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西田幾多郎 純粋経験
苦楽 生死 自他 是非を分別智で考える前の経験の様ですが、二元の前の一元的経験。つまり理屈以前。 1、純粋経験を違う切り口で語って頂けないでしょうか。 2、座禅でしか経験できないものでしょうか。 出来れば本当に判ってる方のお願いしたのですが。理屈嫌いの方ですね。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.6です。 ★ 純粋経験 ☆ を《ゆづり合い》と言いかえると あまりにも通俗的なことに聞こえるかも知れません。では ○ 無償の行為( l'acte gratuit ) ☆ と言いかえてみてはどうでしょう。 その実例を新聞記事から引きます。 ▲ (《「メード・バイ・ジャパン」――信頼と安全 新興国が評価》) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 熱砂舞うサウジアラビア。・・・プラント大手の日揮(以下 N社とする)が指揮する現場には 多いときで数十カ国から出稼ぎ労働者が集まる。・・・ 《配管作業が遅れているぞ》《あんな足場じゃ事故のもとだ》。長期出張で乗り込むN社の現場責任者は 労働者や建設機械の動きに目を光らせる。 問題を見つけると下請け会社の責任者を集める。読み書きが苦手な労働者には図解入りの資料を使う。きめ細かい管理で納期や予算を守る日本のプラント企業。新興国や資源国での評価は高い。 2008年に着工した国営石油会社サウジアラムコの重質油開発プロジェクト。だがリーマン・ショック後の原油価格の急落で前提が狂った。N社の受注額は約2千億円。資材も値下がりしたので そのまま進めればN社の収益は増える。アラムコ側が《延期》と言えば違約金を取ることができた。 だが 計画延期を申し出たのはN社の方だった。《この原油相場ではプロジェクトが成り立たない。少し待ちましょう》。契約重視の米欧企業から見れば《お人よし》だが N社は短期的な利益よりも長期の信頼関係を優先した。 9月初旬 サウジアラビア東部ダーラン。イスラム教の断食月(ラマダン)のさなか N社の首脳はアラムコの迎賓館に招かれた。盛大な晩さんはハリド・ファリハ最高経営責任者(CEO) の主催。家族や友人と過ごす神聖な時間に 外国企業の関係者を招くのは異例だ。 ・・・ 世界で生きるN社の武器は“日本流”だ。・・・ (日経09.10.23朝刊一面 連載記事《大転換》6〈危機からのニッポン再生〉・4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- Y Y(@yy8yy8az)
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たった今、NHKテレビ、「こころの時代・アーカイブス」(2001年5月6日放送を録画したもの)を見てました。 上野学園大学教授・坂東性純氏のお話です。報恩寺の住職でもあるとのこと。 その話の最後のほうで、純粋経験、絶対矛盾的自己同一、と言う言葉が出てきました。 それによると、純粋経験を例えていえば、 砂糖を赤ちゃんがたくさん食べると毒になります お相撲さんにとってはそれがエネルギーになります。 また、 アメリカは日本にとって戦争中は敵でした。 戦争が終わったら、友となりました。 砂糖そのものは何も違わないのに、受け手によって毒にもなれば栄養にもなる。 アメリカはそのままなのに、受け止め方で敵にもなれば友ともなる。 この、誰が見も変わらないもの、砂糖は砂糖であり、アメリカはアメリカのままである、と言うそれを、西田先生は純粋経験といいました。 こんな感じで話していました。 絶対矛盾的自己同一、についても人間の分別の加わらないもの、加わる以前の状態のもの、といったような表現でした。(ちょっと私の説明が足りないかもしれませんので、注意してください) 純粋経験と絶対矛盾的自己同一。同じ事を言ってるようにも思いますが、表現が違うということはやはり何か微妙に内容が違うのでしょうね。 私はbrgelonneさんの意見ともあわせてさらに考えてみようかと思っています。・・・・・・独り言(愛は心の特効薬)
お礼
>NHKテレビ、「こころの時代・アーカイブス」(2001年5月6日放送を録画したもの)を見てました。 これ私も見てました。 やはり簡単にいいますと、人間の考えでは(人間智・分別)では根本的に煩悩はとれない。 考えに置き換える前の、是非でないの自覚必要に思います。 でないと考えてる自己と考えてる自己、でこのカテで言い争ってますね。可笑しいですよね。自覚が無い為だと思います。 所用により急遽退会しなければ、成らなくなりましたので。まともコメントが出来ません。 また何処かでお会いしましたらよろしくお願いします。 有り難うございました。
