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あたりまえなのですが・・・・・

織田信長は、今川義元、浅井・朝倉、比叡山延暦寺、斎藤氏、武田氏、本願寺等々を攻め滅ぼし、天下統一まであと一歩というところで本能寺の変により自刃しました。 当たり前なのですが、織田信長が攻め滅ぼした勢力というものは、日本古来の勢力(織田氏もそうらしいのですが、いまいちマイナーというか胡散臭い)で、対して織田信長のイメージとしては、西洋からの文化を取り入れた変革者という感じでしょうか。 ここで質問なのですが、西洋の勢力がどのくらい織田信長に対して、援助していたかということです。全く関わりがなかったというのでは、説得力がないと思うのですが、いかがでしょうか。 どなたか教えて下さい。

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  • buchi-dog
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回答No.2

なぜ質問者さんが 「西洋の勢力がどのくらい織田信長に対して、援助していたかということです」 について 「全く関わりがなかったというのでは、説得力がないと思うのですが」 と考えるのか良く分かりませんが、答は 「信長は当時日本に対する独占的なキリスト教布教を行っていたイエズス会の者たちと接触があった。イエズス会のフロイスが本国に送った報告書は多数に上り、現代の歴史家が信長を研究する材料として貴重である」 程度です。 これは、信長が京都を支配して「日本国の第一人者」として自他共に認められていたからで、当たり前のことです。日本に来たイエズス会の者たちは西日本の諸大名と広く接触していましたが、「援助をする」というほどの力を持っていたわけではありません。 例えば、戦国時代の日本で、紀伊の雑賀衆(一向宗の熱烈な信徒)、根来衆(新義真言宗の僧兵)が強力な鉄砲隊を組織して「傭兵」の役割を果たしていたことが知られていますが、彼らはイエズス会から見れば「狂信的な異教徒」でしょう。全く相容れない存在であるはずです。 火縄銃を大量に使うには大量の火薬が必要であり、その主原料である硝石は輸入品でした。イエズス会が信長を援助できるとすれば、例えば 「信長が10年間も攻囲した石山本願寺の主戦力である雑賀衆の戦力を削ぐため、雑賀衆が輸入品の硝石を入手できないようにする」 などが思いつきますが、そんなことは全くなされませんでした。また、フロイスが「信長からそんなことを依頼されたが断わった」などと本国に書き送った事実もありません。 要するに、イエズス会他の西洋の勢力に、「織田信長を援助する」力などなく、期待もされていなかったということです。信長から見れば「南蛮坊主は珍奇なものを貢物に持って来て、海外の情報をもたらしてくれる。暇なときに引見すると面白い存在」に過ぎなかったと思われます。 また、仮にですが、イエズス会が信長に西洋帆船(乗組員つき)や大砲を供給すれば、これは信長にとって大変役に立ったでしょう。しかし、そうした事実は全くありません。 一方、信長が、石山本願寺を援助する毛利水軍に対抗するために「鉄甲船」を建造して堺沖に回航した時に、フロイスがこれを見て非常に驚き 「信長が建造した鉄甲船は大砲を積んでおり、実に不思議である。日本には大砲は大友宗麟が製造したものしかないはずだからである」 と本国に書き送っている事実があります。 要するに * イエズス会は、西洋帆船や大砲などを信長に供給したりはしなかった。ちなみに、日本に来ている西洋人は「西洋帆船の建造方法、羅針盤と六分儀を使う航海術、大砲の製造方法は決して日本人に教えてはならない」と協定していたと言われます。 * イエズス会は、信長が鉄甲船を建造するに当たり、何の関与もしていない。出来上がったものを見て驚いて本国に報告しただけである。 ということです。 なお、本能寺の変について、「イエズス会黒幕説」というのがあります。 歴史家の立花京子 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E4%BA%AC%E5%AD%90 が唱えるもので、詳しくは立花女史の著書 『信長と十字架』集英社新書 http://www.amazon.co.jp/dp/4087202259/ を読んで下さい。 この本によると、信長はイエズス会に操られて「天下布武」に乗り出して次々に敵対する勢力を滅ぼして行ったのだが、イエズス会にとって都合が悪くなったので、これもイエズス会の操る明智光秀に討たれた、ということです。 これが「荒唐無稽」であることは、上記のまとめを読んだだけでも分かるでしょう。 立花女史の説の矛盾点については、 「信長は謀略で殺されたのか(新書y) 」鈴木 眞哉 (著), 藤本 正行 (著) http://www.amazon.co.jp/dp/4896919955/ で詳細に検討されておりますので読んでみて下さい。

ll800k
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。紀伊の雑賀衆、根来衆は「傭兵」だったのですか。勉強不足ですみません。専門家の方の意見は、簡潔で整理されていてたいへん勉強になりました。西洋帆船の建造方法、羅針盤と六分儀を使う航海術、大砲の製造方法は当時伝えられなかったのですね。なるほど。ありがとうございました。

