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石田三成の正義は正しかったのでしょうか?

aefgtgh000の回答

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回答No.10

 福島正則の晩年は寂しいものでした。江戸城の普請では加藤清正に愚痴を言っているという逸話もありますし、自分の城を無断改築したとして(届出はしていた)一気に五十万石を没収され四万五千石にまで減らされます。加藤清正も豊臣の恩顧と徳川との関係に悩んでいたとされます。三成を誤解していたと悟ったかどうかはわかりませんが、徳川についたことを後悔したことはあったかもしれません。    徳川家康はかなりの苦労人です。幼い頃に今川家に人質に出される途中に家臣の裏切りにあい織田家で人質生活をおくり、さらに今川家へ送られ人質生活をおくります。桶狭間の戦いで今川義元が討たれると混乱に乗じて独立、信長と同盟を結びます。信長により長男信康が武田と通じたという嫌疑をかけられ切腹を命じられます。家康は信長との同盟関係を守るため信康を切腹させます。野戦の名人の家康でも三方ヶ原の戦いや本能寺の変で命を落としかねない状況を経験しています。  秀吉の死後、家康に対抗できるほどの格を持った人間は前田利家だけでした。利家の死後は家康に対抗できる人間はいません。政治、軍事、領地、経験で家康より優れた武将は居らず、数多くの修羅場をくぐった家康からしたらどんな手を使っても天下を狙いにいく覚悟があったと思われます。関が原の戦いで西軍についた豊臣恩顧の立花宗茂は大阪城での交戦を主張します。立花宗茂は戦後領地を没収されますが、その後大名として復活させています。家康は大坂夏の陣で大坂方の木村重成の首実検で重成の頭髪に香が焚き込んである事に、死んでも醜い姿をさらさないとする重成の心意気を賞賛したという逸話もあります。武将としての器も大きいと思います。  歴史上の人物、陣営を正義という概念で判断するのは無理があると思います。戦国時代の話はいろいろな話があり、全く内容が逆の話もあるので特にそう思います。ドラマにいたっては正義と悪に分類しなくては成り立ちにくいので、そのことを差し引いて見たほうが良いと思います。  昔、兄と信長、秀吉、家康のうち誰が最もすごいか(政治やらなんやら)という事を話し合った時、家康が最もすごいと言う結果になりました。ではなぜ家康は人気が無いのかという事に関しては私たち兄弟のなかでは苦労人で地味だからということになりました(ひどい話だ)。

Josh_B
質問者

お礼

再びご丁寧なご回答まことにありがとうございます。 aefgtgh000さんは本当に歴史のお好きな方なんですね。感服いたします。確かにドラマは史実とは離して考えなくてはならないのかも知れませんね。政治的結果からみれば、信長、秀吉、家康の中では一番家康が成功したということになるのでしょう。だからといって家康が一番偉大な武将であったとは限らないと思いますが、、、。 三成や兼継がその後の歴史を見て何とつぶやいているか聞いてみたいです。

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