石田三成公の子供たちの現在について
- 関ケ原の戦で指揮を執った石田三成公の子供たちについて、最近の情報があります。
- 一部の子供たちは津軽に逃れ、息子は津軽藩士になり、娘は第2代藩主の側室となりました。
- その後、娘の子が津軽藩第3代藩主になったという話も聞かれます。
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石田三成公の子供たちについて
関ケ原の戦で西軍の実質的な指揮を執った石田三成公、敗戦で無念にも首を討たれ、佐和山城は落城して、一族みな滅ぼされたと思っておりましたが、最近、何人かの子供たちは脱出し、一人は仏門に入ったものの、息子と娘が津軽に逃れ、息子は姓を変えて津軽藩士に、娘は第2代藩主の側室となり、その子が津軽藩第3代藩主(三成公の孫が藩主に!!)になったという話を聞きました。 あれだけ、家康公と対立した人物の子供です。幕府が黙っているわけがありません。受け入れた津軽藩は外様大名でもあり、取り潰しにあってもおかしくはありません。故に、先程の三成公の子供たちの話、にわかに信じがたいのですが、本当なのでしょうか? ご教示頂きたく、お願いします。
- Kei-Matsu
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質問者が選んだベストアンサー
歴史学者今井林太郎氏の研究によると、 三成の嫡男隼人正重家は12歳であったが、関ヶ原の 敗戦を聞き、津山甚内に守られて大坂城を脱出し、 縁のある京都の寿聖院の恵稜の元に行き、仏門に 入った。 家康は本多正純と協議して、恵稜の懇願を聞きいれ 重家の死を免じた。 重家は宋淳として寿聖院第三代になったといわれる。 嫡男さへ助命したのですから他の子供たちは無事で あったと思われ、質問の話が真実であってもおかしく ありません。 家康はあくまでも刃向かう者には厳罰で処しましたが そうでない者には温情主義で對応し、それが江戸 265年間の泰平を築く元の一因になりました。 家康は佐和山城陥落の際にも開城を説得しほぼ 成立していましたが、ちょっとの手違いで戦闘が再開 され、城は火に包まれ一族郎党ことごとく自害の 惨劇になりました。 残念の極みです。
その他の回答 (2)
家康と三成は確かに敵同士ですが 三成の長男「重家」の名づけ親は徳川家康です 家康と対立しても助かった大名は結構居ますよ 宇喜多は島流しで済み、総大将だった毛利は減封 島津に至ってはお咎めなしですからね ですから三成の子供たちが他藩に行ってても不思議ではありません。
お礼
ご回答頂き、どうもありがとうございました。 家康公は西軍に意外と寛大だったのですね、確か私も、立花宗茂公が何年かを経て元に近い石高まで 戻ることが出来たエピソードを聞いたことがあります。 しかし、三成公の長男の名付け親が、家康公だった話は、初めて知りました。大変勉強になりました。 併せて、御礼申し上げます。
どうもそのようですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E5%A7%AB その後あれこれとお家騒動があったのは 幕府の陰謀だったのかもしれませんね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E4%BF%A1%E7%BE%A9
お礼
早速のご返答ありがとうございます! 津軽藩のお家騒動の件、興味がわきました。私なりに調べてみます。 本当にありがとうございました。
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