• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:狂える人 と その制裁)

狂える人とその制裁

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.16

 No.20です。  ご返答をもらいました。  ★ 「どんな人:経験者」。ご回答はいただけないんですか。  ☆ わたしの考えはこうです。  1. 《狂う / 制裁》という言葉を出したところで いわば後ろ向きの計らいになっていると考えます。  2. 規約などの問題でしたら それに従って処置した時点で もう終わりです。特に何もつけ加えることもないと思います。  3. あたかもその人物を扱うというかのように その人の行動について論難するのであれば これは 息の長い作業になります。一つや三つあるいは五個や十個の質問での質疑応答を経たところで 解決には程遠いということではないでしょうか。  4. 問題点を整理し 言い分を対照させて一つひとつ積み重ねていく根気のいる対話になると思います。  ★ 狂へる人にとっては、gooから排斥されることは主観的にどういう事態であると考えられますか?  ☆ 《狂える人にとって》も ふつうの人にとっての視点や考え方と同じとするのがよいと考えます。  わたしは一度《 goo から排斥され》た者です。口論や議論をしたという廉が挙げられていました。《規約違反の投稿があれば 自分では何も処理せずに 通報されたし》との注意をもらっています。  ともかく ふつうの人間として対処するという姿勢で来ています。ふつうでない行動に出る人びとは 全体の三分の一はいると思ったほうがよいと思います。気長に それでもふつうの人たちであるとして接するという意味です。  規約上の処置を別にすれば そういう態度ですすむしかないと考えますが どうでしょう。

RingQ
質問者

お礼

あらためましてはじめまして。ご挨拶をありがとうございました。 後ろ向きの計らいになっているということは前向きにすると、仰っておられるようなふつうの人として《ふつう/制裁》という問題で扱えるとの考えですね。 念のため言うと一般論の質問ですから変な回答はどうか気にしないでください。さきほど刑務所のお話を回答で頂いたのが興味深かったです。制裁には応酬刑と目的刑とあって、また更生や矯正ということでは人権尊重のようでも制度側の弾圧にも利用でき、難しい問題だと思いました。 アパートで発狂している人(言葉がお好みでなくてすみません)が車に傷を付けた等を巡査に通報したとしますと、まあ、叱ってくれそうではありますが、たとえ簡易裁判の決定事項とか弁償金とかが発生してもその通りに運ぶかどうかは怪しいわけです。制裁は事実上意味がないと思うんです。あとは巡査が以後しばしば声をかけるなど地域で誤魔化し誤魔化し扱っていくことの中に何か意味があるはずです。 しかしこれがインターネットサービスのgooのような所だと、注意勧告と排斥の清掃作業みたいでそのような制裁は本人にはやっぱり意味がないし、本人の存在の仕方としても移動する埃の玉みたいになって、自分が何者か、そこで何をしているのか、そういうものが益々無くなるばかりなんじゃないかと思うんです。 そういう質問なんですが、出だしの一行ばかり気になる人がいるらしくてまあご覧の感じです。

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     §1  《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関  (1)  人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。  《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。  《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。  (2)  強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。身と心とは一体であると見ますが S者なるわたくしの運動は 一般に社会的な生活の中で自己のA者なる精神によって 記憶され知解(認識・意識)される。また 記憶にもとづき知解されたものごとを 人は身体のウゴキとともに意志する。  (3)  《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。  (4)  わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域をも担い その共同自治のための――選挙等をつうじての――役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として存在します。政治家・官僚等いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。  (5)  これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。   (6)  次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特にはS者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味ではS者は 主観であり 人間語です。  あやまちうるスサノヲ人間語と あやまつべからざる〔と一応考えられている〕アマテラス科学語および人格語なる普遍語です。    §2 主観としての《S‐A連関》から出発する  (7)  主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。  (8)  すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。  (9)  このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 現実性あるいは特に知覚という事実性から離れた概念のことです。  (10)  主体的な生きたA語客観は おのおのの主観として殊に《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。  (11)  主観が 社会的に共同化されて共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が協働性を含むことは 言うまでもありません。    §3 共同主観と共同観念  (12)  さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように単なる観念であり あるいはそこから観念的な現実というまでのものになりえます。想像の領域です。  (13)  たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語ったり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。  (14)  したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。  (15)  これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり共同観念をつくりあげることが 可能です。  (16)  この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。  (17)  共同主観は より一層S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。  (18)  しかも共同観念は 必ずしも感性的でないことによって観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。  (19)  もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。  (20)  つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一たん基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさって来るというようなしろものです。  (21)  また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま見出されるそれであるということになるでしょうか。    §4  記憶・知解・意志(愛)  (22)  身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。  (23)  同じく《知解行為》は 記憶の倉庫から概念をみちびき出すかのようにして ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。  (24)  何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。  (25)  精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛(つまり愛とは 自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。  (26)  記憶し知解し意志するワタシたる《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。  (27)  また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。  (28)  従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤関係のなかで人は 生きることになります。  (29)  新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。  (30)  そこでこの区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。象徴はアマテラシテです。  全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。  (31)  以上のように人間と社会とをめぐって自己了解した図柄をえがきました。つまりこのような用語をつかって人間と社会とをあつかって行きたいと思いますが いかがでしょうか。

