとはしています。  裁くという意味で赦さないということは 能力もそのような感情にもとづく習慣もないのではないか。これです。  ★ 子どもが嘘をついた場合、 その利己心が故の嘘をそういう嘘と見抜いたならば うんぬん  ☆ というときのように 《犯したあやまちの内実を説明してやるということ》すなわち事件の分析ないし事情の説明は つねに伴なわれます。  ★ 何かを模索していて それが解からないから 解かりかけてるから その不安定な気持のまま正直に 迷ったままの文を並べたというとかいったことなのでしょうか?  ☆ 見切り発車ですから そのとおりですよ。見切り発車と舌足らずとは 必ずしも同じではないではないか? そうですが 表現の舌足らずのままも 見切り発車なのです。  ★ 裁く(罰を与える?とうことですか?)   ☆ これは違います。ひとをおのれと同じ存在であるとは思わなくなることです。おのれより下に見下すことです。  ともかく  ○ ひとは やわらがしめられうるか?  ○ 社会との根本的な和解が成るか? ということ。  ☆ これが主題なのですから これなら分かると考えてよいと思うのですが どうでしょう?  それに これまでのやり取りはすでに趣旨説明になって来ていると思いますよ。

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