その他の回答 (4)

noname#94392
noname#94392
回答No.5

西洋での資本主義はキリスト教のプロテスタンティズムから、発生したのに対して、日本の資本主義は政教分離された武士社会に導入されたものです。  その礎を作ったのが織田信長です。 比叡山の焼き討ち、伊勢長島の大虐殺など、西洋文化を取り入れたやり方とはまったく思われません。 桶狭間の戦いの第一の功績を「義元は、桶狭間山の本陣で、戦勝と酒に酔いつぶれてグデングデンになりきっております」と伝えた梁田政綱に与えているところは、その当時の大名には考え付かなかったことで、その当時はバテレンとの接点はありません。  信長の時代の鉄砲の質量ともに世界一で、西洋から学ぶものは無いくらいでした。また、安土城も宣教師を驚嘆させる斬新さを持っていました。人材登用も、徹底した人材抜擢であり、他の大名にみられないもので、傭兵の中から登用していた西洋でも見られないものです。

  • tra55
  • ベストアンサー率10% (5/48)
回答No.4

「安土往還記」という小説は オルガンティーノ宣教師の護衛をした西洋人が 信長に召しだされて織田に鉄砲の集団用法を 指導するという変わった小説でした。 むろん史実性は薄いかもしれませんが こういうことがあっても、ありえそうで無さそうで 微妙なところが面白かった話でした。 火縄銃はポルトガルのものを模倣したと定説されて いますが大砲は、最初は何の模倣か不明だと されています、織田も大砲を使いましたが 織田のオリジナルは難しいので 西洋のものを真似して作ったか購入したんだろうと 思いますが、買ったにしろパクリで作ったにしろ 使い方などレクチャーというか指導をした 西洋人がいても不思議は無かっただろうと。

ll800k
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >火縄銃はポルトガルのものを模倣したと定説されて いますが大砲は、最初は何の模倣か不明 不明なのですか。このテーマを研究されている方はいらっしゃらないのでしょうか。 ありがとうございました!!

回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>ここで質問なのですが、西洋の勢力がどのくらい織田信長に対して、援助していたかということです。全く関わりがなかったというのでは、説得力がないと思うのですが、いかがでしょうか。 まず、イエスズ会の布教活動を許したことは、すでにご存知のことと思います。 この「南蛮貿易」を許可することにより、鉄砲はもちろんのこと、火薬の原料となる「硝石」を大量に手に入れることができました。 長篠の戦いで武田軍に対して「三段撃ち」をした・・・と、いう「逸話」があるように、多数の鉄砲隊を組織しました。 しかし、「三段撃ち」は、あくまでも「逸話」であって、火薬を込めた者から、次々と発砲していった・・・。それが、あたかも組織化されたように言われていますが、「信憑性」は今一ありません。 信長の時代には、インドを拠点としたイギリス、スペイン、オランダ、ポルトガルなどが東インド会社を設立し、東洋への勢力拡大とキリスト教の布教に力を入れていましたので、中国、日本、朝鮮などへの進出をもくろんでいました。 しかし、日本には、西洋人がもっとも欲しがる「香辛料」が発達しなかったため、「黄金の国ジパング」と言われたように、金銀での取引をしました。 事実、京の賀茂神社の賀茂氏などは、信長に黄金(金銀)を差し出し、庇護を受けています。

ll800k
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。なるほど、キリスト教の布教活動という視点もありますよね。専門知識をお持ちの方の意見はたいへん参考になります。「香辛料」という要素も関わっていたのですか。わさびの香辛料としての賞味期間が長期間もつように工夫されていれば、歴史は少し変わっていたのでしょうか?妄想は尽きません。

noname#94392
noname#94392
回答No.1

昔NHKの歴史番組で、キリシタンの牧師が信長に「砒素」を教え、スパイ活動で信玄と謙信に投与して殺したという説を紹介していました。

ll800k
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 やはり毒殺説もあるのですね。 確かに正々堂々と戦えば、どうなったかわかりませんものね。

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