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科学者って?

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.4

ひところのゴタゴタに比べると、温暖化論争もwikiにてまとめられる程度の時期になってきたようですね。 地球温暖化に対する懐疑論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E6%B8%A9%E6%9A%96%E5%8C%96%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%87%90%E7%96%91%E8%AB%96 地球温暖化に関する論争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E6%B8%A9%E6%9A%96%E5%8C%96%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E8%AB%96%E4%BA%89 (科学者を含めて)人間が把握可能な事象が「全て」ではあり得ないことは当然のことです。 どこまでを信頼する・できるかどうかは、受け手の判断能力にも依存します。 上記のウィキペディアからのリンクを含めて、「どこまでが事実で、どこからが仮定で、どこからが信頼区間○○%の推論なのか?」を、十分に理解しうる人はどの程度いることでしょう。 もし、そういった「事実・仮定・推論」の記述・解釈にて、誤った情報を「意図的に」流すことが行われたなら、それは「科学者」とは呼ばれず「詐欺師」と呼ばれることでしょう。 また、「意図的でない」場合も含め、誤った情報が一人歩きするのを放置するのは「科学者」とは言えないでしょう。だからこそ、上記ウィキペディアにてまとめられる程度の論争が起こったとも言えます。 それだけのことだと思います。

noname#135843
質問者

お礼

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 > (科学者を含めて)人間が把握可能な事象が「全て」ではあり得ないことは当然のことです。  仰る通りかと存じます。 > 上記のウィキペディアからのリンクを含めて、「どこまでが事実で、どこからが仮定で、どこからが信頼区間○○%の推論なのか?」を、十分に理解しうる人はどの程度いることでしょう。  恐らく、いないと思われます。一部の”予言者(?)”なる人を除けば、でございますが(笑)  愚生が思うに、「環境問題」につきましては、とても”イデオロギー”的要素が多分に含まれているかと思われます。  従いまして、愚生の懸念するところを以下に列記してございます。 (1)”環境論者(温暖化肯定論者が多数かと察せられます)”をも、自分の主張の中に取り込み、さらにはそれを煽っている現象が見られること (2)さらには、”環境税推進派”もしくは”排出権取引採択論者”なる人がいること。  1番目に関しましては、「悪魔に魂を売ったもの」と考えてもよろしいかと存じます。また、2番目につきましては、愚見を、以下のサイトに述べております。 http://dell-support.okwave.jp/qa5247212.html   もし排出権取引なるものが実施されれば(G20ではその方向に進んでいるように見受けられます;以下のサイトをご覧下さいませ)、当然のことながら、”寒冷化”がやってきますと、バブルの崩壊がやってきます。 http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20090907AT3S0501X05092009.html  そうなれば、恐らく今までもそうであったように(例えば、住専問題のように)、 ・(NPO等に)天下りしている元官僚の批判 ・またその天下り官僚なる人がいくらの退職金をもらったか等の、聞きたくもない報道が一斉に流れるものと推察しております。  現時点では、確かに”わからない”のですが、”分かったふり”をして持論を述べている研究者には、やはり、その社会的影響度から鑑みて、それ相当の責任があろうかと思うのです。  もしよろしければ、ご意見の程頂戴いただれば幸いです。ただ、k_jinen様におかれましては、お父様のご体調がよろしくないとお聞きしておりますので、差し支えのない程度で結構でございます。  長文、ご一読いただきましてどうもありがとうございました。

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