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小和田哲男による今川義元の過大評価について
今川義元は、信長公記によると、信長に敗死した間抜けな人だそうです。 それなのに、小和田哲男は、今川義元は凄い、と過大評価をします。 なぜ捏造するのでしょうか? また、三河物語によると、今川義元は、弁当を食べてゆっくりしていたところ、雨が降ってきて、織田信長3千の攻撃を受けて、討死したそうです。なんて能天気なんでしょう?やはり今川義元は、凡庸と評するのが妥当でしょうか?
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- simanagasi
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皆さん熱くなってますね(^^;) 回答者と同意見ならなるほど。違うならスルーしていきましょうよ。 お手柔らかに。 私も以前は質問者様同様、以前は今川義元は馬にも乗れない凡将だと思っていました。 でも今はもっと評価されてもよい人物だと思いますよ。 すくなくてもNo.8様の回答のように、領国経営と統治の才はありました。 確かに合戦は上手いとは言えませんけど・・・。 「海道一の弓取り」について 豊臣秀吉は醍醐寺の醍という漢字が解らず悩む祐筆に向って「何の大でよいではないか」いう程度の漢字の知識しかなく、やたら天下一と部下を褒めるぐらい、語学力に乏しい人でしたので秀吉のアイデアで「海道一の弓取り」という言葉が出来たとは思いませんよ。 「小豆坂七本槍」から引用した「賎ヶ岳七本槍」同様、すでに存在したキャッチフレーズで今川義元が「海道一の弓取り」呼ばれていた前例から徳川家康と称えたと考えた方が自然じゃないかと。 あくまで私の考えですけど。
- TANUHACHI
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小和田哲男氏が今川義元を評価する部分ですが、それは戦うんぬんの問題ではありません。 今川義元が支配統治した駿河では「楽市楽座」のシステムが既に導入されていたことを評価しているのであって、誰が強い武将であるのかなどの歴史趣味の観点などによる評価ではないのです。 信長は確かに全国レベル(こうした表記にも問題がないではないが)での楽市楽座を導入しましたが、そのアイデア自体は信長の発案であるとはいえません。歴史学と歴史趣味の違いを一度根本から勉強し直す必要がありそうです。
- onbase koubou(@onbase)
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●三河物語によると、今川義元は、弁当を食べてゆっくりしていたところ、雨が降ってきて、織田信長3千の攻撃を受けて、討死したそうです。なんて能天気なんでしょう? ○それが「史実」であるかどうかを検証せずに鵜呑みにしているんですから質問者さんも大差ありません(笑)。
- Pinhole-09
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油断して飼い犬に食い殺されて、ぶざまな死に方をした 尾張の「大うつけ」を、太田牛一はどう評価するのかな。
- misawajp
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>海道一の弓取=徳川家康のことです。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。 >海道一の弓取=今川義元は捏造です。。。。。。。。。。 この認識が別の捏造に毒されているか、無知蒙昧の思い込みに固執していることの証拠です
- oska
- ベストアンサー率48% (4105/8467)
>今川義元は、信長公記によると、信長に敗死した間抜けな人だそうです。 歴史は、勝者が都合良く書くものです。 信長の敵だった義元を、英雄的に書く事はありません。 フィクションである忠臣蔵でも、浅野浅野内匠頭が被害者で吉良上野介が悪者になっていますよね。 史実を捏造した、講談・歌舞伎芝居用の物語に過ぎません。 三国志でも、中国側から見た小説ですよね。 近隣諸国側から見ると、侵略史に過ぎません。 >小和田哲男は、今川義元は凄い、と過大評価をします。 過大評価か否かは別として、史実に基づいた話をしているだけです。 先の吉良上野介にしても、名君と名高いのです。 が、吉良上野介を名君とすると忠臣蔵は時代劇として面白くありませんよね。^^; >三河物語によると、今川義元は、弁当を食べてゆっくりしていたところ・・・ 三河物語は、徳川家臣の書いた物語ですよね。 主君(家康)が人質になっていた城の城主が、今川義元です。 