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なぜ神は多様か。

CageAnoeの回答

  • CageAnoe
  • ベストアンサー率53% (128/240)
回答No.1

神を抱く者のもつ認知手段は、世界を把握するのに十分であり、 したがって神の絶対性の臨界は、信仰者に内在しないと考えます。 また神の存在の絶対性は、回答の無期限延期に依って担保されており、 救済が無限遠を前提とする構造になっている体系では、 現世の荒廃との矛盾は、論理的に存在しえません。 『神の絶対性』と外界との界面は、思考実験においてのみ認知可能であり、 しかもその対称性は垂直的であらざるを得ない。 『神が人間の創造物』である以上、多様性の地平からは免れず それが水平的対称性を形成しているという、世俗の前提に基けば・・・カテ違いです。

dansunflux
質問者

補足

回答ありがとうございます。 よろしければしばらくお付き合いください。 >神が人間の創造物である以上 信仰ある人についてはこのことは当てはまらないのではないでしょうか。 天地創造の神にしても、聖人に直覚される宗教的世界にしても、 「宗教を信じる者」とは「神を人間に先立つ実在と信じる者」だと思われます。 そうでなければ、「神」と「妄想」との区別がその人の中でつかなくなりませんか。 >神の存在の絶対性は、回答の無期限延期に依って担保されており つまりそれは、「いないと言い切れないから存在する」ということでしょうか。 同様の論理はあらゆる物事に対して成り立つはずです。 なぜ「神」の場合には特殊にこのような蓋然性の無視が正当化されるのでしょうか。

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