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佐竹義宣と石田三成

徳川家康からも律義者と言われるほどの佐竹義宣。彼が石田三成と親交を持った切っ掛けとは何なのでしょうか。また何故親三成派となったのでしょうか。

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  • hazu01_01
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回答No.1

石田三成は奥州の検地奉行になっており、実際、佐竹義宣のほかにも親三成派は奥州にいましたよ。 相馬義胤は三成と親しく、嫡男の三胤(利胤)の烏帽子親は三成であった。津軽為信も石田三成と親しかったです。 一時期石田三成が奏者になっていた宇都宮国綱もそうです。国綱の場合、石田三成から浅野長政に代わっても石田三成と親しくし、浅野長政と関係が悪化し潰されてしまいますが・・・。 これは類推ですが、蒲生氏郷との中も悪くなかったのではないでしょうか。理由は石田三成も蒲生氏郷も近江出身であること、蒲生氏の旧臣を多く採用したことなどです。

hirarno36
質問者

お礼

奥州検地で親しくなったとのご回答。良く分かりました。確かに三成は加藤清正、福島正則らと例の朝鮮の役の報告(彼らにとっては讒言)で仲が良くなかった反面、検地で手心(?)を加えて借りを作ったりしていますね。 その点奥州諸侯の名前が挙がっているのも納得です。 蒲生氏郷も奥州目付けであったこと、同じ近江閥であることから仲がそう悪くなくても不思議ではありませんよね。佐和山と蒲生郷は遠くはありませんし。 詳しい回答ありがとうございました。

その他の回答 (1)

回答No.2

小田原討伐の際、佐竹義宣は石田三成の斡旋で豊臣秀吉に謁見し、共に忍城攻めに参加したりしているので、そのあたりも関係あるかもしれません。

hirarno36
質問者

お礼

そうなのですか。三成の忍城攻めのまずさは知っていましたが、佐竹義宣が参加していたとは知りませんでした。戦友としての交誼はなにも朝鮮の役の福島正則らの場合だけではありませんね。 回答ありがとうございました。

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