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政治家としての信長

織田信長って何をした人なのでしょう? 武将としての彼の業績は隠れもないことですが、天下統一は単に軍事的成果だけでなされるはずは なく、基盤となる彼の思想・それによって発想される政策、その成果がつぎのステップへの手段となる。そのような関連性を知りたいのです。

みんなの回答

  • takeko85
  • ベストアンサー率65% (148/225)
回答No.7

1.兵農分離 2.関所の廃止 3.美濃国・加納、近江国・安土、近江国・金森の楽市楽座令 4.「反転行進」小銃射撃方式の実用化 5.政教分離 6.安土城の築城(天守閣の始まり) 7.鉄鋼船の建造 8.間接戦略の先取り 9.本気で天下統一を考えたこと(天下布武) 10.堺に矢銭と服属を認めさせた

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.6

色目なしで見ますと、信長は何か定まった目標・思想を持って改革を断行したわけではないようです。いろいろな評論家が信長の革新性に言及しますが、そのエピソードがそこまで言えるものか慎重な判断が問われるところです。今日言われる革新性などは、後世の人間の後付けにすぎません。 抵抗するものはねじ伏せ、降るものは容認する。先入観を除けば、このような他大名と大差ない方針が垣間見えます。最初から国家像を創って、その理想に突き進むというのは、平和な現代人のなせるわざかと。当時の人間が確固たる目標に向かって邁進していったとは思えません。その場その場で対処して、できるだけ矛盾の少ないように方針を転換していったと考えています。 個人の思想が政治を決めたのではなく、当時の国情が政治を規定していったと個人的には感じています。 実際のところ、現在に至っても信長がどのような国家体制を目標としていたかは、まったくわからず、後世の人間が勝手に推測したものが横行しているように思えます。 信長の時代は、信長個人のカリスマに依存していたように思えます。信長の後継者に位置する秀吉も同様であったように思えます。二人の先人の結末を学習した(豊臣には引導を下した)家康が、より長く続く体制を考案し、成功したように感じます。 カリスマに頼らない体制作りを認識させたことが、信長の成果ではないでしょうか。もっとも数百年前のそれが現代に生かされているかは別問題ですが。

  • isa-98
  • ベストアンサー率23% (205/859)
回答No.5

座と言う商人の組合と特権。株仲間同士で申し合わせた値上げ。 経済は大名でなく商人が実権を握っていました。 これを破壊して新たな制度を作ったのが楽市楽座です。 信長の領内は金山銀山が乏しく通貨を作っていませんでした。 日本では宋銭を輸入して銭としていました。 そこで、撰銭令で銭を三段階に分け、金銀も代用通貨と認めます。 日本では技術が乏しく皇朝十二銭(和同開珎が有名)は偽物が大流通してしまいます。 それ以降物々交換が主流となり、貫目制(米1貫目=金1貫目)が普通でした。 秀吉ははじめて流通する貨幣天正大判を作成します。 銭に関しては江戸時代の慶長通宝や寛永通宝まで皇朝十二銭以来 600年も作られる事はありませんでした。

回答No.4

信長の大きな業績のひとつに政教分離があったとおもいます。当時の寺社勢力は大名以上の軍事力、経済力をもっていましたが、彼の改革に抵抗する宗教勢力は徹底的に弾圧しました。そのおかげでそれ以後の日本から宗教戦争はなくなりました。

noname#139854
noname#139854
回答No.3

既存のシステムを壊して再構築するというのが彼の役割だったと思います。 彼と似た人物として、私は平清盛を挙げたいと思います。 清盛も身分にとらわれない登用を目指し、公家の勢力や寺院勢力を打破し、南宋との貿易で重商主義を行い、時代の先駆者たり得ましたが、彼の思想を理解して動くブレーンに恵まれず、1代の栄華で終わってしまった。 信長も重商主義をとり、日本統一を図った。 徳川家康のような封建的なものではなく、徳川吉宗の『足高制』のように有能だが身分の低いものも引き上げて官僚として使う、田沼意次のように商業を通じて安定した財源を得る、尾張藩主徳川宗春のように自由闊達な文化を創造するなどを目指したんだと思う。 この思想により、豊臣秀吉のような卑賤の身分ながら有能な人材が集まり、農業生産に左右されずに動くことが可能になり、キリシタン大名のように異国の文化が流入する。

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.2

 多分、彼は「自由主義革命家」ですね。  戦国大名の跡取り息子として、弱肉強食の世界を生き抜いていく中で、当時の思想にはなかった、「合理主義」を政治的・軍事的実力を背景に、領国統治を突き詰めていった結果、彼の実践的な個人思想は、後の社会で、一時期を画する「自由主義革命」の思想に近いものになっていったと考えます。  ヨーロッパでは、ルネサンスや宗教革命によって、キリスト教宗教規範に縛られた中世の封建社会が崩壊することによって、自由主義革命が生まれる社会・思想的基盤が形成されました。    それに対して、信長は「比叡山焼き討ち」・「石山本願寺攻防戦」などのように、実力行使によって当時の社会の常識であった「宗教的規範による社会支配」を消滅させようとしました。  その他、彼の取った「経済の自由化政策」や合理的考え方、個人の人格を絶対的ベースとする「茶の湯」を好んだことなど、信長個人の実践的試行錯誤の結果、思想的には後の世の「自由主義者」と同じ考え方に行きついたものと思われます。 

  • sanori
  • ベストアンサー率48% (5664/11798)
回答No.1

こんにちは。 とりあえず年表に載っているもので、戦・懲らしめ・同盟以外のものを挙げると 1568 信長、諸国の関所を廃止。 1569 信長、堺に2万貫を賦課。 1577 信長、安土城下楽市。 あと、年代はわかりませんが、検地もやってますね。 民の活力を上げ、税金はシステム的に取る。 現代の政治と相似な点はあるかと思います。 宗教関係では、 1569 信長、フロイスの布教許可。 1579 信長、オルガンチノに安土に教会堂建立を許可。 >>>基盤となる彼の思想・それによって発想される政策、その成果がつぎのステップへの手段となる。そのような関連性を知りたいのです。 基盤となる思想は、天下布武・天下統一ですよね。 別に、一生戦をしようと思っていたわけではないでしょう。 足利義昭を立てたり、逆に引っ込めて室町幕府を滅ぼしたり、何度か入京して右大臣になったりで、そして、それは中央集権の樹立に向かうということなので、それが後に秀吉・家康に引き継がれたというのは、成果が次のステップにつながったということになるのではないでしょうか。

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