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     先日、下階のアパート住人と口論となり、その人を殴ってしまいました。口論から被害を及ぼすまでの原因・流れは不明ですが、加害者は自宅にて友人と酒を飲み騒ぐ機会が数回あり、その都度、下の住人(被害者)ともめていたようです。加害者は警察にも注意を受けています。  被害を与えた後、謝罪をしましたが、被害者の怒りはおさまらず、慰謝料として100万円用意しろと言われました。(被害者、加害者共に大学生です。)加害者は、つい先日就職の内定も決まり、親に足を運んでもらい被害者に数回謝罪をしましたが、被害者は一向に要求を変えず、慰謝料を支払わなければ訴訟を起こすと言いました。  そこで、下記を教えてください。 1.訴訟を起こされた場合、どのくらいの制裁が加害者に与えられるでしょうか。いくらくらいの慰謝料でしょうか。(なお、被害程度の詳細はわかりませんが、成人男性が同年代の男性をグーで顔を殴ったことと考えてください。なお、数週間経った今は被害の形跡はまったくありません。) 2.就職の内定取り消しの可能性は高いのでしょうか。(半公務員程度の就職先と考えてください。) 3.被害者から加害者の内定先へ密告等された場合、逆に訴えることはできるのでしょうか。 4.被害直後でない今、訴訟は成立するのでしょうか。(なお、被害者は診断書を持っているみたいです。) 5.加害者の立場を考えた場合の最良の終結は何でしょうか。また、その方法はどうすればいいのでしょうか。

  • 好きだけどセックスしたくない

    こんにちは。わたしは20歳の女子大生で、付き合って3ヶ月になる彼氏がいます。 いまどき古臭い考えかと思いますが、わたしは結婚するまでセックスしたくありません。 小さい頃から親に貞操観念についてしっかり話されていて、「あなたを無傷(というと語弊がありますね。すみません)で旦那さんのところに送り出すのが、お父さんとお母さんの務め」だと言われてきました。わたし自身、彼氏が出来てもセックスとは別だと思ってきました。 今彼氏とは手を繋いで歩く程度までしか進展していませんが、 彼氏が出来てあんまりすぐに“セックスする・しない”を話すと意識過剰な気がするし、あんまり土壇場で言っても「遅いよ!」って成ってしまいそうだったので困っていました。 先日「次のデートのときにはもう少し進んだこと(=キス)したい」みたいなことを言われたので、結婚するまでセックスをしたくないんだ、と話しました。 当然彼氏はびっくりして、「少し考えさせてほしい」と言いました。「俺はお前のことをもっと知りたいし、そのためにセックスもしたい」みたいなことを言われましたが、わたしは、彼氏を好きとか知りたいとか以前に、「結婚するまでセックスしない」と言う信念があるのです・・・。 実際キスまでしてセックスはしない、という選択肢もあるかもしれませんが、だらだらとA→B→Cと進んでしまいそうで怖いのです。そしてキスやセックスをしてしまうと親を裏切ることになりそうで、無理なのです。 男の人には女にはわからない欲望が有って、それはわたしを愛してくれてるからこそだというのは解っています。まだ彼氏から連絡はありませんが、このせいでふられる事になってしまうのかなぁと思っています。仕方ないとも思います。 でも、好きな人と付き合っていてもセックスなし、というのは本当に無理なのでしょうか?