今川義元を美化する記述は、主君に遠慮して記載しません。 >今川義元は、凡庸と評するのが妥当でしょうか? 立場によって、評価は変わりますね。 金吾中納言にしても、関が原の裏切り者扱いですよね? 記録では、合戦前から家康に忠誠を誓っています。 明智光秀にしても、逆賊扱い。戦乱の世では、主殺しは普通です。 江戸中期までは、逆賊扱いにはなっていませんからね。 春日局を見れば、理解出来るでしよう。 足利尊氏なんか、幕末まで源氏の名門として武家から尊敬を受けていましたよ。 が、明治維新で天皇に弓を引いた逆賊として1945年まで扱われていました。 (明治政府は、足利将軍家子孫に爵位を授けるのを拒否) 立場によって、人の評価は変わります。
- tomozoi32
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個人的に思うのですが、「信長公記」も「三河物語」もそれぞれの視点から書いた記述が多いようなので、どうしても敵役として悪く書かれてしまうと思います。 今川義元自身は寄親・寄子制度を設け、合理的な軍事改革も行っており、武田、北条との三国同盟の締結、外征面でも領国を拡大させてますので、今川氏の戦国大名への転身を成功させた面では凡庸な武将ではないと思います。当時は「海道一の弓取り」と言われ、上洛して天下に号令する一番の有力候補でした。 桶狭間の戦いで奇襲されて討ち死にしますが、状況分析が十分でなかっただけで間抜けだったとは思いません。
補足
当時は「海道一の弓取り」と言われ >>>>>>>> 海道一の弓取=徳川家康のことです。東照宮御実紀に、家康のことと書いてある。命名者は秀吉で、小牧長久手で家康が大勝したことから。 海道一の弓取=今川義元は捏造です。。。。。。。。。。 秀吉掌を打て長く歎息し。誰か徳川を海道一の弓取とはいひしぞ。凡日本はいふにや及ぶ。唐天竺にも古今これ程の名大将あるべしとは思はれず。軍略妙謀あへてまろ等が及ぶ所ならずと感服し。東照宮御実紀巻三 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772965/33
- trajaa
- ベストアンサー率22% (2662/11921)
勝者の側からは幾らでも都合の良いように記録を作れる。 小和田さんがなんと言って『過大評価』しているのか?それが捏造と言われるのもなのか知らんが 研究者一人一人、資料の解釈具合とか評価具合は様々でしょう。 捏造と断定するからにはそれなりの根拠があるんだろうけど、信長公記とか三河物語とか100%正しいとは言えないんじゃなかろうか?
- poomen
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あなたは織田信長ファンですか。以前にも上杉氏は過大評価じゃないかと質問されておられましたね。 凡庸な武将ならあれほどの領土を維持することは難しかったでしょう。とにかく「信長公記」絶対主義はいけません。「信長公記」誇張・無視等々捏造だらけとは思われないのですか? 前回の質問で史料批判について素晴らしい回答をいただいていらっしゃいましたね。きちんと読んでいないのですか????。残念なことです!
補足
海道一の弓取は、徳川家康のことである。小牧・長久手の合戦で、豊臣秀吉率いる大軍に勝利したことから、東海道で最強の武勇の者という家康を讃える称号である。いずれも、幕府関係者の史料に頻出の呼称である。明治時代の徳川家康の本には、織田信長の感状から、元亀元年6月28日から、家康の称号であると伝えている。 元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。 新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、御母にてましませば」と記述されている。 成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。 幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。 海道一の弓取=徳川家康 外部リンク;国立国会図書館近代デジタルライブラリー 新井白石の藩翰譜に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、御母にてましませば」 成島司直の改正三河後風土記に、海道一の徳川殿 東照宮御実紀(徳川実紀)「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」 元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿姉川合戦の信長の感状から、家康の武勇高く、海道一の弓取と、歌われる。