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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:愛する人が他界するとき)

愛する人が他界するとき

anima_1960の回答

回答No.6

私自身はむしろ、愛する人間の死(他界)を経てこそ、人は一人前になるのだと思います。 友人知人や恩師の死、また祖父母の死。そのあたりまでは単に「近しい人の死」です。さらにその後、親の死(大抵は介護の年月を経たうえ)や親友の死(同年代であるだけ強烈です)、さらには配偶者の死(これはほとんど自身の死でもあります)を経て初めて、人は自分というものを、また命の意味を、生きるということの重みと深みを、知るのではないでしょうか。 死を知らないでは、本当に生きているとはいえない・・・とまで極言しても、あながち過言ではないと思うのです。 死すべき運命にある私たちは、すべからく「朽ちていく蛋白質のかたまり」に過ぎません(先年亡くなった親友の言葉です)。その事実を身をもって体験してこそ、わが身を、また自分にとって大切な他者を、愛し慈しむことができるのではないでしょうか。

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