- mmky
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「霊体」とはmmkyさん独特の言い回しだと思うのですがどう意味なんでしょうね。 「霊体」これはべつのものではなく自身なんですが肉体がない自身ですね。肉体がない自分を「霊体」といっているのですね。 禅宗開祖の道元は「身心脱落」といってますが、これは本当の自身が肉体の自身から抜け落ちることですが、その抜け落ちた自身のことですね。 こういっても理解困難でしょうが、今風に言えば、超能力ですね。霊体質の強い人は家にいながらにして別の場所に行って話を聞いたり観たり出来るということですね。これがより高度になると同時に複数の場所で同じことが可能であるというのが絶対矛盾的自己同一ということなんですね。何人もの違うことをしている私が同時に存在し、それを統合する私がいるということですね。 そこまでいかなくとも割りと不思議な経験をする人は多いのですね。それをはっきり認識しているかどうかの問題ですね。西田先生もそういう体質をされていたんでしょうね。だから知識的に西田哲学を理解することは難しいのでしょうね。
お礼
>今風に言えば、超能力ですね え~。。?? 宗教ってそんなもんでしょうか。。 これもmmkyさん独特の言い回しなんでしょうか。。 やはり簡単にいいますと、人間の考えでは(人間智・分別)では根本的に煩悩はとれない。 考えに置き換える前の、是非でないの自覚必要に思います。 でないと考えてる自己と考えてる自己、でこのカテで言い争ってますね。可笑しいですよね。自覚が無い為だと思います。 所用により急遽退会しなければ、成らなくなりましたので。まともコメントが出来ません。 また何処かでお会いしましたらよろしくお願いします。 有り難うございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ○ 絶対矛盾的自己同一 ☆ これの解説を読んだことがあるだけですので 憶測での回答になります。 ★ 純粋経験 ☆ 単純に捉えますが ○ 《経験》世界は 二つの項目のあいだに対立のある世界です。 ○ 《純粋》概念では 自由なり平等なりとして 二項対立を超えていると説きます。 ☆ 二項対立とは 善と悪とではなく 経験的つまり相対的な善(そういう政策を思い浮かべるとよい)と同じく別の善との対立です。八ッ場ダムの中止と継続という二つの善の対立です。 さて ★ 純粋経験 ☆ とは何でしょう? どういうことでしょう? ダムをどうするにしても 一方の側の人びとには有利になり(もしくは より少なく不利になり) 他方の側の人びとには不利になります。この二項対立を超えた《純粋》とは どういうことでしょう? 理念としてはありうるのでしょうか? 人間の境地としては実現可能でしょうか? しかも《経験》と言っています。向こう岸における実現可能性のことではないと言っています。このいまの地に足をつけて 二項対立が何の無理もなく和解に向かうと言っていると考えられます。 どうなんでしょう? ○ 無分別知 ☆ はありうるのでしょうか? 答えは 時間過程にあるとなるでしょう。歴史過程ということです。 もっとざっくばらんに言えば 《ゆづる》ということです。《ゆづり合う》ということです。これが さとりの境地つまりその動態としての知恵です。 そういう人びとが現われて来なければ なんとも言えませんね。 座禅にかんしては よく分かりません。同じさとりの境地が得られるのなら ひとつの手段にしてもよいでしょう。ただ座禅をしなければこの《ゆづり合い》の意志行為は出来ないかと言えば そうではないとわたしは考えます。いかがでしょう?
- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> 諸行無常になりきる、諸行無常に溶け込む、諸行無常と一体と成ると言う事だと思います。そいう宗教経験、体験でどしても必要だと思います。 <<< そうですね。。。 私自身、高校生時代に座禅や滝に打たれるということを経験し、自然との一体感を感じたものですが、そういったこと無しには、難しいのかも知れないですね。 でも、そういった経験なくしても、身近な出来事からの繋がりを大切にするという感覚が生まれるなら、大丈夫なような気もするのですが、いかがでしょうか?
