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科学者って?

ghostbusterの回答

回答No.9

まず質問者さんの拠って立っておられるところを確認させてください。 コミュニケーションを宅配便のようなモデルでとらえる考え方があります。 話し手から聞き手へ情報が小荷物のように届いていく、というイメージです。ここでは荷物の送り出しは「科学者」、小荷物は「環境問題」、受け取りはいわゆる「一般大衆」と呼ばれる人びとです。 送り主はさまざまな荷物を送り出す。ところが受け取り手に渡った小荷物は、どうやら送り主が送ったものとは似ても似つかぬものに変わってしまっていた。 したがって > こうした、当の科学者も予想だにしない極論者はナゼでてくるのでしょうか? というご質問に関しては ・「環境問題」というのは腐りやすい、取り扱いに極めて注意を要する物件であるがゆえに、送り出す側は入念な配慮をしなければならない。 もしくは ・宅配業者たるメディアに何らか問題があるために、荷物に他のものが紛れ込んだ結果として変質した。従って宅配業者の管理を徹底すべきである。 という回答が導かれます。 けれども、コミュニケーションはこの宅配便モデルではとらえられない、という見方もあります。では、いったいどのようなものがコミュニケーションなのか、これに関しては、さまざまな研究がなされていますが、今日では情報の「意味」は受け手が受けとった時点で生じる、とする考え方が中心ではないかと思います。 (※社会学的な見地からはhttp://www.socius.jp/lec/10.htmlなどが大変わかりやすくまとまっています)。 上記のようなご質問が質問者さんから出されたのは、コミュニケーションのいわば起点である受け手の側で、どうしてこのようなコードエラーが起こってしまったのか、という問題意識であるとわたしは受けとりました。 ですから以下の回答はそのような観点に立ったものであることを、まずご確認ください。 多くの人は、環境問題ばかりでなく、さまざまな問題に関してさまざまな「意見」を持っていると思います。新聞の投書欄やテレビの街頭インタビュー、ネットでのブログの発信など、さまざまなかたちでなされています。ところがそれぞれに「自分の頭で考えた」かのように語られるこうした「意見」は、あきれるほどいくつかの類型にそのまま沿ったものです。 これはどうしてか。 小学校のころから先生は、何かあると「自分の意見を言いましょう」と言うので、学校空間では比較的要領よく立ち回っていたわたしなど、本で読んだり、両親が話していたりしたことを、さも「自分の意見」であるかのような顔をして発表し、あとで自分の意見でもなんでもないのに、とひそかに後ろめたく思っていたものでした。 ところが、のちに現代思想を知るようになって、あらかじめ「自分の意見」などという何ものかがどこかにあって、それを言葉に当てはめて出力しているのではなく、所詮借り物でしかない言葉を模倣し、そのいくつかを組み合わせることで、あたかも「自分の意見」であるかのように誤認しているということを知ります。ああ、自分だけではなかったのだ、という安心感が、どうもわたしと現代思想の関係の根っこにはあるようです(笑)。 さて、意見というかたちで発表される言葉は、必然的に一種の紋切り型に陥ってしまいます。そもそも言葉自体が借り物なのですから当然といえば当然なのですが、カジュアルに語られる言葉よりも、なおさら紋切り型の度合いが強い。地球温暖化に関しても、せいぜい五つか六つの見解にすっぽりと収まるのではないのでしょうか。 ふだん、テレビやネット、新聞のニュースや、あるいは雑談、世間話から仕入れてきた言葉をいくつか組み合わせて、わたしたちは「自分の意見」を作っていく。けれども、そんな言葉はすでに制度化されたものですから、ちっとも血が通っていないわけです。ちょうどゴジラか何かの着ぐるみを身にまとっているように、「自分のもの」のような気がしない。 言葉の意味の変遷というのは、現実の方がこのような制度化された意味体系では間に合わなくなって、言葉があとからそれを追いかけるという形で変わっていきます。 「地球温暖化」という言葉にしても、「地球」という、本来ならわたしたちには大きすぎて、はっきりと概念化できない大きなものごとを、「温暖化」という言葉と組み合わせる、一種の換喩的表現を用いることによって、とらえやすいイメージとして呈示しているわけです。 この「地球」という言葉と「温暖化」という言葉の組み合わせが出てきたとき、多くの人はたちどころにそのイメージを理解し、新鮮な感動を覚え、多くの共感を持ってきたと思います。けれども言葉は人口に膾炙されるごとに、制度化され硬直していきます。ちょうど「椅子の脚」というメタファーが、今日、メタファーですらなくなっているように。そこで硬直した表現に飽き足らなく思う気持ちが出てくる。 そこにまた新しい仮説が登場する。それは科学者にとっては、従来の仮説では間に合わなくなった現実を理解するための仮説です。当然ながら、厳密な検証作業と実験が要請されていきます。ところがそれが「言葉」でしかない人びとにとっては、制度化された言葉を揺るがし、風通しの良いものとして受けとめられる。 そこではより奇抜な意匠が好まれるでしょうし、かつまた、たちどころに古くなる。 おそらく昔から人はそうしてきたのでしょうが、以前との相違点として、現代ではかつてないほど多くの人が、「書かれたもの」にさらされ、同時に「自分の意見」を「書かれたもの」として産出する機会に(良くも悪くも)恵まれている、ということかと思います。 おそらくその「書かれたもの」の洪水は、旧来型の書き手や科学者にも影響を及ぼさずにはおかないだろう。そのとき、いわゆる「知」であるとか「科学」であるとかはどのように変質していくのでしょうね。

noname#135843
質問者

お礼

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 > まず質問者さんの拠って立っておられるところを確認させてください。  はい、こちらの方向性でお願い申し上げます。社会的な見地からのご意見、厚くお礼申し上げます。 > ところがそれぞれに「自分の頭で考えた」かのように語られるこうした「意見」は、あきれるほどいくつかの類型にそのまま沿ったものです。  まさしく仰るとおりかと存じます。 >「地球温暖化」という言葉にしても、(字数制限上、以降は省略させていただきました)  確かに、今では、“「水戸黄門」の葵のご門”のようになっているかと思われます。単純化することにより、分かりやすくはなっているのですが、実際はそう単純なものでもなく…..   さらには、「制度化され硬直していきます。」全くそのとおりかと考えております。 > おそらく昔から人はそうしてきたのでしょうが、以前との相違点として、現代ではかつてないほど多くの人が、  19世紀以前、“意見をするということ”すら、思いつきもしなかった大衆が、今では、主役に踊り出ているというのが実状かと推察しております。そして、その大衆も、科学者(知識人)の稼ぎ所(利用される存在)となってしまっているというのも事実かと考えております。 > おそらくその「書かれたもの」の洪水は、旧来型の書き手や科学者にも影響を及ぼさずにはおかないだろう。  既に、お互いが利用し合っているように見受けられますが、いかがでしょうか? 現実は、必ずしも“事実”を伝えているとは限らず、仮説の一人歩きが、まかり通ってしまうと考えております。 もちろん、そこには責任者なるひと(もしくはその覚悟を持ったひと)はいないのですが….. > そのとき、いわゆる「知」であるとか「科学」であるとかはどのように変質していくのでしょうね。  愚見でございますが、もし一般大衆も、その主張の結果からもたらされた“反省”なるものをすれば、少しは改善の方向にむかっていくと信じている次第でございます。少しは自己を省みてもいいとは思うのですが…..  ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

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