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土岐は今。。。本能寺でのIF

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回答No.6

信長が存命であれば楽々と天下一統に至ったことでしょう。早くて天正十一年、遅くとも同十三年までには完了したと考えます。 毛利・長宗我部両氏は天正十年六月から数ヶ月の間に滅し(武田氏は木曾氏が反旗を翻してからわずか一月余りで当主が倒れています)、遠征から帰るとすかさず高野山を比叡山同様に焼き、朝廷は信長を三職のいずれかに補任し、その後信長は上杉討伐の軍を進めるでしょう。 その間遠隔地から続々と恭順の使者が安土城に列をなすでしょう。使者を受け入れるか、追い返すかは信長の意のままです。この選択によって天正十一年から数年ずれ込むかどうかといった程度と思います。 九州は大友氏と島津氏の和議を信長が斡旋していましたし、後北条氏は武田氏撲滅戦に参加していました。関東以北で「信長公記」だけから抜き取ると次の通り馬や鷹などの贈り物を信長に送っています。<五十音順> ・会津の蘆名氏(天正九年八月) ・秋田の安東氏(天正九年七月) ・出羽の大宝寺氏(天正七年七月・同九年七月) ・常陸の多賀谷氏(天正七年四月) ・奥州の伊達氏(天正三年十月・同五年七月) また、信長の子供たちが不出来とよく聞きますが、確かに信雄と信孝は秀吉にしてやられました。ただ信長が帝王学を学ばせていたのはあくまで嫡男の信忠です。天正六年あたりから織田軍を統括し始めていますし、武功だけは実績を上げています。また(天正十年)五月廿七日付け森乱宛織田信忠書状の乱への気遣いを見ても単なる武骨の人という印象は持てません。織田政権を二代目で潰すようなことは無かったと考えます。 織田家中ナンバー3といえば柴田勝家・羽柴秀吉・明智光秀だと思いますが、いずれも実子の嫡男が居ないか若年かといった共通点があります。信長の信忠への政権委譲後の配慮でしょうか。 大陸への出兵・政権の性格は…想像力がわきません。 new2さんwrotr; >信長は49歳でなくなりますが、当時からいえばそろそろ寿命に近づいていました。 戦国末期当時、結構長生きしている人が多いですよ。よく平均五十歳と書かれていますが、戦死込みとか、幼年死込みとかじゃないでしょうか。六十から七十歳が天寿を全うした人の平均寿命といった感触を持ってます。信長はキレ易かったみたいですけど、健康だったみたいですし。

Astroia
質問者

補足

rczdさん、今晩は。 ご回答どうもありがとうございます。 回答プロフィールには「一般人」と書かれていましたが、専門家、若しくは専門家に近い方とお見受けしました。 非常に興味深く回答を拝読いたしました。 >信長が存命であれば楽々と天下一統に至ったことでしょう。 私の主張(主張と呼べるものでもありませんが意見として)は、 「私が想像する信長の性格・戦略からして、多くの既存勢力から反発を買うだろうし、革命児のような気質を持った彼はそれらに最終的には妥協しないだろう。と言うことは時間がかかっても一つ一つ徹底抗戦するのではないだろうか。だから天下を統一するには早くても寿命尽きる頃にならないと無理なのでは?」 と言うものです。 武田氏は、長篠の合戦以降、勝頼の民政に問題があり、民衆・家臣が離れていったので、それほど抵抗勢力になるとは思えませんが、毛利氏・北条氏・九州勢・東北勢はどうでしょうか? 毛利氏は交戦中ですし、毛利家の家訓と言うべきその保守性から言っても簡単に滅するとは思えません。小早川や吉川といった名将もいますし。また外交役の恵瓊にしても、信長よりも秀吉に対してしか好意を持っていなかったようにも思えます。 北条氏は・・・。微妙ですね。 秀吉の時代に氏政が小田原に篭ったのは、私には凄く謎なんですよ。それほど時勢から外れた感覚の持ち主だったとは思えませんし(特に家康がどう動くかなんていうことは氏康の時代から生き抜いてきた氏政には分かりきったことだと思うんですが)、諌める家臣にも耳を貸さないほど、己を知ることができなかった人なんですかね。 武田氏撲滅戦に参加していたのは、信長に対する一時の戦略として行ったものだと思います。つまり、その方が北条氏にとってより地盤を固くすることができるから。 本願寺勢もどう転ぶか分かりません。秀吉の時代にさして抵抗しなかったのは、彼の政策・人心掌握術に拠ることが多かったと思います。 信長とあれだけ泥沼の戦いを行っていて、一時的な和平ならともかく、それこそゲリラ的に蚤が獅子にたかるようになるでしょう。 信長公記は、おそらく信頼に足りる第一級の史料だと思いますが、贈り物の受領だけでは、その心底ははかれないと思いますがいかがでしょう。 時が下って秀吉の時代には、おそらく長い戦乱に対する厭戦思想からその幕下に入る事は、抵抗なかったと思います。 少し前まで、信長に対する包囲網ができてた時代背景から判断して、特に地方における信長の人気(若しくは権威?)は芳しくなかったのではないでしょうか。 小寺氏における官兵衛などは希代の先見性を持ってたというべきでしょう。もっとも私は官兵衛が毛利氏より信長寄りだったのは、官兵衛の気質が陰気な毛利家よりは織田家の方が肌に合っていたからと思っていますが。 信長は、おそらくはその兵農分離や関所の撤廃、楽市楽座等の政策からして、中央集権型の国家像を描いていたと思います。中央集権国家は、地方に行けば行くほど統制するのが難しくなると言うことも、少し根拠になっています。 >信長の信忠への政権委譲後の配慮でしょうか。 特に秀吉はそれが顕著ですね。でもそれ以外の二人については、言われてみるまで気がつきませんでした。「そういう側面もあるのか」と新しい見方にわくわくしています。 確かに、勝家には、彼の実質右腕とされていた佐久間が、光秀には従兄弟の光春等がいましたが、実子については遠慮していたと考えても不思議ではありませんね。 信長の吝嗇ぶりは林や佐久間の例からも明らかですし。 以上、私は単なる一戦国ファンとしての知識しかもたず、まともに研究をしたわけではないので色々と論理に穴があるとは思いますが、またお暇なときにでもご教示ください。 ご回答どうもありがとうございました。

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