お礼
>そういった経験なくしても、身近な出来事からの繋がりを大切にするという感覚が生まれるなら、大丈夫なような気もするのですが そうですか。。 k_jinenさん再びありがとうございました。
- 来生 自然(@k_jinen)
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人は大自然という全体から生まれ、大自然という全体へと帰って行く。。。 個であるとともに全である。。。 そんなところでしょうか。。。
お礼
諸行無常になりきる、諸行無常に溶け込む、諸行無常と一体と成ると言う事だと思います。そいう宗教経験、体験でどしても必要だと思います。 哲学カテの一部の人は理屈では充分、宗教をご理解していると思いますが。 理屈を超えた体験がないと思うのは私だけでしょうか。。残念に思います。 他の方もおしゃてますが、座禅以外では読経や勤行に一心不乱に全面献身、或は一心不乱何かに全面献身、打ち込む時、理屈でない本物の経験、純粋経験、宗教経験ができるのかも知れません。 ありがとうございました。
経験という言葉には、良くも悪くもとか種々雑多な内容を含むとかいうイメージが感じられるものですね。 純粋という言葉をその前に付けると、それらの中で濁り無く、心の琴線に触れたものという感じがします。 人それぞれの人生の分かれ目の時が、そうしたものなのかもしれません。 大きな分かれ目もあれば、小さな分かれ目もあります。 今という一瞬一瞬の経験の中でも、心から消え去ることの無いもの そして、個人的な人格の基を成すものなのかもしれません。 1と2の組み合わせでは、悟り、についてなのでしょうが そうしたハイレベルの経験ではなくとも 人それぞれの全人格や生涯にわたって影響を及ぼす、重要な経験というものは確かにあると思われます。 言葉や口にしずらい事で二通りあります。 口に出すのも嫌なこと 口に出すのがもったいないこと 一般的にはだいたいこのような感じでしょう。 その内容は本人のみぞ知る直接の体験の世界です。 人生の分かれ目のポイントとなった経験が、人それぞれの純粋体験とでも言えるのかもしれません。
お礼
>純粋という言葉をその前に付けると、それらの中で濁り無く、心の琴線に触れたものという感じがします。 なかなか面白い表現ですね >人生の分かれ目のポイントとなった経験が、人それぞれの純粋体験とでも言えるのかもしれません。 一般的には、そういう事になるのでしょうね。 hsq1224 さんありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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サマディ、恍惚、夢中、法悦、忘我、無心。外界知覚超越による。 無意識⇒睡眠、下層意識。 超意識━純粋経験、意識があって、意識の動作と内容(結果物)はない。 という表現ですが、経験しないことには絵空事ですね。 読経や勤行、そのたの全面献身はこのことに入るけいきではないでしょうか。参考までに。
お礼
短い文章ですが、よくわかります >経験しないことには絵空事ですね。 そのとおりだと思います、理屈でああだ、こうだ、でない経験をしたいものですが。 ありがとうございました。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
1、純粋経験を違う切り口で語って頂けないでしょうか。 人間は2つの側面があるのですね。肉体としての自身と霊体としての自身ですね。肉体は生まれたときから死ぬまでの経験しかありませんが、霊体は不死ですし、肉体のように3次元世界に縛られることもありませんね。その霊体が感じ取った経験を肉体的に翻訳したものが純粋経験でしょうね。 2、座禅でしか経験できないものでしょうか。 人は眠っている状態で夢と呼ばれる経験をしますが、一般的にはその経験が純粋経験ですね。一方、心を鎮め肉体の自分を脱ぎ捨てるというのが座禅の妙ですから座禅でも体験できるということですが、まずしっかりした霊的認識・知識がないとただ座っているだけになりますね。 つまり、肉体がなくなれば何にもなくなると考える人が霊的経験・純粋経験をすることはないということですね。
お礼
「霊体」とはmmkyさん独特の言い回しだと思うのですがどう意味なんでしょうね。 >人は眠っている状態で夢と呼ばれる経験をしますが、一般的にはその経験が純粋経験ですね。 ほう~そんなもんですかね。 mmkyさんありがとうございました。
お礼
やはり簡単にいいますと、人間の考えでは(人間智・分別)では根本的に煩悩はとれない。 考えに置き換える前の、是非でないの自覚必要に思います。 でないと考えてる自己と考えてる自己、でこのカテで言い争ってますね。可笑しいですよね。自覚が無い為だと思います。 所用により急遽退会しなければ、成らなくなりましたので。まともコメントが出来ません。 また何処かでお会いしましたらよろしくお願いします。 有り難うございました。