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土岐は今。。。本能寺でのIF

rczdの回答

  • rczd
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回答No.7

>専門家、若しくは専門家に近い方とお見受けしました。 いやいや、単なるモノ好きです。 >多くの既存勢力から反発を買うだろうし こと天正十年六月にまで至ってしまえば、反発すること自体、自らの死に直結するということを過去の信長の挙動を見ていれば分かり切ったことではないかと思います。そこまで根性が座った既存勢力が新たに生まれることは考えにくいと思います。ですので、本能寺の変当時、敵対していた勢力だけを考えました。 光秀のように内側から崩れることは、前提としておりませんし、最近流行の朝廷云々も…。 >毛利氏・北条氏・九州勢・東北勢はどうでしょうか? 毛利氏は秀吉率いる一方面軍だけで拮抗しているわけで、ここに信長本人と畿内軍が加わると圧倒的に不利になります。前線が崩れると一気に瓦解する可能性が非常に高いと考えています。信長死後、秀吉の大返しにつけ込めなかった毛利氏は、武田氏末期と同様に民政に問題あり(というか長期間にわたる信長・秀吉との抗争により軍事に重きを置かざるを得なかった?)と判断しました。 後北条氏は一応は武田殲滅戦に荷担しましたが、動きが遅かったようです。ですので、戦後、信長に対してしこたま贈り物作戦を展開しています(「信長公記」)。信長からすれば、いつかは…と思っていても不思議ではありません。ただ優先順位が低かっただけでしょう。旧武田領が安定してから具体的に動き出すのでしょう。 東北勢は先に示した通り、早い時期から接触が多くありました。武田氏滅亡後、滝川一益は「関東八州の御警護」と「東国の御取次」を信長から任されています(「信長公記」)。後者は東北の味方づくりと、これと平行して危険分子を見分けるという類の職務もあったように思います。一益がちゃんと仕事を遂行すれば、東北平定までそう時間はかからなかったでしょう。というか、東北に手を出す頃には既に大勢は固まっています。信長に抗うこと自体、あり得ません。 *一益も実子の嫡男は??です。 いずれにしても、前回・今回と私自信の考え方です。みなさまの考え方・史観を否定するモノではありません。特に今回の設問はifモノですので、誰も断言すべき確たる根拠というものはありません。 長文、失礼しました。

Astroia
質問者

補足

rczdさん、再度のご回答どうもありがとうございます。 >天正十年六月にまで至ってしまえば、反発すること自体、自らの死に直結するということを過去の信長の挙動を見ていれば分かり切ったことではないかと思います。 なるほど。 例えば斎藤山城守が稲葉山城下で行った楽市・楽座も、当時の座から猛烈な反発を受けましたが、巧みに懐柔し政治力を活かして解決に臨みましたね。 それに対し信長は、舅のやり方ではなく「すり潰す」方針を立てました。 そのことによって畏怖感を与えたとなると、仰る通りほとんどの抵抗勢力は気概を殺がれていたかもしれませんね。 それでも抵抗するのは、一向宗徒くらいでしょうか。 本願寺と形式的(だと思われる)和解を結んでも、仏敵に対して「進めば極楽退けば地獄」と吹聴されていた一般門徒及び雑賀衆は、果たして長島や伊賀のことを忘れるでしょうか? 私は戦国時代の小説を読むと、つい「もしも戦国の世に普通の農民として生を受けていたなら」と空想してしまいます。 当時の長い戦乱に継ぐ戦乱。それにより引き起こされる圧政、治安の低下。施政者への不信。 いままで一部の貴族のものだった宗教(というより世界観)に初めて触れたとき、私は、西方十万億土の彼方に導かれることを夢見なかっただろうか。 「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」 「いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」 といった言葉は、果たして、鋭くしかし煌びやかに、まるで母鳥に付き従う小鳥のように、私のアイデンティティに収まったことと思います。 江戸時代と異なり、それほど儒学の影響を受けていなかった武士よりも、民衆の方が抵抗勢力になりえるのではないだろうか。 その最たるものが一向門徒だと思いました。 毛利氏、北条氏、東北勢についてのご意見ありがとうございます。 ありがたく自らの考えを再構築する判断材料とさせていただきます。 再度のご回答どうもありがとうございました。 長文全然苦になりませんでした。 私は毎回具体的な史料を挙げられず、業務が暇になったら図書館に篭ろうかと思ってきました(笑)。

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