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西田幾多郎 神について

西田幾多郎の神についての考えがなかなか理解できません。 西田幾多郎の著書「善の研究」を読んでいて、ある程度の感覚はつかめるのですが、ピンとこないんです。  西田幾多郎の神についての考え方の要点を理解した後に「善の研究」をもう1度読み直せば、理解できるのではないかとかんがえています。  西田幾多郎に詳しい方、西田幾多郎は神についてどのように考えていたのか自分なりの解釈を教えてください。

みんなの回答

  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.1

はじめまして。余り賢くないのですが、回答が出ていないので書かしていただきます。 西田先生は、禅を理論的に説明された方と私は 認識しています。禅(さとり)とは何かそれは神とは何かと、同意語だと私は思っています。 大変難解ですね、神・神・神・さとり・さとり・さとり果たして人に理解できるのでしょうか。 人智超えている。これがさとり・神だと考えます。 先人たちが、苦とはなんぞや・人生とは、真剣に5年 10年ある先人は、20年寝食忘れ死をも恐れず修業をな行った。 答えは・神は解らなかった。 僭越ではごさいますが、たぶん西田先生もそうお考えになったのでは、ないでしょうか。 解らないもの西田先生は説明された。それは、矛盾です。絶対的矛盾的自己同一性でしたか。

love2winter
質問者

お礼

西田幾多郎の神についての考え、難しいですよね。存在論について調べていたのですが西田幾多郎の思想を理解するのはなかなか大変でした。参考になりました。ありがとうございました。

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